第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝




 ジャックの案内で連れてこられたのは、古ぼけた小さな建物だった。
 森の中でポツンと建ち、手入れもされていないのが分かる、汚れて朽ち始めた掘っ立て小屋。
「ここから研究所の下水処理施設に侵入できる」
 フェイの言葉を示すように、ジャックが大きな地図をジープのボンネットに広げてペンライトで示す。
 地図上にはそこかしこに書き込みがされ、配置されている兵士の人数、装備などが示されていた。
「まあ戦争しようってんじゃないんだから、たいした装備はもってないだろうけど、丸腰で勝てる相手
じゃないからね」
 ジャックはそう言ってスイレイとジュリアに銃を手渡す。
「え? わたしたちに撃てって?」
「うん」
 平気な顔で頷くジャックに、横からフェイが口を挟む。
「それ、BB弾しか入ってないモデルガンだから……。こいつの言うこと真に受けるな」
 横合いからボコって頭を叩かれ、ジャックが顔をしかめる。
「でもないよりはましでしょ?」
「あった方がまずいだろ? 武器携帯で間違いなく撃たれる」
 その言葉にスイレイとジュリアが慌てて銃をジャックに突っ返す。
「あ〜あ、俺のお気に入りのモデルガンが返品されちまったよ」
 拗ねた顔で言って見せたジャックだったが、そう言いながらも次々とジープの中から装備を引っ張り
出す。
「はい、これが暗視ゴーグル。それからトランシーバー。ロープも持っていったほうがいいかもしれな
い。あとは、いろいろ入ったお楽しみ袋」
 なぜかお楽しみ袋をジュリアに押し付けたジャックだったが、次の瞬間には真面目な顔で地図を見下
ろしていた。
「まずはこの元下水管理室から、本物の下水管理センターに侵入してもらう。でもここにはちゃんと感
知センサーがついてるし、常駐の警備員。それから今は米兵が3名いる。装備は警部二人がおそらくハ
ンドガン。兵士の方が、M16を一丁、それぞれが好きな銃を二挺ずつ携帯だな。たぶんベレッタM9
2Fとお気に入りのリボルバー辺りか? 手榴弾とかも持ってるけど、まさか使わないと思う。
 で、こっちの作戦だけど、本職の兵士と元兵隊経験あのあるおっちゃんと一般人の兄ちゃん、姉ちゃ
んで、真っ向勝負は絶対にできない。だから、ちょっとマヌケだけど罠に掛けちゃえ作戦で突っ込もう
と」
 そして顔を寄せ合い話を聞き始めたスイレイとジュリアだったが、聞き終えた瞬間に、顔をしかめた。
―― そんなんでうまくいくのかよ。
 明らかに顔に書いてあるその不満に、ジャックが笑顔で頷く。
「まあ、確かに正式な作戦で提案したら即却下だな。でも、これくらい笑えないとさ、見つかったとき
に大変だから」
―― いや、みつかったらこれでも十分、まずいことになりますから。
 スイレイとジュリアは顔を見合わせ、頼りなさそうにフェイを見た。
「なんだよ。こんな作戦しか考え付かない友達持ってる俺が悪いってのか?」
 自分は張り切りで暗視ゴーグルをつけてロープを担ぎ、意気揚揚で胸をはるフェイ。
 これで本当に研究所に侵入できるのだろうか? 
 気がかりな作戦に身をゆだねるしかない状況に、スイレイは空を見上げてため息をついた。
 鬱蒼とした森の夜空を、金色の光を放つ月が飾っていた。



