第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝




 警備室の中で談笑しながらコーヒーを飲んでいた男たちは、モニターの上についた赤いランプに気づ
いて顔を上げた。
「おい、センサーが反応してるぞ」
 兵士の一人が告げるが、平気な顔で優雅にコーヒーの香りを楽しんでいた警備員二人は今は聞きたく
ないとばかりに顔の前で手を振る。
「センサーなんてよく点くんだよ。下水だぞ。ネズミだって大量にいるし、もしかしたらワニだって住
んでる」
「ワニかよ。見たことあんのか?」
「いや、生きてるのは見たことない。死体なら結構いろんなの流れてくんぜ。今んところ人間の死体は
流れてこないがな」
 そんな会話で不謹慎に笑い合う。
「せっかくこんな芳しいコーヒー楽しんでるときに、どぶの芳香に汚されたくないね」
 警備員たちは一向に立ち上がる様子を見せずに言う。
「でも、俺たちは「はい、そうですか」って黙って見過ごすわけにはいかんでな」
 兵士の一人がM16を構えて見せる姿に、警備員たちが慌てて両手を上げてみせる。
「何ビビってんだよ。安全装置はかかってるって」
 不穏な空気の中で、白けた笑いが起こる。
「じゃあ、俺が行くよ。あとは?」
 警備員の一人がコーヒーカップを名残惜しげに下ろすと、胸のホルダーにハンドガンを挿す。
「じゃあ、俺とジム、おまえが着いて来い」
「へいへい」
 警備員と兵二人が、少しだらけた空気でモニター室に残った二人に手を振って出て行く。
 ドアを開けただけでムッと立ち込める悪臭に顔をしかめ、三人は金属の高い音を立てる階段を下りて
いった。
「なんて素敵な香水だろうね」
「本当にここにいるとこの匂いが体に染み付きますからね。覚悟してください」
 警備員の言葉に、大きくため息をつき、兵士二人が銃を片手に歩いていった。



