第六章  新たなる命の行方



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「……ここは」
 腕にぐっすりと眠る赤子を抱いたローズマリーは、研究所の隣りに建てられていた邸宅に足を踏み入
れ、そこに広がる景色に足を止めた。
 白を基調した花の咲き乱れるホワイトガーデンの中で、一際目立つ木があった。
「オレンジの木」
 今は白い花をつけたその木が、ローズマリーの脳裏にある記憶を呼び起こす。
 昔、弟ジャスティスとともに幼少期を過ごした家。
 いつも世界中を飛び回る音楽家であった両親に代わり、ジャスティスを育てながら二人で過ごしてい
た家が目の前にあった。
 暖かい日や、学校が休みの日には朝食や昼食を共にとった中庭のテラスには、あの日を再現したかの
ように白いテーブルとイスが並んでいた。
 目を閉じれば、昔のあの日のままに、氷を浮かべたオレンジジュースを飲みながらボーっと庭を眺め
るジャスティスを思い浮かべることができる。
 繊細で悩みをそのうちに溜め込んでしまうジャスティスは、何も言わずに庭で世界から遊離していく
時間があった。
 絵を描きながら、今いる世界ではないどこかへと飛翔していく。
 それを何も言わずに見守っていた在りし日の自分に立ち戻っていく。
 幻覚の中のジャスティスの持つグラスの中で、透明な氷がクルリと回り、カランと音を立てる。耳に
は聞こえることのない幻覚の中の光景。
 ローズマリーは腕の中の温かさと重みに我に返ると、レースのカーテンが揺れる部屋の中に入った。
 ジャスティスの描いた絵で満ちた居間には、レンガの暖炉があった。
 その暖炉に近づき、ローズマリーはそこに忠実に再現されていた傷に、懐かしさを感じるとともに、
ここにいる孤独に毒された弟と同じ記憶を持つ存在に心を乱した。
 ローズマリーとの言い合いの果てに癇癪を起したジャスティスが、一度だけ花瓶を投げ落とし、欠け
させてしまったレンガがそのままにそこにあった。
「ここにいるのは、本当にあの日のことも知っているジャスティスなのね」
 ローズマリーの目元に、暗い影が落ちる。
 これから自分がしようとしていることが、本当にできるのか自信が揺らいでいた。
 すやすやと眠る赤子の寝顔を見下ろし、自分の中に広がる動揺を抑えようとした。
「この子たちを守るためには、必要なことなのよ」
 躊躇えば、全てが無駄に散っていくことになりかねない。どんなに足掻いたところで、ここにいるジ
ャスティスに幸福な未来などやって来ることはないのだから。
 ローズマリーは目をあけると、決然と目に力をこめ部屋を後にした。



 リロードを繰り返していたとはいえ、感染以来何度も発作に襲われているだけに、乗り越え方は分か
っていた。
 ただ目を閉じ、幸せだったときを苦しみに負けずに思い描き続ければ、次第に発作という地獄の使者
は、自分に伸ばしかけた手を戻して去っていく。地獄の使者には目がない。その使者が餌食を感知する
のは、不幸という波動を発する人間を感知する触角なのだ。
 それに感知されないように、幸せだったときだけを思い描く。
 レイチェルとはじめてしたデートのこと。
 照れて隣りで歩いていてもうつむくばかりだったジャスティスに、レイチェルの方がジャケットの中
のジャスティスの手を握って、はじめて手をつないだのだった。
 そうだ。いつだってレイチェルとは手をつないで歩いていた。腕を組むのではなく。
 その方が、幸せな気持ちに浸れるんだもん。そう言ったのはレイチェルだった。
 確かに腕を組んで歩くほどに、自分に女性をリードする気概はなかった。もっと一緒にいる時間を楽
しむ、対等な関係でありたかった。
 いつまでも仲のよい友達のように。出会ったばかりの恋人のように。
 レイチェルの初めて食べさせてくれた手料理は酷かった。
