第六章  新たなる命の行方




 淀んだ空気の中に漂うのは、動物の生臭い体臭と排泄物の悪臭だった。
 明かりの消された部屋を照らすのは、窓の外から入る大きな月の金色の光のみ。その光が床に色濃い
影を無数に描き出す。
 スイレイは部屋の中に並べられたケージの間を縫うように進みながら、ジャスティスの姿を捜した。
 部屋の入り口の札にあったのは「動物飼育室」の文字だった。
 たしかに部屋の中には動物の匂いは満ちているのだが、気配がなかった。音もしない。寝静まってい
るのとも違う。生き物の命の気配がない。
 スイレイはそっと大きなケージの中をのぞきこんだ。
 空になった銀の餌を入れるトレーと水の尽きたトレーが並んでいた。
 そしてその奥に、黒々としたものが横たわっていた。
 月の光を受けて光ったもの。
 それは見開かれたサルの瞳だった。
 すでに命を失った、苦しみの果てに死を見据えたのであろう黒い大きな瞳。
 汚れた毛布の上に、やせ衰えた身を横たえていた。
「………なんだよ、これは……」
 スイレイは他のケージの中を覗きこんでいった。
 その全ての中で、明らかに餓死したり病死した動物の死体がそのままに放置されていた。
 腐敗をはじめて悪臭を放つ死体の中に、自分を一人立っていたのだった。
 そのスイレイの背後の壁に、鋭い音を立ててボーガンの矢が刺さる。
「やあ、スイレイくん。ぼくの楽園にようこそ!」
 ボウガンを構えたジャスティスが、スイレイに向かってウインクする。
 紙一重で矢をかわしたせいだろう。髪の何本かがボウガンの矢で壁に縫い取られている。
「これが楽園?」
 髪を引きちぎりながら、スイレイがジャスティスに死体で溢れた部屋の中を示す。
「そうだな。かつての楽園かな? 失敗しちゃったから失楽園か。わたしだって最初はちゃんと仕事し
ていたよ。みんなわたしに懐いてくれた。特に、このサルのジョーエットは甘えん坊でね。自分の子ど
もが生まれても、いつまでも自分の方が抱っこをせがむような子だったよ」
 ジャスティスはそう言いながらケージの一つの中からズルズルと猿の死体を引きずり出す。
 人形のように手足をブラブラと揺らせる猿の死体を、かわいい我が子を抱き上げるように胸に抱きし
めると頬擦りする。
 だがすでに腐敗をはじめた肉が崩れ、頭蓋骨の上を音をたてて滑っていく。
 その様子をスイレイは嫌悪すべきものを目にする険しい顔で見つめる。
「そんなに可愛がっていたのなら、なぜ世話を放棄した?」
 だがそんな質問は及び出ないとばかりに、ジャスティスはジョーエットの死体の手を握り、ダンスホ
ールの中で踊るように回りはじめる。
 さも楽しそうな声を上げて笑いながら、ワルツのステップを踏む。
「わたしもなかなか忙しい身でね。ジョーエットがバイオハザードで死んで以来、その原因を探るため
に多くの時間を割いてきた。そして、決して今のままでは手に入れることのできない娘との生活を獲得
するための計画を練る時間も必要だった」
「そのために動物たちの世話をする義務を放棄した?」
 怒りの滲んだスイレイの声に興ざめしたとばかりにダンスを踊る足を止めると、パートナーをしてい
たジョーエットの死体を床に投げ捨てる。
「そんな義務を課したのは、わたしに苦しみを課しただけのジャスティスだ。この世界の王はわたしだ
。〈エデン〉では、わたしこそが真のジャスティスだ。ここで暮らしていていいのは、わたしとレイチ
ェル、そしてわたしが認めたジュリアだけだ!」
 怒りの形相へと転じたジャスティスが憎しみを込めて叫ぶ。
「だが、その願いをかなえるためには、ワクチン製造に必要な免疫を持った人間が必要。そういうこと
だろ?」
