第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝



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 もうどうにでもなれという気分で階段を上りきると、スイレイもジュリアも肩で息をしながら階段の
踊り場に座り込んだ。
 噴出した汗がポタポタとコンクリートの打ちっ放しの床を叩き、丸い染みをつけて飛び散る。
「臭い……」
 荒い息の合間に、ジュリアが言った。
「は?」
「自分が臭い。下水の匂いが温まった体温で鼻につく。……最悪」
 言われてみれば、自分からも同じ匂いが漂っていることに気づき、ため息をつく。
 二人してへたり込んでいると、あとから平気な顔をしたフェイが上がってくる。
 もちろん汗はかいているが、息は切れていないし、真っ直ぐに起した背中は疲れて丸まってしまうこ
ともなく、いたって清々しい顔で登ってくる。
「なんだだらしないな。これしきのことで」
 フェイはゆっくりとした歩調で最後の一歩を登りきると、階段と廊下を繋ぐ扉にへばりつき、耳を押
し付けた。
「人はいないようだ。気配がない。ここから資材庫まではどのくらい?」
「右に出て廊下を30メートル直進、右に折れて道なりにまっすぐ進んで三つ目のドア。普段は誰も近
づかない場所ですから」
 スイレイは自分の額の汗を拭って手で払うと、フェイの横に立った。
「ねえ、わたしたち臭いよね。いくら白衣着ても、こう臭いと変な目で見られない?」
 ジュリアも立ち上がったものの、情けない顔で自分の服の腕の匂いを嗅いでいた。
「それよりもその顔をなんとかしろよ。疑ってくださいっていってるようなもんだ。もっとわたしは科
学者よって偉そうに」
「別に研究所にいる人たち偉そうにしてないけど。偏見」
「じゃあ、研究所で働く人らしく」
 フェイに釘をさされ不承不承うなずくジュリアだったが、フェイがドアを開けた瞬間に顔つきが引き
締まる。
 そっと顔を出した廊下に人の姿も気配もなかった。
 静まり返った冷たいくらいの気温の中に沈む研究所が、そこにあった。
 足を一歩出す。
 それだけで反響して足音が響くほどに沈黙に落ちた区域だった。
 フェイが声には出さずに指で右を示す。
 それに頷いてスイレイとジュリアが続く。
 息を殺し、静かに、だが迅速に。
 ただ足を動かし、逸る心臓を抑えて進むだけ。
 資材庫の文字が見えてきたときだった。
 規則正しい足音が聞こえてくる。明らかに訓練された兵士の一糸乱れぬ歩き方だと知れる足音だった。
 振り返ってあたりを見回すも、一本道で隠れるところとてない。
 そこらに転がるのも、身を隠すには及ばない小さなダンボールや台車ぐらいだ。
 三人が顔を見合わせた瞬間だった。
 資材庫のドアが開き、ローズマリーが顔を出す。
 そして手で少し戻れと示すと、自分は足音の方向へと歩き出す。
 毅然として迷いのない真っ直ぐな歩き方で、相変わらずの高いヒールの音を響かせながら、颯爽と進
んでいく。
「すいません。運びたい資材があるんだけど、重くて運び出せないの。少し手伝ってもらえませんか?
 お手を煩わせてしまって申し訳ないんだけど」
 少し媚を売った甘い声でささやくローズマリーの声が聞こえる。
 そして兵士二人を伴ったローズマリーが入ろうとしている資材庫の隣の部屋へと入っていく。
「今のうちに入るぞ」
 フェイの一言で、三人は資材庫の中に足音を忍ばせつつも早足で飛び込む。
 飛び込んだ部屋の中で息も止めて隣りの部屋の様子を伺う。
 フェイは音を殺すように静かにドアを握りながら閉める。
『ああ、これは確かに重い。これはいったいなんなんです?』
『生理食塩水よ。例のバイオハザードを起している病気ね、体中から血を噴出すのよ。それで失われた
血液の代わりに心臓が止まらないように常に生食をうってるの。体内を巡る水分がないことが、最も心臓
に負担がかかるんですって。でも感染者の数も増えてるから足りなくなって』
『そうでしたか。それはご苦労様です。我々が最後までお運びできればいいのですが』
『いえ、いいのよ。ご親切にありがとう。できればお願いしたところだけど、P4エリアへの立ち入り
は一部の人間にしか許されてないから』
『はい。心得ております』
 そんな会話を交わしながら、兵士が抱えているのだろう箱を外の台車の上に重量感のある音を響かせ
ながら下ろす。
「ありがとう。助かったわ。あなたたちも大変ね」
「いえ。われわれなど見回りをするだけですから」
「でも、そんな繰り返される仕事ほど、忠節心なんかが試されるものでしょう? どのくらいおきに見
回らないとならないの?」
「ほんの15分おきです」
「まあ大変。じゃあ、わたしはそんな真面目な兵隊さんのお邪魔にならないうちに退散するわ」
「何かあったらいつでもお声をかけてください」
 生真面目な兵士の声がドアの外で聞こえ、台車を押したローズマリーの足音が遠ざかる。
 ドアの外へと意識を集中させていた三人は、次第に遠ざかっていった兵士たちの足音にホッと息をつ
く。
「ローズマリーの用意してある白衣とIDを」
 フェイに言われ、入り口のダンボールの上に畳まれていた白衣二組を手に取る。
 広げて着れば、その胸のポケットにIDが挟まれている。
「たぶんこの先でローズマリーが待っている。俺はあとから行くから。さあ、行って」
 フェイがスイレイとジュリアの背中を押す。
「でも、こんな誰も通らないようなところにいて、どうやってIDを手に入れるって言うの?」
 ジュリアがフェイの胸を掴んで強い調子で囁く。
「大丈夫だって」
 フェイはそう言って笑ってみせると、心配そうに顔を顰めるジュリアの額にキスをした。
「確かに下水臭いキスだ」
 そう言って眉を上げて見せたフェイを、ジュリアがグーにした手で殴る。
「ここから出たら蕩けそうなキスしてあげるわよ」
「そりゃ期待して待ってるから」
 ジュリアの殴る手を避けながらフェイが笑う。
「じゃあ、二人とも自分の信じるとおりにやってこい」
 ジュリアの手を握り、フェイがスイレイを見つめて言った。
 スイレイとジュリアはその言葉に頷くと、資材庫を後にした。