 気張ってディナーを用意してくれたのは分かったのだが、グラタンの中のポテトはまだ生煮えで、コ
ンキリエはガリガリと音を立てるほどだった。でも、サラダボールにてんこ盛りにされたグリーンサラ
ダはやたらうまかった。
「どうせ千切っただけの料理だもの。わたしの手が入らなければ入らないほど、おいしいってことよ」
 口を尖らせて言ったレイチェルだったが、自分で口に入れたポテトの立てる音に、顔を顰め、次の瞬
間にはジャスティスを見て噴出していた。
「あなた、よくこんなの飲み込んでたわね」
 あのときの顔は傑作だった。
 自然と思い出すだけでジャスティスの顔に笑みが浮ぶ。
 申し訳なさと感謝と、恥ずかしさと愛しさと。
 主婦むきの女性ではなかったかもしれないが、最高の恋人で妻であった。
 ジャスティスは蹲っていた体を丸めながら、地獄の使者の手が遠ざかっていくのを感じる。
 最後に幸せの余韻を残して思いに浮んだのは、ジュリアが生まれた日のことだった。
 まだ赤い、猿のように皺をよせた顔の娘が、だが何者にも変えがたく愛しく、世界一のかわいい赤ん
坊に思えた。
 腕の中で頼りなく動くその命を、大切に腕の中に抱きしめ、そっと頬に唇を寄せる。
 ミルクと赤子特有の甘い匂いが鼻をくすぐる。
「この子はどこにもやらないぞ」
 子どもを産み終えて疲れた、でも幸せな空気に満ちた表情で見つめていたレイチェルが笑う。
「それって、この子は嫁にはやらないってこと?」
「そう」
「なんて気の早いパパなんでしょうね」
 レイチェルのしっとりとした低めの笑い声が耳の奥に残る。
 その声を胸に刻みながら、幸せな幻想から現実へと立ち戻っていく。
 ジャスティスは目を開けると、自分の手の平を見下ろした。
「なんとか治まったか」
 すでに潰れてしまった片目のために、視界の半分は闇でしかなかった。
「これで眼球破裂なんて起されたら、盲目じゃないか」
 自分の口から乾いた笑いが盛れる。
 まだだるさの残る体にムチ打ち、ジャスティスが壁に手をついて体を起す。
 そのジャスティスに、声が掛かる。
「ジャスティス」
 よく知るその声に、ジャスティスが顔を上げる。
「姉さん」
 ローズマリーが立っていた。




「来たわよ」
 ローズマリーはかすかに震える声を抑え、顎をツンと上げるとジャスティスに言った。
 そんなローズマリーの態度に、ジャスティスがフッと口の端に笑みを浮かべる。
「さっきもチラッとだけど姿を見たよね。確か、ぼくのことを偽者呼ばわりしてくれた気がするけど?」
 ジャスティスの友好的とはいえない物言いに、ローズマリーの喉が鳴る。
「そうね、確かに言ったわ」
 ジャスティスが一歩を踏みだす。
 それにつられて、ローズマリーの足が一歩下がる。そして震えていた膝に気づく。
「ククク」
 必死に膝の震えを堪えるローズマリーに、ジャスティスが笑い声を上げる。
「そんなに恐ろしいかい? ぼくの存在そのものが怖いのかな? それとも、この眼球まで無くなって
変わってしまった外見?」
 確かに収めておくべきものを失った眼窩は、抉れるようにして凹んでいた。それだけで優しい顔立ち
に陰が生まれる。
「……自分に向けられる憎悪に殺気が込められれば、わたしだって恐怖くらいは感じるわ」
 吐き捨てるように言ったローズマリーだったが、ジャスティスを睨むようにして見つめる。
「ワクチンがあるって本当なの?」
「ああ。嘘は言わないよ。でも、そのワクチン製造には姉さんが隠した赤ん坊の血が必要だけどね」
「どのくらい?」
「………赤ん坊には命の危機が訪れるくらいには?」
 皮肉に笑ってみせるジャスティスに、ローズマリーは顔を顰める。
「あの子は、わたしの孫になるのよね」
「ずいぶんと美しいおばあちゃんだ」
 揶揄する言葉が掛けられる。