 スイレイの言葉に、ジャスティスが瞳に暗い光を宿したままに笑う。
「さすがはスイレイくんだ。話が早い」
「その免疫がぼくにもあると言ったら? ぼくが協力しよう。ぼくの血を使えばいい。いくらでもくれ
てやる」
 自分の袖をまくった腕を差し出す。
 だがジャスティスはその申し出に驚いたように眉をしかめたが、すぐに嘲笑いの顔へと変える。
「スイレイくん。君は確かに優秀で優れた遺伝子の持ち主だろうがね、この病気への免疫を持っている
とは思えない」
「いや、あるはずだ。父がぼくをそう作ったんだから」
「カルロスが?」
「ああ、そうだ。ぼくとペルは完璧な免疫システムを持つ人間として操作された命なんだ」
 ジャスティスが関心を持った様子で探るようにスイレイの顔をみつめる。
「そんな話は初耳だな」
「それはそうだ。父とローズマリーが倫理に反してやっていた実験だ。隠そうとして当然だ」
 ジャスティスの関心を引けたことにスイレイは気づき、必死に言葉を紡ぐ。
「完璧な遺伝情報をもった人間を作ることが父の目的だった。その実験に卵子と生殖技師の技術を提供
したのがローズマリーだ。その実験の段階で、ぼくと女性体としてペルが生まれた。そして、父は完璧
な遺伝子をたった一代で雑種にしないために、ぼくとペルを………」
 そこまで言ったとき、不意にジャスティスの表情が動いた。
 思案するようにスイレイから目を逸らし、何か重大な事実に気づいた表情で顔を上げる。
 その目がスイレイを見て笑う。
「………なんだ?」
「カルロスは、おまえとペルが必ず惹き合うように作った。違うか?」
 あえて言葉にしなかった先を言われ、スイレイは目を見開き、口を閉ざした。
 だがその反応こそが肯定の答えに他ならなかった。
 ジャスティスの顔がえもいわれぬ喜びを見つけたように微笑む。
「残念だな、スイレイくん。君の自分の体を張った提案は感動するところだったが、やはり君に免疫が
あると望むことはできないらしい」
「どうして!」
 叫ぶスイレイだったが、不意に自分の拳を握った右手が震えていることに気づいて、その手を見下ろ
した。
「ああ、発病の第一段階だ」
 ジャスティスもスイレイの右手を見て笑う。
 スイレイは自分の右手を左手で押さえるが、震えは止まらなかった。
「そんな………なぜ、完璧な免疫システムがあるはずでは……」
「免疫システムは複雑でね。その全てが解明されているわけじゃない。でも一つ分かっていることがあ
る。一目ぼれの要因とも言われているMHCの存在だ。体に異物が入り込んだことを認識する細胞膜上
のタンパク質だ。主要組織適合遺伝子複合体。このMHCには様々な型があってね、自分の体の中に様
々な型のMHCがあればあるほど免疫力が高くなるといえるんだ。きっとカルロスは君の体の中に入れ
うる限りのMHCの遺伝子を組み込んだんだろう。そしてペルにも。だが、君たちが完璧に惹き合うた
めには、二人のMICの型を全く異なったものにしておく必要なあるんだ」
 ジャスティスはボウガンに矢をつがえながら、スイレイへと一歩近づく。
 その一歩に反応してスイレイが壁沿いに後退りする。
「人間とて動物だ。本能的に自分の子孫にはより強い種であることを願う。より免疫力の高い子どもを
得ようとするんだよ。そのためには、自分とは全く異なったMHCを持つ相手を探すことになる。重複
するMHCでは子どもにより多くの病原体から体を守るシステムを作りあげてやれないからね。それを
本能の力で嗅ぎ取った結果が一目ぼれだ。
 君とペルが惹き合うのは、その本能の力を利用した結果だ。君とペルでは自分を守れる免疫が全く異
なるということだよ。ペルが自分を守れるのなら、君にはこの病気に勝つ力はない」
