第六章  新たなる命の行方



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 ジュリアは足を踏み入れた豪勢なダイニングで足を止めた。
 天井にはシャンデリアが飾られ、20人は座れるのではないかと思うほど大きなテーブルには、蝋燭
の立った繊細な細工の施された燭台が置かれていた。
 曇り一つないワイングラスと銀食器が並び、いますぐにでも貴族の晩餐会が開催されそうな様子だっ
た。
 その部屋のどこかから赤子の泣き声が聞こえていた。
 それに呼応したかのように、自分の腕の中で眠っていたはずの女の子の赤子もぐずり始める。
 ジュリアは腕の中の赤子を揺すってあやしながら、泣き声を探して歩き始めた。
 赤い絨毯の敷かれたダイニングには、大きな暖炉が据えられていた。
 今は火が入れられていないせいで、その内部は黒く塗りつぶされているかのように見える。
 その暖炉の内部に、タオルに包まれたものが置かれていた。
「……こんなところに」
 タオルの中で、溢れる不安を追い払おうと、両手足を振り回す赤子が泣き声を上げていた。
 ジュリアは腕の中の子を足元に下ろすと、暖炉の中の赤子を抱き上げた。
「かわいそうに、一人ぼっちで心細かったね」
 真っ赤な顔で力いっぱいになく赤子に声をかけ、腕の中にぎゅっと抱きしめる。
 今まで抱いていた赤子よりも少し重い、骨格も幾分太い赤子に、頬を寄せる。
「君は男の子なのかな?」
 次第に泣き顔から力が抜け、ぐずぐずと喉と鼻を鳴らす赤子に、ジュリアは微笑みを浮かべた。
「スイレイも赤ちゃんのときは、こんなだったのかな?」
 ささやきながら、自然な動作で頬にキスを落とす。
 赤子独特の甘い香り。
 もう一人の双子の赤子と一緒に抱き上がると、同じ胎内にいたことを知っているのか、どちらともな
く手を伸ばし、小さな手と小さな手をつなぐ。
 そしてピタリと泣き声を止めると、安心した顔で目を閉じる。
「ふふ。仲良し兄妹だね」
 ジュリアはダイニングの片隅に置かれたソファーの上に二人を下ろすと、和みながら見下ろした。
 だがその気分をかき乱す悲鳴が聞こえた。
 壮絶な女の苦痛にのたうつ悲鳴。
「マリーおばさん?」
 ジュリアは安心して眠る二人を見下ろして頷くと、走り出した。



「お母さん!!」
 スイレイに肩を貸して歩いていたペルは、耳と貫いたローズマリーの悲鳴と目に入ったジャスティス
の姿に声を上げた。
 泥と涙で汚れた顔を苦痛と恐怖で歪ませたローズマリーが、ダーツの矢で木に突き刺されていた。
 その場面だけでも凄惨で目を覆いたくなったが、その後に続いたローズマリーの狂ったような悲鳴に
足が萎えそうになる。
 折れて動くはずのない腕を辿って右手を伸ばしていく。
 木に縫いとめられた手の平に、突如として紫色の紋様が表れ始める。
 その紋様は急速に手の甲から腕へと駆け上がっていく。
「……血管だ。血管壁が破れて破裂寸前になってるんだ」
 辛うじて顔を上げたスイレイが言った。
 スイレイの状態も酷いものだった。開いてはいるが、両目からはまさしく血の涙が流れ出し、息する
たびに胸から喘鳴が聞こえる。
「ペル、行け。ぼくはここで大丈夫だから」
 耳元で囁かれた声に、ペルはうなずくとローズマリーの元に駆け出した。
 紫色の紋様は腕から首へと駆け上がろうとしていた。
 その様子を、ジャスティスは呆然とした顔で見下ろし、後退さっていく。
「姉さん、あんたは何を」
 恐れをなしたように体を震わせるジャスティスの足元に走りこんだペルが、ローズマリーの手からダ
ーツを抜き取り、投げ捨てた。
 だがすでにダーツに仕掛けられていた黄色い薬液は、全てローズマリーの体内の流れこんだ後だった。
 紫色の紋様が首から胸や顔にまで侵食していき、首筋を掻き毟るローズマリーの爪の下で血を滲ませ
る。
 その腕を掴み、ペルはもがき苦しみ、叫びを上げ続けるローズマリーを押さえつけることしかできな
かった。
「お母さん、どうしたらいいの? わたしは何をしたらいいの?」
 ローズマリーの力に押し戻されながら、ペルは叫ぶように問い掛ける。
 だが誰も、それに対する返答をすることはできなかった。
「お母さん! お母さん!! いや、死なないで。まだちゃんと娘としてお母さんと話したことなんて、
わたし、ないのに………。また独りぼっちにしないでよ!!」