「ほら、ねずみだ」
 壁に反響して聞こえる警備員の声を聞きながら、スイレイとジュリアは壁に身を潜めていた。フェイ
とジャックはもっとねずみの一団に近いところに待機している。
「それにしても大量だな」
 兵士の一人が言う。
 そして溜まっているねずみを蹴散らすようにして足を踏み鳴らす音がしていた。
 警備員の持つ懐中電灯の光に二人の人間の影が揺らいでいた。
「確認した。やっぱりねずみだ。また大量にうろちょろしてるから、センサーを一時切ってくれ」
 無線で連絡を入れる警備員の声。
 それに無線の雑音だらけの音が応答して何かを告げる。
「さ、帰りましょう」
 さっさと仕事を終えたい警備員が言って歩き出す。
 だが立ち止まって下を向いてい兵士が、足を踏み鳴らして警備員を呼び止めた。
「まて、ここ」
 兵士が自分の持っているライトで足元を照らした。
 ネズミが屯していた地点だった。今は男に足で蹴散らされて姿はないが、そこに明らかにネズミを呼
び寄せたパンの残骸が残っていた。
 兵隊がしゃがみ込んでパンを手の取る。
「ジャムパンだ。しかも柔らかい。袋から出したてって感じに」
「それが?」
 警備員はどうでもいいだろとばかりに、体はすでに帰る方向に向かっていた。
「おかしくないか? ネズミはいつもいるとしても、ここで買ってきたパンを開封してみんなで仲良く
お食事タイムと家族団らんしていたわけか?」
 警備員も、面倒そうなのっそりとした動きではあったが兵士の手にしたパンを覗き込み、うなずく。
「ふぬ。確かにいい香まで放つ新鮮なパンだ。イチゴジャム?」
 まだ兵隊の言いたいことを半分も掴んでいない警備員が、お気楽に相槌をうつ。
 兵隊がパンを手にしたまま、明らかに別のものにむかって注意を集中していた。
「そんなにイチゴジャムパンが好きなら食べてもいいぞ〜」
 警備員が呑気にそう言ったときだった。
 警備員の背中が蹴り飛ばされ、下水の流れの中に叩き落される。
「うぎゃあああぁぁぁぁぁ」
 悲鳴の後に、やけにどろりとした感じの水音が続く。
 その横で、いち早く反応した兵隊と、フェイがつかみ合いになっていた。
「おまえ! 誰だ!!」
 恫喝しながらも、素早く出された蹴りを右手で弾いたフェイ。だが、その弾いた足を基点に回し蹴り
を出されたとあっては、避けようもなく直撃を背中に食らう。
 フェイはうめき声を発して膝をついた。
だがその背後に潜んでいたジャックが、目に入った兵士に笑いかける。
「こんちは。そしておやすみなさい」
 ジャックの手元でバチバチと青白く火花が爆ぜる。
「スタンガン!」
 兵はその存在に気づいて身構えるが、押し付けられた火花に一瞬痙攣すると昏倒する。
「うわ〜、ちょっと出力上げておいたんだけど、やばかったかな?」
 押し付けられた兵士の腕から、焦げ臭い匂いが上がっていた。
「これでセンサーは突破」
 にこやかにジャックが言った。
だが次の瞬間には待ったがかかる。
 ガチャっと音を立てて銃が構えられた。
「誰だおまえたち」
 その音と誰何の声に、ジャックが両手を上げ、フェイも音の方向に顔を向けた。
 殺傷力が高そうなM16を構えた男の標的にされ、フェイも手を上げる。
「研究所に何の用だ」
「同じく配属になったジャック・スパロウズ少尉だ。USAMRIID(ユーサムリッド)から派遣に
なった。地下水への今回のバイオハザードの影響を調べろと」
 でっち上げでジャックが喋り出す。
「そんな話は聞いてない」
「本当か? だったら上に確認をとってくれ。いつまでもホールドしてたんじゃ、腕が痛いし」
 大した度胸で嘘をつきとおすジャックに、兵士がしばしの無言のあとに無線に手を伸ばした。
 だがその拍子に下を向いたライトの光がフェイの足元を照らし、同時に倒れていた兵士の姿を照らし
出した。
「グラム?」
 そして事態を悟った兵隊がM16を構えなおした。
 ジャックがそれに反応して足に差していたナイフを放つ。
 だがそれが到達する前に銃口が火を吹いた。
 僅かに身を反らしたフェイだったが、その腕を掠めた弾が鋭くその肉を抉り取っていく。
 闇に落ちていた下水道の中に響いた発砲音とフェイのうめき声。
それにジュリアが走り出した。
「ジュリア!」
 後ろから追ったスイレイの声を無視し、ジュリアが走る。
「フェイおじさん!」
 ジャックの放ったナイフを腿に受けた兵士が、背後でした足音と声に蹲りながらも銃を構えなおす。
「親父の頭はハゲチョビン!」
 その瞬間、ジュリアが合い言葉を叫んだ。
 ジャックが反応して頭を伏せる。
 そして次の瞬間に、強烈な白色の光が辺りを一瞬だけ照らし出した。
「うぐあぁぁ………」
 いきなり闇の中で発光したカメラのフラッシュに目を焼かれ、兵士が銃を落として目を覆った。
 だがそれで戦意を喪失したわけではなかった。
 側まで走り寄ったジュリアの足を掴み、コンクリートの足場の上に引き倒す。
「きゃぁぁぁぁ!!」
 頭を手で覆って倒れたジュリアの上に、兵士が圧し掛かる。
 そして握った拳をジュリアの体目掛けて殴り下ろそうとする。
「ジュリア!!」
 その兵士の体に飛び掛ったスイレイが、ジュリアに馬乗りになっていた体を押し倒した。
「ジュリア、戻れ!」
 叫びながら、下から繰り出された拳を避け、スイレイが兵士の顔を見下ろした。
 かすかに目は開けているが、暗闇で瞳孔が開いた状態で激しい光を見せられたのだ。失明はしないだ
ろうが、しばらく何も見えないだろう。
 そんな中で気配や音で正確に攻撃を繰り出す兵士に、服の襟首を掴み上げられ締め上げられる。
 一気に気道を閉塞され、スイレイはもがきながら男の顔に拳を振り下ろした。
 男の顔の中で、鼻が潰れて鼻血を噴出すが襟を締める腕の力は弱まらなかった。
 スイレイは男の体の上から逃れようと身を引こうとしたが、、男の足が途端に反応してスイレイの体
をホールドする。
「ぐうぅぅぅぅ」
 酸素を求めて蠢く喉の奥から嫌な音が漏れ始め、酸欠に陥った脳が朦朧とし始める。
 スイレイは無意識にポケットの中を探った。そして手にしたものを取り出すと、勢いに任せて男の腹
に振り下ろした。
「ぐあぁぁぁぁぁ!!!」
 兵隊が叫びを上げ、スイレイを放す。
 ホールドから解放され、後ろに倒れたスイレイは自分の手の中にあるものを見つめて激しく息をつい
た。
 手の中にあったのは血に塗れたドライバーであった。
 自分はそんなものを人の体に刺したのか。
 呆然とする思いの中で、背後からする乱れた足音に顔を向ける。
「スイレイ!」
 視線の先で、ジュリアがロープの片方を持って叫んでいた。
 息も整わないままに、スイレイが走り出すと、ロープの反対側を握った。
「グラム! ジム! どうした!!」
 兵隊の一人と警備員が駆けてくる。
 そしてその二人が倒れた兵士たちの眠る本道へのルートに入った瞬間に、ジュリアとスイレイがロー
プを引いた。
「うお! ぐあぁぁぁ!!」
 転がった兵士と、その体につまずいた警備員が一緒になって転がり、ついには下水の中に落ちていく。
 余り流れは急ではないが、明らかに二人のもがく体が押し流されていく。
 それを呆然と見送ったスイレイだったが、側に寄ってきたジュリアに、その体を抱きしめた。
 スイレイは自分の手を見下ろした。
 自分のものではない人の血で汚れた手。
 背後では、ジャックが倒した兵隊の手当てを続けていた。
 スタンガンで伸びた男。壁に寄りかかって腕に包帯を巻いているフェイ。腹に手を当て、止血しなが
ら手当てをしているジャックと自分の倒した兵士。
 惨たんたる現状に、頭が麻痺してしまいそうだった。
 だがこれが現実なのだ。
「スイレイ?」
 額を抱えたスイレイに、ジュリアが下から声を掛ける。
「大丈夫。……ジュリアが無事でよかった」
 片手で抱くジュリアの背中に力をこめ、スイレイが言った。



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