第六章  新たなる命の行方




 ペルの顔が上げられ、ジュリアを見上げる。
「………わたしの赤ちゃん………」
 血に塗れた顔で涙を滲ませ、ペルがつぶやく。
 その声に、ジュリアが目を反らした。
「ごめん」
 小さな声で言うと、ジュリアがジャスティスの手を引いて歩き出す。
「ジュリア!」
 ペルが叫ぶ。
「やめて! あの子たちを殺すようなことは!!」
 ペルの叫び声が追いすがる。
 血だまりの中から立ち上がったペルが、二人の後を追って走り出す気配が伝わってくる。
 そんなペルに立ち止まったジャスティスが、片足を蹴り上げる。
 その足をみぞおちに受けたペルが、腹を抱えて蹲る。
「ペル!」
 胸を押さえて、こみ上げる嘔吐感にペルが口を手で覆う。
 ジュリアは不敵に笑うジャスティスに恐怖を感じながら、逆に手を引かれて歩き始める。
「赤ん坊はどこだ?」
「……食堂に」
 ジュリアの気持ちに揺らぎが生じていることを焦るように、ジャスティスが足早に進んでいく。
 ジュリアは引きずられるように進みながら、自分のした選択に思い悩む。
 お父さんを助けたい。
 だがそれと引き換えに生まれたばかりに赤子の命を犠牲にする。
 目の前に迫った食堂の扉が開かれ、中から赤子の上げる泣き声が聞こえ始める。
 生まれてからまだ与えられない乳にお腹をすかせているのかもしれない。あるいは、母親が側にいて
くれない不安か。
「こんなところにいたのか」
 ジャスティスの目に狂喜が浮かぶ。
 求めていた玩具を目の前にして、振り回して壊そうとする危うい子どもの愉悦。
「お父さん!」
 思わず声を上げたジュリアに、ジャスティスが振り返る。
「ワクチンには、この子たちの血がどのくらい必要なの?」
「………こんな、スイレイとペルがおまえを裏切った末に生まれた子どもにまで、慈悲の心か?」
 傷を抉るように言うジャスティスの前で、ジュリアはぐっと息を飲む。
「辛いなら、目を背けていればいい。こんな生まれたばかりの子どもの上げる泣き声など、すぐに止む
から」
 ジャスティスがジュリアの肩を掴むと、泣き声を上げる赤子たちに背を向けさせる。
 そしてジュリアの背中で、器具を取り出して血を抜く準備を始める。
 カチャカチャと立てられる硬質な音に、ジュリアは耳を塞ぎたくなる。
 頭の中を様々な想像が走っていく。
 柔らかな生まれたばかりの肌に突き立てられる太い針。
 その針先から流れ出す真っ赤な血と、それを吸い取るチューブ。
 ピンク色の肌が、次第に蒼ざめ、上げる泣き声が途絶えていく。
 その横でともに胎内で過ごした兄妹の危機を感知した赤子が激しい泣き声を上げる。
 ジュリアは耐えられない思いで頭を両手で覆った。
 心が引き裂かれそうだった。
 父を救うためにしたはずの選択に苦しむ。その選択のために幼い命が奪われるのには耐えられない。
 だが現実の世界で消えていく父の命を前に、また選択の間違いに苦しむのは自分なのだ。
「や、……やめて!」
 ジュリアは振り返ると針を手にしたジャスティスの腕を掴んだ。
「今ごろ遅い!」
 ジャスティスはジュリアの胸をドンと押すと、赤子の首元に針を刺した。
「ダメ! やめて!!」
 激しく上がる赤子の泣き声。
 透明のチューブの中に流れ込み始める、真っ赤な鮮血。
 ジュリアはテーブルの上にセットされていたフォークを手に取ると、ジャスティスの腕に突き刺した。
「……うっ」
 うめき声を発して怯んだジャスティスを突き飛ばし、ジュリアは赤子の首から針を抜き、 血を溢れ
させる首筋を押さえた。
「ごめんね、ごめんね」
 烈火のごとく泣き声を上げる赤子を抱き上げ、ジュリアがジャスティスから逃げ出そうとする。
「待て!」
 そのジュリアを、ジャスティスが鬼の形相で睨みつけた。
「なぜわたしから逃げる!」
 呪いの言葉のように吐き出される言葉に怯え、ジュリアが後退さる。
 それを追おうとするジャスティス。
 だがそのジャスティスの背中に、ペルが立っていた。
 ペルには不似合いの斧が、その腕の中にあった。
