第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝



5

「さあ、入って」
 再び降りだした雨の中を駆けて来たペルを、ジャスティスが建物の中に案内する。
〈エデン〉には不釣合いな鉄筋の堂々たるビルの中に足を踏み入れる。
 滑るように開いた自動ドアを潜れば、冷え切った体を温める暖かな管理された空気に、強張っていた
体も緩む。
「そこに座って」
「……ありがとうございます」
 ペルは指し示されたソファーに座りながら、辺りを見回した。
 ふかふかの絨毯が引かれたロビーには、黒い皮張りのソファーが置かれ、そこにペルが腰を下ろして
いた。
 優しい色合いの花の描かれた壁紙には、趣味のいい春の木陰を思わせる絵が掛かっていた。
 二階へと上がる階段はスケルトンで洗練されたインテリアを思わせる構造で、天井から下がる電灯も
らせん状にさがる飾りが目を奪う。
「はい、タオル。ちゃんと拭かないと風邪ひいちゃいからね」
 太陽の匂いのするタオルを手渡され、ペルは笑顔で頷く。
「ジャスティスさんって、本当にいいお父さんですね」
「そうでしょ? ジュリアはその辺分かっててくれるといいんだけど」
「ジュリアだって分かってますよ。大好きなお父さんなんだって顔に書いてあるもの」
「そうかな」
 自分も濡れた髪を拭きながら、ジャスティスがペルの正面に座る。
 そしてふとその目がペルの大きなおなかに向いて、その視線の動きにペルが気付いたことに感づくと、
決まり悪そうに笑みを浮かべた。
「ずいぶんともう大きいんだな」
「……ええ。臨月ですからね」
 お互いに笑いあいながらも、言葉は続かない。
 お互いに抱えている秘密があることは口には出さなくとも明白だからだ。
 ペルはなぜ妊娠しているのか?
 ジャスティスはなぜ〈エデン〉にこんなビルを建てているのか?
 気まずい沈黙の後を継いだのはジャスティスだった。
「お互い打ち明けなければならないことがあって話が弾まないな」
 ジャスティスが濡れたタオルをペルの手から受け取ると、立ち上がってペルに背を向けた。
「まずはぼくが謝らないといけないかな。こんな風に、君たちの作りあげた〈エデン〉を無断で使用し
ているんだから。すまなかった」
「いえ、ジャスティスさんの協力がなければ〈エデン〉に入るなんてことは出来なかったんだし、もと
は研究所が所有するハード上にあるものですから、許可とかそんなものはわたしには……」
 慌てて言うペルに、ジャスティスが困ったように笑う。
「ぼくとしては怒ってもらった方がやりやすいんだけどな」
「え? じゃあ、怒りましょうか?」
 ジャスティスの言葉にペルが取ってつけたように拳を握り、頬を膨らませてみせる。
 その顔に、ジャスティスは声を上げて笑う。
「全然怒ってないじゃないか、ペル。……まあ、いいか。ペルみたいに優しい子に怒れってほうが無茶
なお願いか」
 ジャスティスの笑いにつられてペルも笑う。
「ここはね、研究所なんだ」
「研究所? そういえばカルロス研究所にちょっと似てる?」
「ああ。どうもぼくは発想力が足りないのかな? いつも通っているところと似ていたほうがやり易い
っていうのは言い訳で」
 ジャスティスはペルに手を差し出すと、その手を握って歩きだす。
「もちろんカルロス研究所よりは小さいよ。従業員はあんなにたくさんいるわけじゃないし、研究だっ
て同時にいくつもしているわけじゃない」
 ペルはジャスティスの後をついて歩きながら、ドアにつけられたネームプレートを読みながら歩いた。
 管理室。資料室。動物実験室。培養室。手術室。
 研究所特有の冷たく硬質な雰囲気は好きではなかったが、所々に飾られた絵がペルの気持ちを幾分居
心地の良いものにしていた。
 ふとその中の一枚が目をひく。
 その絵の前で立ち止まったペルに、ジャスティスが横に立って一緒に絵を見始める。
「この絵、気に入った」
「ええ。すごく暖かい」
 パジャマ姿の男の人が小さな女の子を肩車した絵だった。足元には淡い色合いの花が咲き乱れ、差し
込む朝日が二人の顔も光景も柔らかい輝きの中に溶かし込んでいた。生きる喜びが溢れた絵だった。
「これ、ぼくが描いたんだ」
「え? ジャスティスさんが? ジャスティスさんって、絵も上手なんですね」
「絵が上手だろ。も、なんて言ってもらえるようなほかに得意なことなんてないけど」
 謙遜して首を振るジャスティスに、ペルが言葉を続ける。
「そんなこと。ジャスティスさんは料理も上手だってジュリアが。それに頭もいいじゃないですか。な
んて言ってもお医者様だし」
