第六章  新たなる命の行方




「イサドラ、ジャスティスとレイチェルの動きを拘束。どのくらいもつ?」
 どこから現れたのか、ローズマリーの後ろからスイレイも現れる。
 そして涙と汗に濡れたペルに駆け寄ると、胸の中に抱きしめた。
「ごめん、遅くなった」
 確かにそこにあるペルの体温の高い体を抱きしめ、溢れそうになる涙を堪える。
 そしてペルはスイレイの存在を確かめるように、何度も手をその背中で上下させる。
 その様子を、かろうじて目だけは動くジャスティスが憎悪を溢れさせながら眺める。
 だがその眼球の動きも次第にイサドラに封じられ、映画の静止画像のように完全に停止する。
 ローズマリーは止まったジャスティスの手から注射器を抜き取ると、泣き続けている赤子を抱き取る。
「どのくらいの間、二人を拘束しておけるの?」
 空中に声をかけたローズマリーの前に、かろうじて人型をとったイサドラが現れる。
「ハッキングで壊された機能の修復を一時中断した状態で10分が限度です」
「…10分?」
 腕の中の赤子を見下ろしながら、ローズマリーがスイレイの胸に顔を埋めて泣いているペルを振り返
ってみる。
「スイレイ、子どもは――」
 用意されていた産湯に赤子をつけると、途端に泣きやみ、安心したように目をつむる。小さな唇が何
かを求めるようにもごもごと動く。
 ローズマリーの顔にも思わず笑みが浮く。
 だがその幸せに浸ることのできない不安がすぐ後ろに控えていた。
「こどもは双子なのよね」
 スイレイは悲愴な表情で頷き、ペルの不安に震える肩を力づけるように握る。
「もう一人、これから産まれるはず」
 そう言った途端に、ペルが再び始まった陣痛に顔を顰めた。
 とてもあと10分で産んで逃げるなどということは不可能だった。
 顔を見合わせて答えを探すスイレイとローズマリーに、ペルが苦痛に唸りながら叫ぶ。
「赤ちゃんはわたしが産む。だからお母さんは今腕の中にいる子を守って! 今すぐに逃げて」
 叫んだ声がすぐに悶えるうめきに変わる。
 ローズマリーがスイレイを見つめる。
 その視線に、スイレイが頷く。
「ペルはぼくが守りますから」
 そう答えながらも、その顔がこれから迎えるだろう事態を思い、蒼白になっていた。
 10分以内に子どもは無事に産み落とせたとしても、ジャスティスが再び動きだすことになる。そし
て、スイレイとは違い、この世界にプログラムされた命として、何度でも傷を癒し、再生することがで
きる。たとえ殺したとしても、時間を戻しゲームの登場人物のように生き返ることが可能なのだ。
「ジャスティスの再生能力を消すことができます」
 そのとき、そう言ったイサドラの目の前でレイチェルの姿が砕けて宙に溶けていく砂のように消え始
める。
「レイチェルの人格形成プログラムを破壊しました」
 すでに頭が消えて首から下だけになった体が粉雪のように舞い散っていく。
 表情のないマネキンのように姿を現したイサドラがスイレイに向き直る。
「ジャスティスのリロードの能力に一時的に干渉することができます。その間に命を絶つことができれ
ば、彼は永遠にこの〈エデン〉から消え果ます」
 命を絶つ。殺すことができれば。
 スイレイはその意味に震えそうになる手を握り締めた。
「ただし、そのことに専念しなければならないので、ペルが出産を終えたあとにジャック・アウトさせ
るシステムが起動させられません。これは同時に、スイレイやローズマリー、ジュリアにも命も危険に
晒すことを意味します。このジャック・アウトができない状態で命の危機に瀕した場合、現実の体にも
死が訪れる可能性があります」
 淡々と感情のこもらない声が伝える重い事実が、肩に圧し掛かるように感じる。息苦しさを感じるほ
どに。
「それでも……ジャスティスを殺すこと以外にこの子たちに平安を与えてやれないんじゃないの?」
 すっかり眠り込んだ赤子をタオルに包みながら、ローズマリーが言う。
 ジャスティスの命を殺害によって奪うこと以外に道はない。