「でも、その孫の命と、ずっと自分の手で育ててきた弟の命、天秤にかけたらどちらに傾くんだい?」
 意地悪な選択肢を並べて、ジャスティスが腕組みして壁に寄りかかる。
 ローズマリーは何も答えずに、じっとおもしろい見世物を見学するような顔でいるジャスティスを睨
みつけた。
「わたしの弟が、そんなに意地悪な人間であったとはね」
「弟? ぼくを弟と認めるんだ?」
 芝居がかって両手を開いて問う。
「ジャスティスなんでしょ? 何が個人を特定するのか? DNA? それとも個人の持つ記憶? 感
情? その全てにおいて、あなたはジャスティスそのものなんじゃないの?」
 ローズマリーはふっと笑いを漏らすと、ジャスティスに背を向けた。
 そして今しがた姿を現した部屋へと入っていく。
「この家、あなたが大学を出て就職するまで、二人で一緒に暮らした家よね?」
 ローズマリーが振り返る。
 開け放たれたドアの中には、女性が暮らしている様子を残した部屋があった。
 天蓋のついた大きめのベットと、ドレッサー。
 籐のテーブルとイス。テーブルの上には、紫色の野の花がグラスに生けられていた。
 そして、白い壁の上に飾られた絵。
「ここ、わたしの部屋よね?」
 ローズマリーの後について部屋に入ったジャスティスが、無表情で見つめ返す。
 その鉄面皮のような顔に、ローズマリーは壁の絵を指でトントンと叩いてみせる。
「こんなものまでちゃんと再現してくれたんだ」
 屋敷のいたるところに飾られている絵とは違う、ヘタクソな子どもの絵だった。真正面から描いた長
い髪の女の人の笑顔。
「わたし、こんな風に笑ったことあったかしら?」
「たまにはね。たいていはつりあがった目で怒ってばかりだったけど」
 絵には紙で作ったリボンがつけられていた。
「見せられた時に、確か「ヘタクソ」って言ったのよね」
「ああ。泣かされた」
 憮然といったその言葉に、ローズマリーが笑い、ジャスティスも笑う。
「本当はわたしの顔を描いてくれたんだって、嬉しかったのよ。その照れ隠し」
「知ってるよ」
 目があった二人の間に、いくぶん緊張の解けた柔らかな空気が流れる。
「あなたにとって、わたしは家族なのかしら? それとも、もう不必要な存在?」
 じっと心の底を探るような深い目が、ジャスティスに問い掛ける。
 その目を見つめ、ジャスティスが言う。
「だったら、こんな部屋を用意していると思う? 姉さんをここへ呼んだりなんてしない」
「本当に? あなたには、レイチェルとジュリアが全てなんじゃないの?」
「どうして?」
「だって」
 ローズマリーはふて腐れた顔で壁の絵を見上げる。ポケットに両手を突っ込んだ姿で、顎でその絵を
示す。
「この家にあるわたしの絵は、これ一枚きり」
「は!」
 その言葉に、ジャスティスが笑う。
「なんだよ。姉さんの絵を描けっての?」
「別にそうじゃないけど………」
 そう言いつつも、向けた背が本心を語っているようにジャスティスには見えた。
「分かったよ。今すぐにだって描いてあげるよ」
 ジャスティスはそう言って「待っていて」とローズマリーに告げると、背を向けた。
 その瞬間だった。
 ローズマリーがポケットの中から手を抜く。
 そして手に持っていたものを構えた。
 黄色い液体を満たしたダーツの矢が、ジャスティスの視界にもかすかに入る。
 ためらうことなく宙へと放たれた矢が、鋭く空気を切り裂く。
 的はジャスティスの背中。
 回転しながらジャスティスの背中に迫るダーツの矢。
 バイオハザードによって引き起こされた奇病をもたらすプリオン。それを改良して増殖を早めた変異
体。それが薬液の正体だった。
 その矢を受ければ、ものの数分で死は訪れる。
 ローズマリーの脳裏に、深々と背に矢を刺したジャスティスの姿が描かれる。これで全てが終る。
 だが、それがジャスティスの背中に突き刺さることはなかった。
