第六章  新たなる命の行方



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 暗い闇に落ちた部屋を、カーテンのない窓から差し込む月の光が妖しく照らし出していた。
 部屋に足を踏み入れた瞬間に、スイレイが最初に気づいたのがむせ返るほどにキツイ、甘い花の香り
だった。
 濃厚に鼻腔から脳へと纏わりついて奥底にまで侵入する甘い生生しい香り。
 ジャスティスの気配を探りながら、同時に異質な気配の漂う部屋の様子に目を奪われる。
 元は資材庫などに使われていたのだろう。スチールの棚などがあることはあるのだが、それらは壁側
に全て寄せ集められ、雑多な用具がその棚の中に乱雑に詰め込まれていた。
 その棚の隙間から、部屋の床一面を覆うものが、月の白々しい光に照らされていた。
 吸血植物を思い浮かべさせる紅い花。
 それが床といわず、空いた棚や机の上で咲いていた。
 部屋で栽培されているという雰囲気ではない。もう、その紅い花が、この部屋の全て。その部屋の主
だった。
 この部屋に寄生した禍々しい意志を持った存在。
 一瞬でも気を許せば、その毒々しい緑の茎が足元から絡みつき、苗床にされるような恐怖が足の先か
ら這い上がる。
 そんな恐怖を与えながら、同時にどうしても触れたくて堪らない魅力にも満ちていた。
 動脈血を結晶にしたような紅い花びらは、ビロードのように滑らかそうで、頬に触れればどれだけの
快感を与えてくれるのだろうか。そして、触れた瞬間には、瑞々しい花びらが命の泉のような雫を零し
指を紅く汚しながら潤わせてくれそうだった。
「……なんだよ……これは」
 スイレイは自我を乗っ取られそうなその香りに酔いながら、明確な意識を取り戻そうと首を強く振っ
た。
 だがその行いに強いめまいがスイレイを襲い、足元がフラリと揺れる。
 そしてその瞬間を待っていたかのように、スイレイの背中を強く押す手があった。
 スイレイの体が紅い花の中に勢いよく転がされる。
 眼前に迫る紅い誘惑に両手をついて目をつむる。
 スイレイの手の下で花が押し潰されてその体液を滲ませ、手の平の傷の中に侵入していく。
 自分を突き飛ばした人間を確かめようと振り向いたスイレイは、だが目の前に迫っていた、自分に向
かって倒されようとしているスチールの棚に、頭を両腕で覆った。
 棚に載せられていたものがすざまじい音を立てて床に転げ落ちる。
 そして同時にスイレイの体を上から押し潰し、起き上がることが出来ないように拘束する。
「スイレイ。なんて素晴らしい眺めだろうな。俺の足の下で、ただうめいていることしかできない姿を
さらしてくれるなんて」
 ジャスティスの揶揄する声がスイレイの背中に降り注ぐ。
 そして棚に足をかけて体重をかけた瞬間に、スイレイが大きくうめき声を上げた。
 棚とジャスティスの体重に、肋骨が嫌な音を立ててはずれる。そして肺から空気が押し出されて息が
吸えない恐怖をスイレイに与える。
 ジャスティスが銀色のスチール棚の上を歩き、ギシギシと揺れる金属の音を立てる。
 そしてスイレイの真上に立つと、しゃがみこんで紅い花に埋もれた髪を掴んで持ち上げた。
 あらぬ方向に首を持ち上げられ、傷ついて血を流すスイレイの口からさらに悲鳴に似た唸りが漏れる。
「なかなか男が傷ついて顔を歪める図というのもそそるものがあるな。もっといじめて泣き叫ばしてや
りたくなる。今、君の頬にある傷をねっとりと舐め上げてやったら、君はどんな顔と声で鳴いてくれる
んだろうね」
 ジャスティスの愉快で堪らないという声に、スイレイは罵りを返したかった。
 だが息さえままならない今は、ただこの苦痛から解放して欲しいと願うだけだった。
 ジャスティスが髪を離すと、叩きつけるようにスイレイの頭を床に下ろした。