 だが次第に、叫ぶペルの腕を押し返すローズマリーの力が小さくなっていく。
 顔をすきまなく覆い尽くした紫色の網目の紋様は、胸の上へ広がっていく。
 ペルはどうしようもない不安の中で、スイレイを見上げた。
 スイレイが、ペルの視線に眉をしかめ、しばらくの間を開け、首を横に振った。
「……スイレイ?」
「もう、助からないんだよ!」
 わずかばかりの希望でも見せて欲しいと望むペルを切り捨て、ジャスティスが言う。
「もう病原体が心臓の血管にまで達したんだ。もう、死ぬんだよ」
 血の塊と化し始めたローズマリーを蔑むように見下ろしたジャスティスが吐き捨てる。
 その視線の先で、ローズマリーの動きが止まり、大きく上下した胸が深く沈む。そして、それきり動
き出すことはなかった。
 ローズマリーの閉じた瞼と口から、ドロリと黒い血が流れ出す。
「は! 死にやがった! ぼくを裏切るようなことをするから。このぼくをそんな恐ろしいもので葬り
去ろうとするからだ!!」
 病原体の猛攻は命を奪っただけでは止まることはなく、ローズマリーの眼球をも破壊する。眼窩が音
を立てて陥没し、ダーツを打ち込まれてできた左手の甲は大きな潰瘍として、その傷を抉っていく。
 ジャスティスはローズマリーの死体に足音高く近づくと、唾を吐きかけた。
 そして地面にへたり込んで見上げていたペルに歪んだ笑みを見せる。そして涙を流し続ける姿に、そ
の瞳に嫌悪の光を宿す。
 ジャスティスがペルの肩を足の裏で蹴り付ける。
 その勢いに圧され、ペルの体が傾き、ローズマリーの死体の上に倒れこむ。
 ペルの体重の下で、ローズマリーの体が音を立てて崩れる。
「変異した病原体にも、ペルは耐えられるのか? おもしろい実験の開始だ!!」
 高笑いの声を聞きながら、ペルはローズマリーの血で汚れた自分の手の平や頬に呆然とする。
 ローズマリーの死体は、数秒単位で病原体の力で分解され、命を宿していた証拠である体をまで消滅
へと誘っていく。
 「姉さんも、そんな恐ろしいものを生み出すほどにぼくが憎かったのか? そしてそんなものを持っ
てまで守りたいほどにペルを愛していたのか? このぼく以上に!」
 ジャスティスが憎しみの色でペルを見下ろした。
 ジャスティスの体の横で拳が握られる。その拳が振り上げられる。
 だがその拳が振り下ろされる前にスイレイの手によって阻まれる。
 それを肩ごしに振り返ってみたジャスティスが、邪魔な障害物としてスイレイの体を突き飛ばす。
「死にぞこないが、いつまでも纏わりつくんじゃない!」
 怒声を乗せた蔑みで振り払うが、突き飛ばしたはずのスイレイの手をジャスティスの足と掴む。それ
に苛立つと、その手を踏みつける。
 スイレイの口から苦悶の声が漏れるが、ジャスティスの顔には愉悦の笑みさえ浮ぶ。
 だが不意に背後でした物音のジャスティスが振り返った。
「……お、お父さん?」
 そこにいたのはジュリアだった。
 ジュリアの目が、庭に広がる状況を把握しようと巡らされる。
 辛うじてローズマリーだと分かる死体と、その死体の傍らで血まみれで座り込むペル。
 凶悪な笑みに彩られた表情で立つ父と同じ顔をした男と、その足元で悶えるスイレイの姿。
「いやぁぁぁぁぁ!! やめてぇぇぇ!!」
 ジュリアは叫びを上げると、ジャスティスに向かって走り出した。
 その手が握っていたナイフを振り上げる。
 しかしそれをジャスティスが正面から腕で止めると、手首を捻り、ジュリアの手からナイフを落とさ
せる。
「ジュリア? わたしのかわいい娘のジュリア? おまえもわたしを否定するのか?」
 ジャスティスの大きく見開かれた目がジュリアに問いかける。
 両手首を力の限りに握り締められ、ジュリアが悲鳴を上げながら、ジャスティスの顔を見た。
 狂気に彩られた瞳の奥で、揺れ動いてジュリアに答えを求めていた。
「離して、痛い! お父さんならそんなことしない!!」
 その一言で、ジャスティスは掴んでいた手の力を緩め、ジュリアの手を離す。
 拘束を解かれたジュリアは、赤くなった両手首を摩ると、懇願の色を浮かべたジャスティスを見上げ
た。
「これはどういうことよ。どうしてマリーおばさんを殺したのよ! ペルは? スイレイはどうしたの
よ? 全部あなたのせいでしょう! あなたが本当にわたしのお父さんなら、そんなひどいことをする
はずがない!!」
