第六章  新たなる命の行方



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 ジュリアが激しいのめまいの伴う不安定なジャック・インの末に降り立ったのは、見たことのない豪
華な邸宅の中庭だった。
 幾何学模様を描くように空中にそびえるアーチの上には、色とりどりのバラが絡みつき、甘い香りを
放っていた。
 雨によってできた露玉が、月光を受けて鮮やかに輝く幻想の庭。
 地面に円形の模様を描き出す足元のレンガを踏みしめながら、目の前の屋敷へとゆっくりと足を向け
る。
 淡い色合いを空一面に広げるスモークツリーの柔らかな花が風にそよぐ。
 まるで妖精が飛び交っていそうな空間だった。
 その庭に白いテーブルとニ脚のイスが並んでいた。 
 テーブルの上には透明な水を湛えた水差しとコップが並べられ、コップにはピンクのガーベラが溢れ
落ちそうなほどに生けられていた。
「お父さんが好きな花」
 そっと花に顔を寄せ、その香りを胸の奥にまで吸い込む。
 中庭からテラスが続き、その奥にカーテンが揺れる開放された居間があった。
 居間は暗闇に落ちているために詳細は見えないが、暖炉の上やテーブル、サイドテーブルの上に蝋燭
が立てられ、ゆらゆらと揺れていた。その赤みがかった赤銅色の光に照らし出されるのは、趣味のいい
調度品に囲まれた部屋だった。
 部屋のいたるところに大小さまざまな絵が飾られていた。
 ジュリアは室内に人の気配がないのかと、辺りを見回しながら足を踏み入れる。
 途端に鼻とついたのが甘いアロマランプが立てる花の香り。
「ジャスミン?」
 ゆらめく無数の蝋燭を見つめながら、ジュリアが部屋の中の絵を眺めていく。
 春の庭を描いた甘い柔らかなピンク色が溢れた絵。
 金色の髪を緑色の芝生の上に軽やかに散らしながら、笑顔で眠る女の人の肖像画。
 そして、木々の色と空の蒼い色を映した湖を背にして佇む少女の横顔。
 その顔を見た瞬間に、ジュリアの中にデジャブに出会ったような違和感が駆け抜けた。
 かつて見た光景であった。
 この絵の中の光景に、確かに自分が立っていた記憶があるのだ。
「あれは………お父さんと二人で行ったフィンランド。お母さんが子どもの頃を過ごした場所だからっ
て………わたしが16歳の時」
 記憶の中の自分が見た光景と、その父が見たであろう自分の姿が絵の中でオーバーラップしていく。
「でも、どうしてそのときの絵がここに………」
 ジュリアにはローズマリーが何度か口にした言葉の意味が分からなかった。
〈エデン〉にいるもう一人のジャスティスが――。
 お父さんは、研究所のP4施設の病院に収容され、隔離されているのであって、なぜ〈エデン〉など
と一緒に語られるかが分からなかった。だから当然のように、その後に続いた言葉にも無関心を決め込
んでいた。
 そのジャスティスが、今回のバイオハザードを起した張本人で、ゲーム「裁きの天秤」を通して現実
の世界に紅い花を送り込んできた。
 もう一人のジャスティス。それが自分の父と同じ名前であるだけで、本当に父と関係がある人間であ
るとは、思いたくなかったのかもしれない。心の耳を両手が塞いでいたのだ。
 だが、今目の前にある絵を目にして、もう塞いでいた両手を離さなくてはならない事実にぶち当たっ
てしまったのだ。
「ここにお父さんが?」
 言いながら、ジュリアは混乱して乱れていく思いに、額に手をついた。
「そんなはずない。なら、現実の世界で発病してワクチンを待っているお父さんは? ここにいるお父
さんって、なに? そのお父さんが、本物のわたしのお父さんを殺そうとしたって、そういうこと?」
 ジュリアはその答えを探すかのように、暖炉やサイドテーブルの上に置かれた額の中の絵を片っ端か
ら見ていった。
 写真の代わりのように、金髪の女性の笑顔や寝顔、後ろ姿が描かれていた。そしてそれと同じだけの
数で、自分の幼いときから今現在の大人の姿までが、様々な表情と背景の中に描かれていた。
 最後に手にした絵は、あきらかに〈エデン〉にジャック・インしていたジュリアが花園のリンゴの木
の上で昼寝をしていたときの姿だった。太い枝の上に腹ばいに横たわった幸せそうな寝顔。
 その絵の裏に見慣れた父の几帳面な文字が並ぶ。
―― 早くこの腕にジュリアを抱きしめたい。レイチェルとジュリアを両手いっぱいの愛で
 その文字を見た瞬間、ジュリアはこみ上げてきた涙に戸惑いながら、両手で口を覆った。
 自分に向けられた痛いほどの愛情が、その文字一文字一文字から溢れていた。
 この世界にいるジャスティスという存在が、どのようにしてこの世に生まれたのかは知らない。だが、
彼が自分を娘として愛する気持ちに偽りがあるとは思えなかった。
 そしてその深い愛情が、また今回の惨劇の引き金であることも。
「わたしはどうしたら………」
 ジュリアは顔を手で覆うと、床の上に蹲り、こみ上げる嗚咽を堪えらえられずに震えながら声を上げ
て泣いた。
 お父さんを助けたい。
 だがそのために、自分はこの〈エデン〉で自分を焦がれて待っていてくれたもう一人のジャスティス
に何をしなければならないのだろう?