「なかなか発病してからの反応が遅いな。さすがカルロスが作った完璧な免疫機構を持つ人間というと
ころか?」
 ジャスティスは呟きながら、何かを探して辺りを見回す。
 そして目に入ったものに愉悦の笑みを浮かべる。
 ジャスティスが手に取ったもの。それはガラスの試験管だった。
 それの尻の部分を棚のスチールにぶつけると割る。
「スイレイ。おまえがなかなか発病して苦しむ姿を見せてくれないから、わたしはもっと残酷なゲーム
を思いついてしまったじゃないか」
 スイレイは辛うじて片目の視界に霞んで入るジャスティスの試験管を掴んだ姿に、力なく囁いた。
「……何を、……何をするつもりだ」
 ジャスティスがおもしろそうに笑う。
「おまえが姑息な手段でわたしのリロードを奪った。それはわたしにとって不利な要素でもあるが、逆
転の発想で有効に使わせてもらうとするよ」
 そう言った瞬間、ジャスティスがうめき声を上げて歯を食いしばった。
 ジャスティスはスイレイにガラス片を突き刺され潰れた眼球に自分の指をつき立てていた。そして見
えなくなっていたとは言え、未だ神経とつながったままの眼球を自らの力で引きちぎる。
 顔一面を血の本流で染めながら、獣のように唸り声を上げる。
 そしてその暴力の本能を糧にして、さらに残虐性を強めたジャスティスが、手にしていた割れた試験
管をスイレイの背中につきたてた。
「ああぁぁぁぁぁ!!」
 強烈な衝撃として背骨の中を突き抜けた感覚に、スイレイが叫びを上げた。
 その試験管の中に、ジャスティスが自分の血を流し込んでいく。
 試験管の中にスイレイの体から湧き出した血と、ジャスティスの血が溜まっていく。
「たとえ今はまだ病原体に対抗していたとしても、それを上回る量の病原体を一度に体内に受け入れれ
ば、いったいどうなるのだろうな?」
 自分の目を手で覆いながら、ジャスティスがスチール棚の下で悶えるスイレイを見下ろし嘲弄する。
 そして赤黒い血の満ちた試験管に自分の引きちぎった眼球をポンと入れる。
「ぼくからのプレゼント」
 そう言ってから、何を思ったのか、紅い花を一輪手折る。
 そしてそれを試験管の花瓶に飾ると、満足したように頷く。
「美青年の苦しみ悶える背中に咲いた一輪の死花」
 まるで美しい絵画を眺める恍惚とした表情で、足元に完成した芸術を見やる。
「この背中の傷から、黒い羽が生えでて堕天使にでもなってみせてくれると最高なんだがな」
 ジャスティスは呟くと、スチール棚の上から飛び降りる。
「さようなら、スイレイくん。最後に素敵な美術品になれて君も嬉しかろう」
 高らかなジャスティスの笑い声が上がる。
 その声が次第に遠ざかっていくのを聞きながら、スイレイは背中から確実に侵入しようとしている紅
い花の触手に犯され、恐怖と麻薬に似た恍惚の中で意識を失っていった。




「スイレイ?」
 ペルは足を伝い落ちる出産後の血液を流しながら、スイレイを探して研究所の中を歩いていた。時折
起こる眩暈に壁に手をつき、足を止めながら進む。だが、気持ちは焦るばかりでゆっくり休むこともな
く、目の前が真っ暗になりながらも足だけは引きずるようにして進んでいた。
 スイレイとジャスティスが通ったであろう道筋を見つけるのは、別段難しいことではなかった。
 開け放された扉を進めばいいだけだった。
 その途中、床一面に散らばった資料の紙と、一緒に混じった自分の写真があるのに気づいた。
 こんなに写真が撮られていたことに、全く気づいていなかった。
〈エデン〉の中を、無防備な顔で歩く自分を見つめていた目があったなどとは。それも、必ずしも好意
的ではない謀略に満ちた目で見ていた目が。
 ペルは足を踏み入れた部屋の悪臭に顔を顰めた。
 動物の匂いには他ならないが、尋常ではない腐敗臭と排泄物の匂いが部屋の空気の中に充満していた
。