 この〈エデン〉に生き続ける限り、彼はこの赤子たちを狙いつづける。
 そしてどんなに願っても手にできない家族のぬくもりに、一人孤独に狂っていくしかないのだ。
「彼を殺すことは……解放なのよ。苦しみと狂気からの。ジャスティスの撒いてしまった間違いの種は
摘み取ってやらないと」
 そんな言葉がどれだけスイレイの救いになるのかは分からなかったが、ローズマリーはその心に去来
するであろう罪の意識を和らげるように言った。
「……わかりました」
 荒い息の中で見上げてくるペルに頷きかけながら、スイレイが言う。
「それでは、ジャスティスの再生能力を奪います。その間、ジャック・アウトすることができなくなる
ことを思いに止めておいてください」
 イサドラがそう言いおいて姿を消す。
 ローズマリーが腕の中で眠りについた赤子を抱き上げる。
「行くわ」
「お母さん。その子を守って。お願い」
 訴えかけるペルに歩み寄り、ローズマリーはその汗に額に張り付いた髪を撫で上げる。
「まかせて。必ずこの子は守る。………」
 そして何かを言おうと逡巡した後で、ローズマリーが笑顔を見せるとペルから手を放す。
「スイレイ。あとは任せたわよ」
 じっと見つめる瞳に、スイレイが頷く。
 それを見届け、ローズマリーが走り出す。
 その後ろで、次第に拘束の解け始めたジャスティスの指がピクンと跳ねた。



 完全に拘束が解けた瞬間に、ジャスティスが凝った体をほぐすように首を振り、肩を回す。
「なかなかおもしろいことをしてくれる。イサドラとかいったか? 君たちが作った〈エデン〉の管理
人」
 その余裕の浮んでいた顔が、だが次の瞬間に隣りにいたはずのレイチェルが消えている事実に顔色を
無くす。
「レイチェル!」
 そして自分の頭に過ぎった考えを否定しようとするように声を荒げて、妻の名を呼ぶ。
 だがそれに返ってくる声も、見える姿もなかった。
 憤怒に満ちた目で、ジャスティスがスイレイを見据える。
「レイチェルをどこへやった。わたしの妻を!」
「……消滅した」
 その言葉に、目を眇めたジャスティスが顎を上げて馬鹿にした態度でスイレイを睨んだ。
「そんな馬鹿な話があるか。レイチェルはイサドラなんてプログラムよりも上位にあるんだ!」
 ただ不安を煽るための陽動だと決め付けようとジャスティスが叫ぶ。
「それは、現実にいきるジャスティスさんの保護プログラムが働いた上での上位であることを忘れてい
ないか? すでにジャスティスさんの〈エデン〉での登録は抹消されている」
 告げられた事実に、ジャスティスはうつむいたままうめき声を発した。
「………おまえが、レイチェルを殺したというのか?!」
 顔を上げたジャスティスのきつく噛みしめた歯から血が滲み出す。
「なら、俺はおまえのペルと子どもを苦痛にのたうち回らせた後で、殺してやる! 絶対に!!」
 ジャスティスがスイレイの後ろで一人出産の痛みに耐えるペルに視線を定め、獣じみたうめきを発し
ながら叫ぶ。
 そして傍らのトレーの上からメスを掴み取ると、スイレイに向かって突進した。
 スイレイはそばにあったイスを掴み、その背でメスの刃を受け止める。
 キーンという硬質な金属音を響かせ、メスが弾かれる。
 その間に、イスごとジャスティスを押しやったスイレイが、その足を掬い取るように足を回す。
 ジャスティスはメスを掴んだまま、もんどりうって倒れる。
 だがすぐに立ち上がると、興奮した激しい息をつきながら笑い声を上げる。
「スイレイ。何様のつもりだ? ペルのナイトか? それともすでに父親の気分でそこに仁王立ちして
いるのか?」
 嘲笑う声を高くあげ、ジャスティスが身を揺らす。
「ペルと腹のこどもを守るために俺のことが殺せるとでも? 正義の固まりのスイレイくんが?」
 そう言ってジャスティスが自分の手首にメスの刃を走らせる。
 スッと皮膚の上に赤い線を描いた切り傷に、途端に血が滲み、溢れ始める。
「これがなんだか分かるかい? 紅い花が引き起こす奇病に冒された血だ。感染源だ。それがおまえに