 白衣とIDさえあれば、通り過ぎる兵士たちも特に注意を払うことなく通してくれる。
 だが研究棟に入り込んでからの方が、二人に注目する目が増えてくる。
 それはそうだろう。二人はこの研究所の人間なら誰もが知っている所長の息子と副所長の娘なのだか
ら。しかも子どものころから研究所に足繁く通っていた口なのだから。
 なぜ二人がこんなところにいる?
 そんな疑問が人々の目に浮ぶ。
 だが側にいて二人を先導しているのがローズマリーであることもあって、誰もが声をかけることがで
きずにただ目で追うだけだった。
「父さんに誰も言わないでいてくれるといいんだけど」
「……大丈夫よ。今のカルロスに余計な情報を入れることがどれだけ恐ろしいか、ここの人間なら分か
ってるわ。カリカリして怖いったらないわよ」
 不機嫌に言い捨て、ローズマリーの眉間にいつもに増して深い皺が寄せられる。
「父と何かありましたか?」
 その余りに不機嫌な顔に、スイレイが恐る恐る尋ねる。
 そのスイレイを凍りつきそうな目で睨んだローズマリーだったが、前をむくと鼻息荒く早足に進み始
める。
「カルロスへの恨みなんて、こんなところで語り尽くせるものじゃないわ。あの悪魔の悪口なんて、研
究所を埋め尽くすほど言ってやれる」
 子どものようにムキになって言うローズマリーをジュリアと二人で呆気に取られながら見上げたスイ
レイだった。
 だがローズマリーが冷静さを失っているわけではなかった。
「ちょっと、あなた」
 苛ついた棘のあるローズマリー特有の声が、側を通りかかった研究員の男に掛けられる。
「あ、あ、はい」
「地下の資材庫にある生理食塩水をわたしのデスクまで一箱運んでおいてくれないかしら」
「はい、分かりました」
「いい? 今すぐによ。緊急に必要なの。あなたのくだらない実験の手はすぐに止めて、即刻行動しな
さい!」
 魔女の一声のようにきつく言い放つと、研究員は割れるかと思うほど高い位置から持っていたビーカ
ーをテーブルの上に落とし、慌てて歩き去る。
 ビーカーから飛び散ったのはコーヒーだった。
「あの人、ビーカーでコーヒー飲んでたの?」
「別に煮沸殺菌してあれば問題ないわ」
 研究員に喋っていたときとの延長で絶対零度の声がローズマリーの口から漏れる。
「もういいって、その話し方」
 ちょっとうんざりした声で言うジュリアに、ローズマローが大きく息を吸うと、肩から力を抜いた。
「ここまで嫌われてても、けっこう良い事があるものね。何をされるかと恐れて命令には絶対に従わせ
ることができる」
「伯母さん。研究員やめても女王さまとして働けるんじゃない?」
 手でムチを振るう真似をしてみせたジュリアに、ローズマリーが眉を上げて見せたが、次の瞬間には
珍しく笑みを見せる。
「そうね。考えておくわ」



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