第六章  新たなる命の行方




 ダンというドアが勢いよく閉められた音が、廊下の向こうから聞こえた。
 スイレイはジャスティスの走ったであろう後を追って走っていた。廊下には、絨毯の上に飛び散った
血痕が点々と続く。
 二階の階段踊り場からアクリル建材の階段がつづき、階下のロビーを見下ろせる。
 そのロビーの突き当たりで、電子ロックがかかる音が聞こえる。
 階段を駆け下り、音のした部屋の前に立つ。
 ドアには資料室の札が出ている。そしてドアの横には暗唱コードを打ち込むためのテンキーが並んで
いる。
「……暗唱コード……」
 スイレイは舌打ちしながら、何か思いつくままに入力していく。
 ジャスティス。レイチェル。エデン。
 だがその文字に対する対応は全て拒絶のブザー音だけだった。
「くそ!」
 スイレイは焦る思いに苛立ち、硬い金属のドアを殴りつけた。
 ガンという重い音を立て、だがへこみ一つつくことなくドアは沈黙して、その口を閉ざしていた。
「考えろ。……暗唱コードは、意味不明な文字であるはずがない。……思い入れのあるもの。……あの
ジャスティスがこだわっているもの」
 スイレイは冷たい金属のドアに額を押し付けると呟きながら考える。
 そして一瞬、その脳裏に「裁きの天秤」のオープニングが思い浮かぶ。バイオハザートを起した村へ
乗り込んでいったのは、一人の美女だった。名はジュリ。
「……ジュリ」
 このバイオハザードの全てがジャスティスの思惑なのだとしたら、あのゲーム「裁きの天秤」を作っ
たのも彼だということになる。そのゲームの主人公、ジュリ。
 明らかに一人の人物の名前を彷彿させる。
「ジュリアか」
 スイレイはコードを入力していく。
―― JURIA
 エンターのキーに反応して、電子音が響き、次の瞬間には油圧のロックが回転して外れる音が響く。
 スイレイはそっとドアの取っ手を握り、引いた。
 開いたドアの中の様子を伺いながら、息を殺す。
 部屋の中は白々しいほどの蛍光灯の光で溢れ、床の青いタイルが寒々しい印象を与える。
 物音はしなかった。
 ドアに身を押し付けながら、スイレイは喉を鳴らして唾を飲んだ。
 いつジャスティスが反撃に出てくるか分からない。しかもこちらは丸腰だが、ここは彼の勝手知った
る研究所なのだ。どんな武器を備えているのか分かったものではない。
 だがいつまでもここでへばりついているわけには行かないのだ。
 スイレイは意を決すると、部屋の中に飛び込んだ。そしてすぐに目についた棚の影に身を潜める。
 それと同時に響いた鋭い空気を裂く音と、何かが突き刺さる音。
 スイレイが今潜り抜けたドアの横の壁に、ボーガンの矢が深々と刺さっていた。
 さっと目をめぐらせれば、構えていたボーガンを投げ捨て、両手いっぱいの資料を抱えたジャスティ
スが身を翻すところであった。
「待て!」
 スイレイが立ち上がって声を上げる。
 だが白衣の裾をなびかせ、ジャスティスは走り抜けるとドアを抜けていく。
 そのドアに、またしても鍵を掛けられる音がする。
 だがこのドアはガラス張りで、蹴破ることも可能な様子であった。
 スイレイはガラスのドアに手をつき、走り去っていくジャスティスを見送る。その足元や背後に、白
い紙が舞い散っていく。
 スイレイは自分の足元にもある資料を手に取った。
 それがおそらくジャスティスが先ほど捨て台詞のように残していった言葉と関係があるだろう資料だ
ったからだ。
 ワクチンの製造法を記した資料。
 だがスイレイが手にした資料に載っていたのは、おぞましい解剖記録写真をそえた動物実験の資料だ
った。
「J1の発生メカニズム」
 そう題された資料には猿の写真が貼られ、ジャスティスの几帳面な文字でジョーエットと記されてい
る。
 その猿の写真が日を追って貼られ、コメントが並んでいる。
 トロンと瞼が垂れ下がった顔の次の写真では、唇も垂れ下がって歯茎が剥き出しになっていた。
 次の日には倒れて起き上がれなくなったジョーエットの鼻や目から黒い血が流れ出していた。コメン
トには眼球融解と記されている。歩行、食べ物の咀嚼が不可能。顔面の筋肉の弛緩ともある。
 そして次の日には前日と全く同じ姿で写真に写ったジョーエットがいた。
 そしてコメントは呼吸困難とあり、続く言葉は死亡であった。
『ここ数ヶ月に及ぶ、〈エデン〉におけるバイオハザートの原因は、ジョーエット(ミドリ猿)の子、
ジョエルの研究室脱走に端を発している』
全てを総括するように、ジャスティスの推察が続いている。
スイレイは床から続きとなる資料を拾いあげると、その文字を追った。
『研究所周辺の森に赤い花の群生が見られ始めたのは、ジョエル脱走の一週間前からである。おそらく
この時、ジョエルは花を食べるか、踏み荒らした末に、花の液を傷口に付着させたのだろうと考えられ
る。
後に分析の結果、この赤い花には幻覚物質が含まれていることがわかった。
そしてこの花を接取後、血中に多量のホルモン物質が検出されることが分かった。
そのホルモン物質だが、感染した個体によって検出されるものが異なるのが、特徴となっている。そし