「ペルは医者が嫌いなんだろ?」
「……ええ、まあ。でもジャスティスさんは好きです」
「それは光栄だね」
 ジャスティスが腕を組むように肘をペルの前に差し出す。
 その腕にペルは自分の手を通すと、くすぐったそうに歩きだす。
「男の人と腕組んで歩くのって慣れてなくて。血のつながった叔父さんとでも照れるな」
「……そう? でもスイレイとデートするときには?」
 その言葉にハッと顔を上げたペルだったが、ジャスティスの顔にあるのが笑顔であるのを見ると、困
ったように目を逸らせた。
「スイレイとは……手を繋いで歩くんです。……あの、このおなかの子は」
「スイレイとの子どもだろ?」
 とがめだてするでもなく言ったジャスティスに、ペルがその顔を見上げる。
「……ジャスティスさんには、……その、兄妹だって教えてもらったけど。………気持ちの整理がつか
なくて、それで………」
 ぎゅっと唇を噛みしめて見上げてくるペルに、ジャスティスはもうそれ以上言わなくていいよと首を
振って言葉を止める。
 そして組んでいた腕を外すと、小さな体で怯えたようにうつむくペルの肩をギュッと抱き締めて歩き
出した。
「恋心は理性じゃないよな。求める想いの源は魂なのかな? 体の奥底から衝動が湧き上がる。なにを
投げ出してでもその人と一緒になりたいという想い。体という障壁を乗り越えて溶け合いたいほどに。
自分を差し出したい。自分の中に相手を受け入れたい」
 真剣な顔で見上げたペルに、ジャスティスが笑う。
「ちょっと乙女チックだったかな? でもそういうものだろう? ぼくもそうだよ。レイチェルに出会
ったとき、彼女のためなら、自分などどうなってもいいと思ったよ。そしてジュリアのことも、全てを
投げ出してでも愛したい」
 ジャスティスは一室の前で足を止めると、ペルをその中に誘った。
 暗唱コードを入力し、ジャスティスの指紋の照合で開いた扉の中へと入っていく。
 一瞬見上げた扉の上のプレートは生体培養ルーム。
 その中に入って最初に目についたのが、無数に林立する培養液に満たされた水槽だった。
 透明な液体の中をきらめく水泡が下から吹き上げ、浮んだものをくすぐっていた。
 培養液の中に浮んでいるのは持ち主がないままに脈動を続ける心臓に、やけに色の白い肝臓、そして、
その横にあったのは明らかに人間の胎児だった。
 まだ人間と呼ぶにはサイズが小さすぎたが、頭も手や足の指も揃っていた。そして頭の横についた黒
い目がうっすらと開いた瞼の下から覗いていた。
「ジャスティス」
 その水槽に気を取られていたペルは、その部屋にいたもう一人の人物に、声を聞いてはじめて気づい
た。
 女性の華やかな声。
「ああ、レイチェル」
 そして自分の肩を抱いていたジャスティスの手が離れ、その女性に向かって両腕が開かれる。
 その腕の中に抱きとめられたショートヘアーの女性が、笑顔で顔を綻ばせながら抱きつく。そして交
わされる濃厚なキス。
 それを呆然と見上げたペルは、女性の頭の向こうで開いたジャスティスと目が合い、そしてその目に
ある腹の底から冷気を湧きあがらせるような視線に愕然とした。
 離れた二人が微笑み合い、女性をペルに紹介するように立たせる。
「ペル、紹介が遅れたね。彼女はわたしの妻、レイチェル。そして」
 ジャスティスが水槽の中の胎児を指さした。
「彼女がわたしとレイチェルの娘のジュリアだ」
「え?」
 ジャスティスとレイチェルがペルを両側から包み込むように手を伸ばす。
 その手から逃れるように、後退りしたペルだったが、壁に背中をぶつけて進むべき道を見失う。
「何を恐れているんだい? ぼくは君の叔父さんで、彼女は叔母さん」
 ジャスティスの顔には笑顔が浮んでいた。目の奥にある悪意をより色濃く見せるための笑みが。
「ぼくは君のおなかの子に用があるんだよ、ペル。ぼくと彼女とジュリアで、この〈エデン〉に理想の
家族を築くために」
 ジャスティスの手の中にある注射器がペルの首に押し当てられる。
 チクンとする痛みが首筋に走った瞬間、ペルは愕然とジャスティスを見つめた。
 そしてガクンと抜ける足の力に、差し伸べられたレイチェルの腕にしがみつく。
「大丈夫。子どもを産むお手伝いはしますから」
 レイチェルからは悪意は感じられなかった。だが正常な人間がもつ人間臭さが伝わってはこなかった。
 イサドラと同じ。
 そう思った瞬間に、意識が混濁する。
 スイレイ、助けて。
 ペルは口の中で呟いた。
 だがその言葉は音を成してはいなかった。

 
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