 ジャスティスがボウガンを構える。
「君は発病だ」
 ボウガンの矢が放たれる。
 身を翻したスイレイの今までいた壁。それを破壊しながら矢が深く突き刺さる。
「はっきり言って、君は用済みだ。それ以上に邪魔だ。ジュリアは君のことが好きなんだろう? その
君が現実の世界に生き続けている以上、〈エデン〉でわたしと生きるという決断がつかないかもしれな
い。だから、君にはこの世から消えてもらいたい」
 狂気の笑顔で言うジャスティスが一方的にボウガンを放ち続ける。
 逃げるだけのスイレイの後を、自分の肉に受けたのなら弾けさせる結果になることを示して矢が次々
と打ち抜いたものを破壊していく。
 ガラスの瓶が割れ、窓ガラスを打ち破り、木の壁を砕き貫く。
 スイレイはその矢の先から逃げながら、床から割れたガラスの破片を拾い上げる。
 そして側にあった大きな木の箱の横に身を隠す。
 極度の興奮と恐怖に荒くなっている息を整えながら、スイレイは辺りを見回した。
 動物たちのケージの洗浄に使ったのだろう洗剤や、掃除用具がかためて置かれていた。
 スイレイの見上げた柱の向こうに、部屋の中を写す鏡がある。そこにボウガンを構えたまま進むジャ
スティスの姿が映っていた。
 慎重な足取りで一歩づつ気配を窺いながら進む姿が見える。
 スイレイは動物の餌のトレーの一つに洗剤を入れると、片手にガラスの破片を握り、柱を背に立ち上
がった。
 鏡に映ったジャスティスを身ながら、その背後へとジリジリと回り込む。
 ボウガンを構えた白衣の背中が目に入る。
「ジャスティス」
 スイレイは呼びかけ、ジャスティスの顔目掛けて洗剤の入ったトレーを投げた。
 洗剤がジャスティスが目を直撃する。
「うががあぁぁぁぁ!!」
 ジャスティスが目を焼く刺激に叫びを上げる。
 その拍子に発射された矢がスイレイの顔の横をすり抜け、頬を切り裂く。
 だがスイレイは立ち止まらずにガラスの破片を構えてジャスティスに飛び掛った。
 ジャスティスの手からボウガンを蹴り落とし、その体を床の上に押し倒す。
 両手で顔を覆ったジャスティスの上に馬乗りになり、その顔を殴りつける。
 そして怯んだ相手の腕の下で露わになった首筋に握り締めていたガラスを突き立てようとした。
 頚動脈の切断を狙う。
 だが抵抗したジャスティスの体でスイレイの体が浮き上がり、軌道が反れる。
 透明なガラスの三角形の切っ先がジャスティスの首をそれて上へと向かう。そしてその切っ先が沈ん
だのは左の眼球だった。
 ガラスの破片を通して、スイレイの手に眼球が破裂する感触が伝わる。
 それに続いたジャスティスの大絶叫。
 自分の腹の上に乗っていたスイレイを振り落とし、床の上でのたうち回る。
 スイレイは自分の手の中の血に塗れたガラスを取り落とす。
 ガラス片は床の上で脆くも砕け散る。
 発病のせいではない震えが両手を襲う。血に塗れた自分の手と、人を傷つけた感触に興奮しながら酔
っていく。
 なかば呆然とした顔で自分の手を見下ろすスイレイを、ジャスティスが唸り声を発しながら上目遣い
で睨みつける。
 そして両手で押さえた手から血を滴り落としながら、ジャスティスが立ち上がった。
「……スイレイ、貴様は裁きの天秤の裁きを身をもってうけるがいい!!」
 顔中を血に塗れさせながら、ジャスティスが叫ぶ。
 そしてよろける足で飼育室から隣りの部屋へと逃げ込んでいく。
「……待て!」
 スイレイがジャスティスの後を追う。
 部屋の上のプレートは培養室。
 窓の外の月が雲の影に入る。
 部屋の中は完全なる闇に落ちていく。



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