 そして進める足元に触れた大きな塊に目を落とし、それが何なのかに気づいた瞬間に止まりそうにな
った息に体を震わせた。
 猿の死体だ。ペルが見たことのある猿よりも大きなサイズの親猿なのだろう。
 その死体があらぬ格好で床の上に投げ捨てられていた。
「酷い………」 
 ペルは、それがジャスティスが作為的に行ったことだと感づき、部屋の中を見回した。
 割れたガラスが床に広がり、野獣の牙のように鋭利に尖ったガラスの嵌った窓からは、冷たい夜風が
吹き込む。そのたびに断末魔に似た音が上がり、ペルの神経を逆撫でた。
「スイレイ?」
 ペルはもう一度名を呼びながら、足元のガラスを踏み砕きながら足を進めた。
 目の前には開け放たれたドアがあり、その向こうに暗闇の中で荒れ果てた室内が見えていた。
 倒れた棚が部屋の中央を覆い隠し、乗っていたであろうものを皆投げ落としていた。
 甘く濃厚な花の香りが漂い出てくる。
 一瞬の暗雲の切れ間から、月の光が差し込む。
 その光に浮かび上がったのは、きらりと光るガラスの試験管を背中から生やして倒れたスイレイの姿
だった。
 棚の下敷きになり、赤黒い花の中で息耐えたように目をつむるスイレイの姿に、ペルは一瞬見たもの
を信じられずに硬直した。
 だが次の刹那には蒼白になった顔で倒れた棚を掴み上げていた。
 常日頃では決して一人で持上げることなど不可能な重さの棚を、渾身の力で持上げ、側にあった木箱
を足で手繰り寄せ、つっかえ棒にする。そしてできたわずかばかりの隙間でスイレイの息を確かめる。
 弱く聞き逃しそうな息遣いだったが、確かにスイレイの呼吸する音が聞こえた。
「スイレイ!」
 ペルはスイレイの血を湛えた試験管と、そこに生けられた紅い花に目を向けた。
 ジャスティスの憎しみが具現化して、スイレイの背中に突き立てられたようにさえ見えた。
 ジャスティスがどんなに望んでも行く事のできない現実の世界から来た人間への憎悪。こんな自分の
ような理不尽な存在が生まれるきっかけを作ったスイレイやペルの存在。そんな罪の申し子のような二
人が幸せに過ごしていた〈エデン〉という世界。
 ペルはスイレイの脇の両手を入れ、棚の下から引きずり出す。
 ペルの足の下とスイレイの体の下で紅い花が潰され、より濃厚な生の香りを立ち上げる。
「う、うう……」
 スイレイが意識を戻してうめき声を上げる。
「スイレイ!」
 ペルはスイレイの背中の傷を庇うように膝の上に抱きしめると、震える体を抱きしめた。
 目を開けたスイレイが、痛みに顔を歪めながらもすぐ側にあるペルの顔に安堵した息を漏らし、その
頬に手を添える。
「赤ちゃんは?」
「ちゃんと産んだよ。もう一人は女の子だった。その子はジュリアに託した」
「ジュリアに?」
 スイレイが白濁する意識の中で、ペルの言葉を復唱して頷く。
 だが、ペルの頬に触れる手はとどまることがなく震え続けていた。
 ペルはその手を握り、その意味を悟って涙を零した。その涙がスイレイの手を濡らし、顔を寄せたス
イレイの頬にも零れる。
「そんな。スイレイが発病するなんて………」
 押し殺した泣き声は、嗚咽となって漏れる。
「大丈夫だよ。これは裁きの天秤なんだ。生き残る方法はちゃんとある」
 スイレイは途切れそうになる声を奮い、涙を零すペルに伝える。そしてペルの手を握り返すと目をつ
むったまま微笑んだ。
「愛情に飢えた孤独な人間ほど発病する。なら、自分の中に愛し愛されているという自信があれば、越
えられる裁きなんだ」
 冷や汗で濡れた前髪に指を掻き分けながら、ペルがスイレイの顔を見下ろす。
「裁きは皆有罪ではないんだよ。……ぼくは生き残ってみせるから」
「うん」
 ペルはスイレイの頭を抱きしめ、祈るように頷いた。

 

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