 力の限りに断罪の言葉を吐いたジュリアが肩で息をつくと、傷つき顔をゆがめていくジャスティスを
見つめた。
「ああ、……そうか。………ジュリア、おまえもわたしを不必要なものとして切って捨てるつもりか。
……必要なのは、現実の世界にいるジャスティスのみ。そういうことか」
 俯いた顔から暗い声が漏れる。
 体中から負のオーラが噴き出すのを感じ、ジュリアは喉を鳴らしてつばを飲んだ。
 ジャスティスが黒い影で覆われた顔の中で爛々と光る瞳で、ジュリアを睨みつける。
「おまえがそういうつもりでいるのなら、ワクチンはやれない。そのおまえの大事なお父さんを救って
やることはできない」
 言いながら、おもしろそうにジャスティスの口角が上がっていく。
「………」
 ジュリアは進退を極められ、言葉を無くして立ち尽くす。
 救いを求めて周りを見ても、ペルは呆然と座り込み、スイレイは苦しげに地面に転がされているだけ
だった。
「ワクチンが欲しいのだろう?」
 ジャスティスが誘惑の悪魔のように囁く。
「この二人の双子の赤ん坊はどこだ。おまえは知っているのだろう?」
 一歩を踏み出しジュリアに近づくジャスティス。
 それに呼応してジュリアの足が後退さる。
「なぜ逃げるんだ? わたしはおまえのために言っているんだよ。わたしにとって、現実に生きるジャ
スティスなど、生きようが死のうが知ってことではない。でも、おまえが救いたいというなら、手を貸
してやろう。ただし、おまえがここでわたしと生きるという約束をするならばだ」
 その言葉に、ジュリアが衝撃に打たれたように足を止めた。
「わたしがここで、あなたと生きる?」
「あなたではない。おまえの父だ。おまえの父親のジャスティスだ」
 ジャスティスはあえて足を止めると、ジュリアに向かって両腕を開いた。
「わたしは、おまえと会える日を何よりも心待ちにしていた。娘として抱きしめ、ともに家族として愛
して生きていくことだけが望みだ」
 このわたしが受け入れられるか?
 究極の選択が、脅迫の言葉でジュリアに差し出される。
「……そんな……」
 ジュリアは選べない選択の前で震える膝を感じながら立ち尽くした。
 大好きなお父さんのことは助けたい。
 だが、それと引き換えに、もうあのお父さんの腕の中で甘えることはできなくなるというのか?
 顔だけはそっくりでありながら、全く別物のこの男の腕の中で生きることなど、選択できるのだろう
か?
 孤独に狂ったこの男と。
 惑うジュリアに、意地の悪い笑みで眉を上げて見せるジャスティス。
 だがその瞳の中にある別の光に、ジュリアは気づいて苦しみに目を閉じた。
 身を切りつけるような悪意に満ちた選択を迫るほどに、目の前のジャスティスも追いつめられている
のだ。
 もう誰にも拒絶されたくない。何ものよりも大事に育ててきた娘への愛情を否定されたくない。どう
か、この腕をとって欲しい。
 そんな叫びが聞こえそうなジャスティスの目の奥にある気持ちに、ジュリアは胸の中で悲鳴を上げた。
 できない! どんな選択もしたくない!
 逃げ出したい。
 こんな世界から逃げて、もとの平安に満ちた世界に帰れるのなら、今すぐにこの場から自分を消し去
りたかった。
 だがそれは叶わない。たとえ逃げ出したとしても、そこに待っているのは、現実のバイオハザードで
死んでいく父の姿なのだ。
 ジュリアはぎゅっと目をつむると、爪が食い込むほど強く手の平を握った。
「わかった」
 ジュリアは悲鳴を上げる自分の気持ちに目を背け、声に出して言った。
「わたしはここに残る。赤ちゃんのところにも連れて行く。だから、ワクチンを作って」
 覚悟を決めて目を開く。
 その目の前で、ジャスティスが仇を見るような目で見るジュリアに苦笑を浮かべながらも頷く。
 そしてもう一度開いている腕を示す。
「わたしはおまえの何だ?」
「………お父さん」
 ジュリアは歩き出すと、ゆっくりとジャスティスの胸に頭を預けた。
 ジャスティスがその肩をしっかりと抱きとめる。
「おまえはわたしの娘だ。最愛の娘だ」
 ジャスティスはつぶやくと、抱き起こしたジュリアの顔に微笑みかける。
「ワクチンを作ってやろう」
「……うん」
 ジュリアは頷くと、庭の中に座り込んでいたペルを見た。




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