てその差異が、伝染病からの生還か否かの分かれ目ともなる』
 それに続く資料に、血液検査の結果が記されていた。
 死亡したとされるグループの動物の血中には、アドレナリンやコルチゾンが見られ、生還グループに
エンドルフィンが見られる。
 アドレナリン、コルチゾンは、ストレス時に分泌されるホルモンであり、エンドルフィンは脳内麻薬
とも呼ばれる、快感や楽しみを感じさせる物質だ。
 スイレイの脳裏に、ジャスティスの言葉が甦る。
 愛に飢えた孤独な人間ほど発病する。
『発症し、死亡した動物を解剖した結果、脳内及び眼球から、多量の変異したタンパク質片を発見した。
プリオンである。
このプリオンを含んだ試料を接種した動物が、同じように発症した。また紫外線照射によってDNAを
破壊した試料には九〇パーセント以上の感染力があり、タンパク質分解酵素を加えたものには感染がな
かったことから、このプリオン蛋白が、病原体であることを同定した。
このプリオン蛋白であるが、分子構造が、アポトーシスを司るカスパーゼの一種に酷似している』
アポトーシスとは、細胞の自殺のことである。DNAの指示に従い、不要とさせる細胞が自ら死んでい
く人体システムのことだ。
そのアポトーシスを誘導する物質がカスパーゼである。
 そのカスパーゼと酷似したプリオン。
 スイレイはその事実に、血の気が引く気がした。
 アポトーシスが異常を起したら、本来必要とされる器官までもが消滅していく可能性があるというこ
となのだ。
アイスナインという話がある。地球上にある氷を、アイスワンとする。そこにアイスナインという、組
成成分は全く同じ(H2O)であるが、構造の異なる氷を一つ落とす。
アイスナインは硬い結晶で、氷点が五十五℃
そのアイスナインが一つ海の落ちただけで、その一粒が成核剤となって全ての水がアイスナインになっ
てしまう。海はたちまち凍りつき、七〇%を水分とする人間も凍りつく。地球は凍りついた死の惑星と
なる。
何らかの経過で、たった一つのプリオンが体内に入ると、体中にある正常なカスパーゼは、異常型と姿
を変え、以後体内で生成されるカスパーゼは全て異常型のみとなる。
赤い花の接種によるホルモンの大量分泌。そしてプリオンの発生。
これが〈エデン〉におけるバイオハザート、伝染病JYの鍵なのだ。
その時、スイレイの手にしていたファイルから、ひと綴りのレポートが滑り落ちた。
そしてそこにある写真を拾いかけて、手を止めた。
大きな腹で散歩をしているペルの姿を写した写真だった。
スイレイは写真を裏返した。
そこにジャスティスの文字が並ぶ。
胎児にCED―9?
 アポトーシスは、ただの暴走特急ではない。ブレーキが存在する。それがCED―9である。
 カスパーゼを不活性型にする蛋白質、CED―9。
 ジャスティスは生まれてくる子供たちに、そのCED―9があると思っているのだ。
「その理由は?」
 スイレイは床の上に散った写真に目を落とした。
 ペル。
 ペルは〈エデン〉で毎日生活していながら、発病することがなかった。あるいは。ジャスティスはす
でに試していたのかもしれない。ペルに何らかの方法で赤い花に接触させ、ペルが発病しないという事
実を。そしてその理由を、胎児に見出した。
 だからジャスティスは子供たちを確保したいのだ。
 現実の研究所に送り込んだバイオハザートを完成させるためにも、〈エデン〉で起きているバイオハ
ザートから自分の身を守るためにも。
 スイレイはファイルを床に投げ捨てた。
 ここでも過去に自分たちの中に刻まれた因縁が絡み付いてきたのだ。
 完全な免疫システムを持つスイレイとペル。
 ペルが発症しないのは、そう作られているからなのだ。子どもたちは関係ない。いや、子どもたちは
自分とのより濃い遺伝子の配列によって、より強固な免疫システムを持っているのかもしれないが。
「クソ! どこまでぼくたちを苦しめれば気が済むんだ!」
 スイレイは部屋の片隅に据えられていた踏み台を掴むと、ガラスのドアに投げつけた。
 激しい破砕音を響かせ、ガラスが粉々に砕かれて飛び散る。
 その美しくもあるガラスの雪を見つめながら、スイレイは憎むべき相手を見失って心を乱していた。
 今実際に自分やペルに敵対して害なすはずのジャスティスは、だがジュリアへ血が滲むほどの切実な
思慕を募らせている。完璧な父親の愛情で。それがたとえ間違った方法を取っているのだとしても、人
間として持つべき愛情をその胸のうちに宿している。
 それに比べて、父カルロスにはその心を揺るがすほどの愛情があるとは思えなかった。
 この自分とペルに纏わりつく呪いの発端は、全てカルロスであり、そのカルロスの撒き散らした災厄
の種は、様々な人を巻き込み毒々しく開花したのだ。紅い花として。
「ぼくは、あんたを憎む。決して許さない!」
 スイレイは足元のガラスを踏みしめながら、ジャスティスの後を追って走り出した。


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