かかったら、同じく感染だ。どうだ? そうしたら逃げるか? ジャック・アウトさえすれば無事だも
んな」
 流れ出した血を右手で受けながら、ジャスティスがスイレイを試すように言う。
 その挑戦的な目に、スイレイがただ沈黙したまま見つめかえす。
「ぼくはジャック・アウトしない。そして、あなたは今、自ら自分を傷つけることで失敗をおかした」
「失敗? わたしの体などすぐに構築しなお……」
 ジャスティスが右手の血を溜めたままに、傷つけた左の手首を振った。
 だがいつもは一瞬で消えるはずの傷が消えない。余裕のうちに耐えていた痛みも、激しさを増すばか
りで消えてはくれない。
「あなたのリロードの能力は奪わせてもらった」
 ジャスティスが自分の手首を握り、スイレイが三白眼で睨みつける。
「……キサマ……なぜ邪魔をする! 俺のわずかばかりの望みをなぜ奪おうとする!……俺は、ただジ
ュリアの父として、レイチェルと家族と暮らしたいだけなのに!!」
 口から流れ出す血の混じった唾液とともに呪いの言葉を吐き出しながら、ジャスティスがスイレイと、
その後ろにいるペルを眇目する。
「なにもかもお前のせいだ! 災いのこどもがこの世界にいるせいだ!」
 ジャスティスが手の中のメスをペルに向かって投げる。
 鋭い空気を裂く音を立てて、回転しながらメスが飛ぶ。
 その直線上で、ペルが瞠目する。
 だがそのメスの軌道の先にスイレイの手の平が差し出される。
 メスの刃は、何の抵抗もなくその刃をスイレイの手の平の中へとうずめ、手の甲へと突き抜ける。
 わずかに顔を覗かせたメスの先から、赤い血が雫となって滴り落ちる。
「あなたの気持ちは分かる。愛した人と生きられない苦痛がどれほどのものなのかは、ぼくにだって分
かる。でも、ぼくにはペルと自分の子どもを守る責任がある。自分の子どもを、狂った科学者に渡すこ
とはできない!」
 メスに貫かれた手を胸の前に庇いながら、スイレイが叫ぶ。
 その叫びに理性を飛ばしたジャスティスが、スイレイへと飛び掛る。
 スイレイの襟首を掴み、床に押し倒す。
「おまえなんかに俺の気持ちがわかってたまるか! 生きている意味すらも奪われ、命さえも無意味な
記号にされた者の気持ちなど」
 拳が何度もスイレイの顔に振り下ろされる。
 そのジャスティスの頭を、ブリッジで体を弾いたスイレイの足が蹴り飛ばす。
 蹴り飛ばされたジャスティスが床に転がり、脳震盪にふら付きながら立ち上がる。
「……スイレイ、わかっているか? おまえはすでに感染者だ。俺の使ったメスで手の平を貫いたのだ
からな」
 ジャスティスが額に手を当ててふらつきに耐えながらも笑みを浮かべる。
「おまえはこの病に勝てるか? この病は人を裁くんだ。自分が愛し愛される人間であるかをな。愛情
に飢えた孤独な人間ほど、簡単に発症する。だからゲームを使って誘導したんだ。孤独な人間が紅い花
のその毒牙を手にするように」
 スイレイは自分の手を貫いたままのメスを引き抜くと、ジャスティスに向かって投げた。
 それを避けたジャスティスが、不敵に笑う。
「自分の愛情を信じてこの病に立ち向かうかい? それともワクチンが欲しい? 欲しければ、この研
究所にある製造法を記した資料を見つけ出すがいい。わたしが全てを破棄するまえにね。破棄してしま
えば、製造法が入っているのは、ここだけだ」
 ジャスティスが自分の頭を指さす。
 そして身を翻すと部屋から走り去っていく。
 その後を追おうとしたスイレイは、立ち止まるとペルを振り返ってみた。
 一人自分を拘束していた拘束体を握り、こどもを産もうとしているペルをおいていこうとすることが
躊躇われた。
 だが、苦しげな息の間に顔を上げたペルが、スイレイに頷いてみせる。
「追って。スイレイはジャック・アウトできない。……ここで発病なんて、……いや」
 その言葉にスイレイも頷き返すと、ジャスティスを追って走り出した。


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