 血の色に全身を染めたペルが、ゆらりと斧を振り上げる。
 ジャスティスがジュリアに刺された腕を抱えたままに振り返る。
 その眼前に迫る鈍い光を放つ斧の刃。
 ガツンという音を立てて振り下ろされた斧が、床に突き刺さる。
 重さによろけたペルの前に、足元ぎりぎりで斧の刃を避けたジャスティスがいた。
 ペルが床に刺さってしまった斧を抜き取ろうと手を伸ばす。
 だがジャスティスがいち早く動き、ペルを突き飛ばす。
 力の限りに突き飛ばされたペルの体が文字通り宙を飛び、床に打ち付けられる。
 そのペルを見下ろし、ジャスティスが斧を手に取る。
 ガっと音をたて、床板を割りながら持ち上げられた斧を、片手に構える。
「お父さん、やめて!」
 ジャスティスがしようとしていることに感づき、ジュリアが叫んだ。
 だがその声を無視し、ジャスティスがペルに向かって歩を進める。
 脳震盪を起して起き上がれずにいるペルを、ジャスティスが憎悪に暗く濁った目で見下ろす。
「まさしく災いの子だ。自分の血族のためなら、凶悪な殺人さえいとわないというのか? 悪魔の子よ」
 ジャスティスが断罪を下す死の裁判官のように告げる。
「災いの子よ、わたしの前から消えていなくなれ」
 見開かれた目がペルを見据え、斧が振り上げられる。
 その斧が頂点に達したとき、部屋にたどり着いたスイレイがジャスティスの腕に飛びついた。
「やめろ!」
 勢いに任せて飛び掛られ、ジャスティスの手から斧が離れて飛んで行く。
 スイレイの体とジャスティスの体がもつれ合って床の上に転がる。
 喘鳴の音を立てる胸で、スイレイはジャスティスの胸の上に馬乗りになると、拳をその顔に叩き込む。
 振りぬかれた腕の下で、ジャスティスの鼻から血が噴出す。
 だがスイレイの持てる力はそこまでだった。
 倒れこむスイレイを腹の上から振り落とし、ジャスティスが起き上がる。
 そしてスイレイの襟首を掴み上げると、お返しとばかりにその顔を殴りつける。
「しぶとい男だ! さっさと死ねばいいものを!」
 スイレイがただされるがままに自分の腕の中で揺れるさまに、ジャスティスが笑みを浮かべる。
「もう、誰にもわたしの目的を邪魔させな………」
 高らかに笑い声を上げてジャスティスが言ったときだった。
 ジャスティスは自分の胸でした音に言葉を途切れさせた。
 いや、続けることができなかった。
 胸から急速に空気が抜け、違和感が突き抜けていく。
 握っていたスイレイの襟首を離し、自分の胸を見下ろす。
 そこには、背中から突き抜けた斧の刃が顔を覗かせていた。
 痛みはまだない。
 ジャスティスは背後を振り返る。
 そこには、口を手で覆って震えるジュリアの姿があった。
 自分の手から離れて飛んでいった斧を、ジュリアが自分の体に叩き込んだのだ。
 ジャスティスの膝が折れ、がくんと床に崩れ落ちる。
「ああ………おとう……お父さん」
 床の上で口から血の泡を噴き始めたジャスティスに、ジュリアが涙を流して駆け寄る。
 ジャスティスがもう音を発することのできない口を動かし、ジュリアに向かって手を伸ばす。
 震える手でその手を握ったジュリアが、床に崩れたジャスティスの体を抱きとめる。
「ごめんなさい………お父さん……わたし……わかってるの………どんなにわたしを愛してくれている
のか………でも……でも……」
 嗚咽に震えて叫ぶジュリアの顔に、ジャスティスは手を伸ばし、その頬に触れた。
 ジュリアは目を開き、ジャスティスの顔に涙の雨を降らせながら見つめる。
 ジャスティスが首をかすかに横に振ると、口元に笑みをのせる。
 そして胸のポケットから一枚の紙を引き出そうとする。
 その手を握り、ジュリアが何度も頷く。
 ジャスティスの唇が動き、言葉を紡ぐ。
 声のない言葉。
―― ジュリア。愛しているよ。
 ジャスティスの瞳から光が消えていく。
 ジュリアは泣き声を上げながらジャスティスの顔を抱きしめた。

 

back / 第ニ部 裁きの天秤top / next
inserted by FC2 system