 その手を振り切り、逃げていけばいいのか? 
 それとも、現実の世界の父の命を狙ったジャスティスに、復讐の牙を剥けがいいのか?
「わからないよ。わたしはどうしたらいいの?」
 みんなが幸せになるって難しいね。
 スイレイの言っていた言葉が甦り、ジュリアは決して全てにとって幸せが訪れない残酷な運命に絶望
して声を上げた。



 激しい息をつきつつ、胸に抱き上げた新たな命の暖かさに、ペルは笑顔を浮かべた。
 元気に両手をギュッと握った赤子が、声を限りに上げて泣き声を上げていた。
「よく生まれてきたね。会えて嬉しいよ」
 血と油脂に塗れた体を手で摩ってやる。
 真っ赤な顔をますます赤くして泣き声を上げる赤子を愛しく思い、涙が浮ぶ。本当に産んでよかった
という気持ちで抱きしめる。
 女の子の赤子は、ペルの胸の上で抱きしめられ、泣きながらも柔らかい胸の感触に頬をすり寄せる。
 そのペルが、聞こえた足音にハッと顔を上げた。
 だが足音は酷くゆっくりで、静かな足の運び方だった。
 ペルのいる部屋の中を覗き込んだ人物。
「え? ペル?」
 なぜか赤い目をしたジュリアが、突然現れたペルに呆然とした顔で足を止める。
 だがすぐに、そのペルの胸の上に生まれたばかりの赤子が抱かれているのに気づいて、はっとした様
子で駆け寄る。
「赤ちゃん、一人で産んだの?」
 信じられないと憤りを一瞬見せたジュリアだったが、すぐに優しい看護師を思わせる笑顔でペルを見
下ろすと、汗で濡れた額にキスを落とした。
「がんばったね、ペル」
 思っても見なかったジュリアの賞賛と喜びの表情に、ペルは思わず声を殺して涙を流して頷いた。
「ジュリア、ありがとう」
 ジュリアまでつられたように再び涙を浮かべると、その涙を隠すようにベットサイドに置かれていた
器具を手に取った。
 その器具で、器用にまだ赤子と繋がっていたへその緒を切る。
 そして「お風呂にいれてあげないとね」とペルにいい、赤子を大事そうに抱き上げてお湯の張られて
いたタライへと歩いていく。
 お湯に入れられた赤子は、途端に泣き声を止め、気持ちが良さそうに目をつむって口を尖らせる。
「赤ちゃんって、本当にかわいい。目に入れても痛くないっていうけど、分かる気がする」
 ジュリアはお湯から上げた赤子をタオルに包みながら、ペルを振り返って見る。
「ペルとスイレイの子どもだからかな?」
 そのジュリアの言葉に、だがペルは素直には喜べずに、かすかに口の端に笑みを凍らせることしかで
きなかった。
「……ジュリア………」
 言いかけたペルに、ジュリアが少し哀しそうに微笑むと、何も言わないでと首を振る。
「わたし、ペルとスイレイのこと祝福してるんだよ。もちろん、スイレイのことは大好きだけど、この
半年以上をペルに会えずに過ごす中で分かったんだ。ペルのことが、スイレイと比較が出来ないくらい
に大好きなんだって。ペルと会えないことが、こんなに辛いことだなんて思わなかった」
 ジュリアが赤子を抱き上げ、ペルの前へと連れてくる。
 その顔が泣き笑いの表情で歪む。
「かわいい子だね」
 ペルの胸に抱かせながら、ジュリアが鼻をすすり上げながら涙を流す。
 赤子を腕の中に抱きしめながら、ペルはジュリアを見上げた。
 そして赤子を抱いている腕の片方をジュリアに向かって開いた。
「ジュリア」
 お母さんの顔になったペルが、ジュリアに笑いかける。
 そのペルに子ども扱いしないでよねという顔で拗ねて見せながらも、零れる涙を止めることはできな
かった。
 甘い香りのする赤子の顔の隣りで、ジュリアはペルの胸に顔を埋めた。
 優しい甘い香りを胸に吸い込みながら、ジュリアは肌と胸の奥で感じるペルの感覚に幸せに包まれな
がら目を閉じた。
 ジュリアもペルと赤子の両方を抱きしめるように両腕をめぐらせる。
「ペル。大好き」
「わたしもジュリアが大好き。わたしの大事な妹だもの」
 顔を上げたジュリアの頬に、ペルがキスを贈る。
 そしてジュリアも、ペルと眠そうに口をモゴモゴさせる赤子の頬に音を立ててキスをする。
 久しぶりに訪れた幸せの瞬間であった。




「この子を連れて逃げて」
 ベットから下りたペルは、白い産着に包まった赤子をジュリアの腕に託すと言った。
「え? どういうこと? ペルが子どもを産んだらジャック・アウトだって」