 真っ黒に淀んでチャプチャプと音を立てる下水の中は、いったい何が淀んでたまってしまったのかと
いう匂いを発していた。
「臭いから口で息すると、変な味がする………」
 タオルで口を覆うように縛ったジュリアが、死にそうな声で言う。
「死んだ動物でも浮んでんじゃない?」
 気軽に言って先頭を歩いていくジャックの言葉に、ジュリアが息を飲んで足を止める。
 それを後ろからスイレイが宥めながら連れて行く。
「大丈夫だって。そんなのないから。水が淀んで腐ってるんだって」
「……でも研究所の下水だもん。死んだ実験動物が大量に捨てられてたり………」
「……うちはそんなことする悪徳業者じゃないから。ちゃんと埋葬してるから安心して」
 ポンとその肩を叩き、あらぬ想像力ばかりを駆使するジュリアを半ば抱きかかえるようにして進む。
 コツコツと壁面に反射する足音と、水の音ばかりが耳につく。
 暗い下水の中を懐中電灯の光で浮かび上がる巨人のような人影。
 フェイは地図を広げて現在の位置を確認しながら、何度か細い下水管の中へと誘導していく。
「ゲー、また細いところ〜! 虫がいてやだよぉ〜!」
 ついさっきもよりによってジュリアの背中に落ちたゴキブリに悲鳴を上げたところだった。這って進
むスイレイの頭に必死に逃げようとするジュリアの尻が後退りしてぶつかり、パニックを起こしたジュ
リアに巨大ごきぶりと間違われて殴られたばかりだった。
「ぼくだってもう、ごきぶりと間違われて殴られるのはごめんなんだけど」
 ゲンナリというスイレイに、フェイが苦笑する。
 そしてジャックがフェイの地図を覗き見ながら言う。
「なかなかおもしろいコメディーショーなんだけど、もうそろそろ悲鳴も危険になるからな」
 お静かにと口に指を立てられ、スイレイとジュリアが口を噤む。
 フェイが無言のうちに示したポイントは、下水管理センターから数百メートルの位置を示していた。
 目の前の細い坑道を抜け、まっすに進めば管理センターの監視区画へと入る。
「ここからは光を漏らすわけにいかない。から、この暗視ゴーグルが登場。ああ、それからお嬢ちゃん
は坑道の中では目を瞑って進むこと。虫のたぐいは俺とフェイで追い払うから、安心して着いてきて」
「……了解」
 ジュリアがごくりと唾を飲みながら頷く。
「では作戦を復習。俺が感知センサーを無効にする。センサーを感知した管理事務所から兵隊と警備が
見に来るから。そうしたらその来た人数のみ撃退する。撃退するときの注意事項は?」
「暗視ゴーグルは外す事」
「OK。合言葉は?」
「親父の頭はハゲチョビン」
 力を込めて言うジュリアに、ジャックは満足げに頷くが、横から見ていたスイレイとフェイはなぜに
そんな言葉と顔をしかめる。
「なに? 文句あり?」
「ちょっとな……」
 言葉を濁すフェイに、ジャックが分かってないなとクビを振る。
「いいか。暗号は意味不明であって、それでいて相手にはて? と思わせるのがいいんだって。相手は
反応が遅れるし、こちらの意図は気づかない。おまけに俺たちには決して忘れられない合言葉になる」
「……まあな」
 力なく同意するフェイに、ジャックが納得すればよしと頷き出発の合図を出す。
 懐中電灯の光が消され、全員が暗視ゴーグルを装着する。
 いつの間に持って来たのか、銃を構えたジャックが先頭として前方の安全を確認して坑道の中へと入
っていく。
 そのあとを何のためらいも見せずにフェイが続く。
 そしてジメジメした苔と腐ったヘドロの感触に恐る恐るジュリアが続く。
 今まで以上に強烈な腐敗臭に息がつまる。
 だが後ろのスイレイに促がされ、手をついて進んでいく。
 防水の手袋はしていれも、濡れた感触に自分の手が汚れていく気がしてならなかった。
 言われたとおりに目は瞑って這い進むのだが、ジュリアの五感が感知しようとするのは、全て四方の
円形の壁を這っているであろう虫の気配ばかりだった。
 もうこんなところ早々におさらばしてやる。
 やけを起した様にむやみやたらに手足を動かし、泥水を跳ね飛ばしながら、ジュリアが進んでいく。
 そうしながらも思考はネガティブ街道まっしぐらで、おそろしい世界ばかりを想像しては自分の周り
を作り上げていく。
 今も後ろでする気配はスイレイなんだと頭ではわかっていながら、つい毛むくじゃらの巨大蜘蛛だっ
たらどうしようと考え始める。
 蜘蛛の食われるのも嫌だけど、あの固くて毒で満ちていそうな毛が自分の肌につくかと思うと鳥肌が
立つ。
 ああ〜、もう嫌だ!!
 そう思った瞬間に、ジュリアの肩をフェイが押さえた。
「目あけろ。もう出口だから」
 目をあけたジュリアは、すでに穴を抜けたフェイが自分を穴から下ろそうと出している手に気づき、
ため息をついた。
「よかった、虫いなかった……」
 と安心したそのとき、髪に絡み付いていたらしい蜘蛛がぬっとジュリアの顔の前に顔を覗かせる。
「――――!!」
 思わず叫びを上げそうになったジュリアの口を横からジャックが塞ぎ、後ろから現れたスイレイが頭
の蜘蛛を摘まんで脇へ放る。
「ふ〜、危ない危ない」
 ジュリアの口から手を放したジャックが呟く。
 だがその安堵した空気の中で、ジュリアだけが泣きそうな顔で一同を見上げていた。
「そんな汚い手袋でわたしの顔触った!!」
 ジュリアの顔はヘドロに塗れて黒く汚れていた。
「ううう」
 怒って唸り声を発するジュリアを宥めながら、フェイがスイレイを振り返る。
「せっかくのきれいな顔が汚れちゃかわいそうだな。だから王子さまのキスで清めてもらえ」
 その言葉にスイレイが面食らいながら自分を指さす。
「王子様?」
 ―― こんなときに何を考えているんだ。
 だがそう言い返そうとしたスイレイに、ジュリアがその気になって腕に掴まる。
「ヤダよ。そんな汚い顔とキスするのなんて」
 思わず出た本音に、ジュリアの顔が憤怒に変わる。
 そのやり取りに忍び笑いをもらしたジャックだったが、再び静かにと唇に指を立ててみせる。
 そしてジュリアの背中に背負わせたお楽しみ袋の中から濡れティッシュを取り出し、ジュリアに手渡
す。
「な、準備いいだろ?」
 手渡されたそれに頷きながら、ジュリアが顔を拭う。だがその間も、スイレイを睨みながらではあっ
たが。
「では作戦発動」
 ジャックがそう言うと、ジュリアのリュックの中から、やけに大きかった包みを取り出した。
 新聞紙に包まれたその中で、ごそごそと絶え間なく音が聞こえる。
「え? 何それ。何をわたしに背負わせてたわけ?」
 逃げ腰になってスイレイの背中に隠れるジュリアだったが、現れたものに再び悲鳴を上げそうになっ
て自分の意思でそれを飲み込んだ。
 目の前に晒されたのは、20センチ四方のカゴにぎゅうぎゅうに詰め込まれたネズミだった。



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