第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝




 やっとたどり着いた人間が過ごすに相応しい部屋に入り、フェイ、スイレイ、ジュリアの三人は息を
ついた。
 だいぶ下水の匂いに慣れてきていたとはいえ、やはり清浄なる空気にはほっと張り詰めていた意識が
緩む。
 下水の管理室だ。
 机の上には雑多に、飲みかけのコーヒーカップや菓子の空き袋、整備中の銃にネジやドライバーなど
の工具、記録ノートなどが置かれていた。
 フェイがその管理室の電話を手の取るとローズマリーに電話をかけ始める。
 それを横目に見ながら、スイレイは管理室の一角を占めるモニターを見つめた。
 そこには倒れた兵士の姿とその側で手当てを続けるジャックの姿が映っていた。
 結局大事になってしまったのに、後始末はジャック一人に押し付ける形になってしまった。
「俺、口だけはうまいから。どうにでもできるから気にしないように」
 そう言って笑顔で三人を送り出してくれたジャックだったが、彼がこの事態にどう収集をつけるのか
は分かったものではなかった。
 スイレイと同じようにモニターを見上げたジュリアが横に立つ。
「フェイおじさんと結婚するつもりかな……」
 モニターを見ながら、苦笑するその横顔に、スイレイも笑ってみせるしかなかった。
「こうなったのはスイレイのせいじゃないから。全部わたしのせい。無謀に走り出して」
 決然とした顔で言ったジュリアが、じっとジャックの顔を見ていた。
 すでに目を覚ましているスイレイに腹を刺された兵士と何かを話していた。
 お互いに笑顔はないが、そこにいて自分を刺した一団と共に行動していたジャックに激昂して殴りか
かる様子もない。なにをどう話しているのやらだった。
「誰のせいでもないよ。絶対の善も悪も、人間にはないのだから」
 言いながら、スイレイの頭の中で様々なものが去来する。
 〈エデン〉を創った事。ペルを愛したこと。こうして研究所へ侵入しようとしていること。人を刺し
た事。
 全てはスイレイにとっては善であるはずのことだった。だが胸が痛むのは止めようがなかった。 
 常に何かの犠牲の上に、自分たちの幸せはあったのかもしれない。それに目を留めようとしなかった
だけで。
「みんなが幸せになるって、難しいな」
 しみじみと言ったスイレイに、ジュリアが小さく笑う。
「本当ね。そんなこと言えるようになるなんて、わたしたち歳かな?」
 そう言い合う二人に対し、フェイが話し続けていた。
「そうだ。研究所の下水処理管理室に入った。は? そんな場所知らないって言われても、あるものは
あるんだよ」
 軽い言い争いに近い言葉の応酬で、受話器を握りながらフェイの顔がしかめられる。
 その顔を見ながら、スイレイは初めてこんなに本音で言葉をぶつけるフェイを見た。本当に二人が婚
約者だったのだという確信を始めて感じた瞬間だった。
「そうだよ、下水管理室。あったか? そう。どうやって研究所まで上がったらいい?」
 ここから研究所までは監視カメラの映像さえ避けられれば軍との衝突はなしに進めるらしい。あとは
研究所内でのランダムにされる巡回の目を逃れるだけだ。
「一階資材庫だな? 分かった。頼んだぞ」
 電話を切ったフェイが、二人に管理室の中にあった地図を示す。
「この部屋のエレベーター」
 背後を指さすフェイ。
「それで一気に研究所に行けるの?」
 ジュリアが早くもエレベーターへと走り出そうとするのを、フェイがその腕を掴んで止める。
「そのエレベーターは監視対象になっている。だから階段で研究所まで上がる。ちなみにここは地下3
0メートルにあるらしい」
 三十メートル分の階段登り。
 げんなりした顔で、ジュリアが肩を落とす。
「その階段がここに出る。この先は監視カメラを避けて進むとここに出る」
 フェイが示した先が、電話で出ていた資材庫だった。
「ここでローズマリーが白衣と偽のIDを用意しておくと言っている。死んだカイルのものとジャステ
ィスのもの」
「IDは二枚?」
 ジュリアが地図を見ていた顔を上げてフェイを見た。
「そう二枚。〈エデン〉へ行く必要があるのはローズマリーとジュリア、スイレイの三人だ。俺は必要
ない」
「え?」
 なんとはなしに、このまま一緒に行動できると思っていただけに、スイレイもフェイの返答に愕然と
していた。
「一緒には……」
 心細い気持ちがもろに出た声に、スイレイの言葉が尻つぼみに消える。
「後から追いかけるから」
「でもIDがなければ」
「どっかの誰かのを拝借して行くさ」
 任せておけと胸をはるフェイに、ジュリアも沈黙する。
「俺のことよりも、自分たちの気持ちを引き締めておけよ。ここまで来て掴まって困るのはおまえたち
二人なんだから」
 ドンと二人の背中を叩いてフェイが笑う。
 その力強い手に励まされ、スイレイも頷く。
 だがその視線の先で、不意にフェイの顔が情けないものに変わる。
 その視線の先にあるのは、モニターの中のジャックの姿だった。
「俺は何よりもあいつと結婚させられるんじゃないかという恐怖のほうが大きいよ」
「じゃあ、わたしとしとく?」
 ジュリアが笑う。
「もしものときはよろしく。でもジャスティスに怒られそうだな。俺の娘はおまえなんかにやれんって」
 三人の顔に笑みが浮く。
 だがその笑顔の下にある思いは同じだった。そんな日が来るなら、どんなにいいのだろうと。謎の奇
病に感染したジャスティス。その奇病の発生源である〈エデン〉に行こうとしている自分たち。そして
もう一人いるらしいジャスティスの存在。連絡の途絶えたペル。
 自分たちの幸せを取り戻すことに、どれだけの代償が払われるのかは分からなかった。だがどんな代
償を払ってでも、もう一度心から笑える日を取り戻したかった。
「じゃあ、行くぞ」
「階段、何段あるんだろうね?」
「さあね?」
 肩をすくめて見せたスイレイに、ジュリアが笑う。
「何段でも、わたし登りきって見せるよ。お父さんのために」
「ああ」
 頷いたスイレイも、心のうちで思っていた。
 どんな苦労だろうと、ペルのためにならできるだろうと。




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