 かすかに体を傾け、指を背後に回したジャスティスが、こともなくダーツの矢を掴む。
 手を返して二本の指の間に挟んだダーツを、ローズマリーに向かって差し出す。
 ジャスティスの顔に、今までとは違う、暗い笑みが浮ぶ。
「姉さん。ぼくはチャンスを上げたんだよ。受け入れるチャンスをね。でも、それを仇で返してくれた
ようだね」
「……どうして……」
「どうして分かったかって? 姉さん。ぼくが何年、姉さんと一緒に過ごしていたと思うんだ? 写真
にも撮られるのを嫌う姉さんが、絵を描けなんていうと思うか? 下手なんだよ、芝居が」
 ジャスティスは馬鹿にした視線でローズマリーを見下ろす。
 そして手の中のダーツを振る。
 チャポチャポと音を立てる黄色い薬液を、覗き込むようにして見つめる。
「これは? 麻酔薬なんて安易なものじゃないよね?」
 自分を見つめるジャスティスの陰鬱な笑みに縁取られた目に、ローズマリーは後退りした。
 ローズマリーの体の中を、恐怖が走りぬける。
 分かりたくないほどに、確かな事実として、体の中をジャスティスが全身で発する言葉が突き抜けて
いく。
―― 殺してやる
 殺される。
 ローズマリーの背中が、テラスへと通じるガラスのドアに当る。
「これが何なのか教えてくれないの?」 
 次第に笑みを消しながら、ジャスティスがローズマリーへと迫る。
 ローズマリーは背中にあるドアノブを回す。
 だが鍵が掛かっているために、ガチャガチャと神経を逆撫でる音を立てるばかりだった。
 無我夢中で鍵を外し、開け放ったドアから庭へと走りだす。
 逃げている場合ではない。自分の手でジャスティスを葬ると決めたはずではないか?
 そんな理性の声がローズマリーを責める。
 だが本能が殺気を滾らせた男から逃げよと、命令を下す。
 悶える足を必死に動かしながら、背後から迫る男を返り見る。
 レースのカーテンの向こうから悠然と足を運ぶジャスティスの、黒く縁取られた顔が真っ直ぐにロー
ズマリーを睨む。
「教えてくれないなら、姉さんの体に直接聞くとするよ」
 囁くように小さな声が言う。
 だが確かに聞こえたその声に、ローズマリーが走り出した。
 それを見ながら、ジャスティスが猛然と追い始める。
 背後から迫る足音に、ローズマリーの口から悲鳴が漏れる。
 女の足で男から逃れることができようはずもない。
 髪を掴まれ、痛みに仰け反ったままに、地面に引き倒される。
 そして倒れた衝撃に息を詰まらせたローズマリーは、自分の体から聞こえた嫌な音に目を剥いた。
 ボキという明らかに骨の折れた音が、左腕から聞こえた。
 その腕の上にあるジャスティスの足と、あらぬ方を向いた自分の腕。
「ああぁぁぁぁぁ!!」
 脳髄を突き刺すかのように走った痛みに、ローズマリーが叫びを上げた。
「痛いか? そうだ。痛いだろうよ。でも、姉さんはぼくにもっと酷い痛みを与えたんだ。違う
か!?」
 心の悲鳴を乗せた怒鳴り声に、だがローズマリーは答える余裕はなかった。
 ジャスティスは投げ出された折れた左腕を掴み、さらに痛みを与えようと庭の中を引きずっていく。
「いやぁぁぁぁ! 止めて! ジャスティス!!」
 悲痛に叫び、腕を抑えたローズマリーが引きずられていく。
 ジャスティスはローズマリーを庭のレモンの木の根元までひいて行く。
 そして折れた左腕を木の幹の押し付ける。
「ぼくは死なない。生きるんだ。たとえ姉さんがぼくを必要としてくれなくても」
 黄色い薬液が揺れるダーツを握りしめる。
「待って!」
 ローズマリーが叫ぶ。
 だがその叫びと同時に、ジャスティスはローズマリーの手の甲にダーツを打ちつけた。
 木の幹に縫いとめられるように、ローズマリーの手を貫通した矢が突き刺さっていた。



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