 大事そうに赤子を胸に抱えながら、ジュリアが当惑したように告げる。
「当初の予定はそうだったはず。でも、今ジャック・アウトすることはできないの。イサドラが、ジャ
ック・アウトのための処理能力を別のことに当ててるから」
「別のこと?」
 ペルは側にあった服に着替えながら、ちらりとジュリアを見てから目をそらす。
「もしかして、お父さんと関係があること?」
 ジュリアは、感じとった気配で口にすれば、予想通りにペルが頷く。
「この世界にも、ジャスティスさんがいる。でも、本物のジャスティスさんじゃない。イサドラと同じ
ように擬似人格としてつくられたジャスティスさんのダミー」
「ダミー? でも、……お父さんと同じように記憶を持っているんでしょ? わたしが娘であり、お母
さんが妻であるという記憶を持って、ここ〈エデン〉にいる」
 ジュリアは再び巡ってきた答えのでない問答の中に放り込まれ、うつむいた。
 その顔を、湿った暖かな赤子の手が触れて掴もうとする。
 不安の顔のままに、ジュリアはその赤子の手にキスを落とす。
「ジュリアのお父さんは、そんな赤ちゃんから実験のために血を抜き取ろうとするような人?」
 不意に質問され、ジュリアはペルの顔を見つめた。
「赤ちゃんを実験に使う? そんなことするわけない」
 決然と言い放ち、なぜそんなことを聞くのかと、眉間に皺を寄せる。
「そうだよね。本当のジャスティスさんは、そんなことは絶対にしない。たとえ治療でしなくてはなら
ないとしても、泣きながらしそうな優しい人だよね。だから、ここにいるジャスティスは、ジュリアの
お父さんのジャスティスさんじゃない」
 ペルはそう言って床に転がっていたナイフをも指差さした。
「これはスイレイの手の平を刺し貫いたナイフ。この世界にいるジャスティスが、わたしとお腹の中の
子どもを狙って投げた」
 床の上に血をべっとりとつけて落ちたナイフを、ジュリアは目を見開いて見つめた。
 ナイフの周りには丸い血痕が無数に落ちていた。これがスイレイの流した血なのだ。故意に傷つける
目的で突き出されたナイフによって。
「………そんな………」
 ジュリアはつい先ほど見た絵の中に溢れていた愛情とはかけ離れた行為に、頭の中で描いていた像が
崩れ去り、うろたえた。
 父と同じ顔をした、父と同じ記憶を持つ男が、ペルやスイレイ、そしてこんなに小さな赤子の命まで
もを狙って傷つけようとするような残虐な男になるのだろうか?
 ペルは呆然とするジュリアの前に立つと、揺るがぬ決意を秘めた母の顔で見つめた。
「あの男は、この子たちの血を狙っている。バイオハザードのワクチンとなる抗体を持っていると思っ
て。でも、渡すわけにはいかない」
 ジュリアはペルの言葉に瞠目して赤子を見下ろしながら、曖昧に頷いた。
「だから、ジュリアはジャスティスさんの顔をした男に見つからないように、この子を連れて逃げて欲
しいの」
「ペルは?」
 銀のトレーの中からハサミを掴み上げるペルを見下ろしながら、ジュリアが言う。
「わたしは、スイレイを助けに行く」
「スイレイを?」
「スイレイは、あの男を殺すために追っている」
「………」
 ジュリアは決してスイレイと結びつくことのない言葉に衝撃を受けながら、じっとハサミを見下ろし
ているペルの背中を見つめた。
「………ペル………」
 呼びかける声が震える。
 見つめる背中が、スイレイがしたのと同じように、自分の手で一つの命を奪う決意に固まっていくの
を目にしたからだ。
 ペルが振り返り、ジュリアの腕の中の赤子に歩み寄り抱きしめ、その頬に唇を寄せる。
「待っててね。絶対にお母さんとお父さんで迎えに行くから」
 そう呟くと、ジュリアの腕を取りじっとその目を見上げた。
「この子をお願いね」
 頷き返すジュリアに、ペルが背を向け走り出す。
 迷いのない背中が消えるのを見つめながら、ジュリアは腕の中の赤子を見下ろした。
 その頭の中をある考えが過ぎっていく。
 この子にはお父さんを病気から救うワクチンが作れる血が流れている。そしてそのワクチンの製造法
を知っているのは、この世界にいるわたしのお父さんなのだ。
 目を上げて歩き出したジュリアの目には、暗い影が過ぎっていた。



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