第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝



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 家中の壁やドアを爪で掻き毟る音が響く。
 その合間に聞こえるのは、犬たちの恐怖を煽る唸り声と喧嘩の末の悲鳴。
 そっと割れてしまった窓を覆ったカーテンの隙間から外を見たペルは、そこに見た光景に声を喉の奥
で凍らせた。
 闇の中で無数に浮くのは、赤く光る獣の瞳。
 激しい唸り声の末に飛びかかった犬同士が、互いの首を噛み千切り、その血に興奮した犬たちがさら
に殺戮の輪に加わっていた。
 そこにあったのはまさしく地獄絵図。
 ペルの口から悲鳴がもれそうになる。
 その気配を察した犬の一匹が闇に浮きあがる瞳をめぐらせ、振り返る。
 そして涎を滴らせた牙を剥き出しに唸りを発してペルのいる窓目掛けて飛び掛る。
 ついに喉を突いた悲鳴。
 ペルは部屋の中を振り返り、大きなテーブルを、上に乗っていたものを撒き散らしながら倒す。そし
てそれを窓を覆うように壁に押し付ける。
 あまりの恐怖に肩で息をしながら、胃を押し付ける吐き気に顔を青くする。
 あの犬たちは何?
 今まで十ヶ月ちかくをこの〈エデン〉で過ごしてきたけれども、あんな風に徒党を組み、人や動物を
狂ったように襲う姿は見たことがなかった。
 犬は元来群れを作って生活するものだということは知っていた。
 その群れと今まで遭遇することがなかったのかもしれないが、それにしてもあんなに敵意を剥き出し
にし、仲間まで殺すような姿が犬の本能であるとは思えなかった。
「狂犬病?」
 呟いてから、ペルは恐ろしさに肩を自分の手で抱きしめた。
 こんな身重の状態で、そんな犬と接触して襲われるなどという事態に陥ろうとは、考えても見ないこ
とだった。
「どうしたらいいの?」
 必死に焦る頭をめぐらせ、ペルは考えた。
 家の中にある武器といえば、包丁や果物ナイフぐらいしかない。
 そう考え部屋の中を見渡す間にも、家の中に侵入しようとする犬たちが爪を立てる音が続く。
 真正面から戦って、人間が獣に勝てるはずもない。
 ならばどうすればいいのか…………。
 ペルは転がしたテーブルから転がり落ちたアヒルの死体を見た。
「アヒルの母さん、ごめん」
 ペルは包丁を手に取ると、それをアヒルの体に押し当てた。



 血なまぐさい息を撒き散らかしながら、犬たちが破壊したドアの隙間から我先と家の中に侵入してい
く。
 その犬たちが向かうのは台所。
 床一面に引き詰められた乾いた藁を犬たちが踏み散らかし、その藁に掛けられていた液体をまんべん
なく混ぜていく。藁からは掛けられた液体の陽炎が立ち昇る。
 犬たちは血走った目で台所へ入り込む。
 すでに獣の匂いと息遣いで満ちた台所では、天井に向かって何匹もの犬たちがジャンプを繰り返し、
滴り落ちる液体を身にまぶしていた。
 滴り落ちて床や藁を汚したものを、犬たちは先を競って舐める。
 天井に吊るされているのは動物の臓腑。
 心臓や胃袋から腸にいたる肉の連なり。
 そのかつては活動していた肉の塊が、天井に吊るされくるくると回っていた。
 部屋に入り込んだ一際大きな体格の犬は、その臓腑を見上げ、大きな遠吠えをする。
 そしてただ下にたむろし、滴り落ちる血を舐めていた犬たちを足の下にして天井に向かって飛び、そ
の牙を臓腑につき立てた。
 くわえ込まれた新鮮な腸が犬の体重で引きづられ、天井で釣っていた針金が共に引かれる。
 その瞬間を待っていたかのように、仕掛けが動き出した。
 引かれた針金が天井に飾り付けられていた蔦の掛けられていたランプを次々と落としその中に詰めら
れていたオイルを犬たちの上に降り注がせる。
 そして次に続いたのは、大量の粉だった。
 部屋中の空気が真っ白に染まるほどの大量の小麦粉が天井から降り注ぐ。
 その瞬間に、犬の一匹が気づいた匂いに鼻を蠢かせた。
 空中を舞う粉の白さに混じり出した煙。
 赤い炎が二階の階段を駆け下り、廊下を走り、台所へと疾走していく。
 そしてその火が台所へと侵入した瞬間、大爆発が起こった。



 二階のタンスの中で身を縮めていたペルは、予想外に激しく揺れた爆発の威力に息をするのも忘れて
頭を覆ってうずくまっていた。
 下から突き上げる激しい揺れに、タンスが飛ばされ倒れる。
 その中で自分の体の向きさえ分からなくなりながら、悲鳴を押し殺して全てが終るのを待つ。
 何もかも投げ出して逃げ出したくなる気持ちをじっと堪え、ペルは揺れが収まるのを待った。
 ほんの数秒の出来事だったのだろう。だが、ペルには永遠に続く責め苦のようにさえ感じた。
 だが気がつけば体は逆さまのような形で投げ出されているが、生きていた。
 はっとして腹に手を置けば、おなかの中の子どもも大丈夫だよと返事をするように身じろぎをする。
「………よかった……」
 思わず零れそうになる涙を堪え、ペルは頭の上にあるタンスの扉を押した。
 タンスから顔を出したペルは、すでに煙に撒かれ始めた部屋の中の空気に咳き込みながら這い出す。
 部屋のドアは吹き飛ばされてタンスの横に凭れかかっているし、窓ガラスも粉々に割れていた。
 もし自分にタンスという盾がなかったらと思うと、ぞっとする思いだった。
 粉塵爆発の威力を肌で実感しながら、自分のしたことの恐ろしさに足が竦みそうになる。
 ペルは用意しておいたリュックを背負うと、部屋を出て炎の色に染まった家の中を動き出した。
 煙に撒かれた廊下から階下を見下ろせば、すでにそこにあるのは火の海。その中に辛うじて犬の形を
したものが見えた気がしたが、慌てて目を反らす。
 この炎では下に下りることもできないが、階段も途中で崩れ落ちていた。
 こうなれば、二階の窓から逃げ出さなければならない。そうしなければ今度は自分も火の猛威にさら
されるだけだ。
 ペルはタオルで口を押さえながら部屋に戻ると、窓から地上を見下ろした。
 いつの間にか雨はあがっていたが、強い風と黒い雲で覆われた空がそこにあった。
 家の中から吹き出した炎が、ゆらゆらと庭を照らし出していた。
 庭にできた水溜りに、雲から顔を覗かせた月が映る。
 その月を踏み潰し、滲ませたのは外に残っていた犬たちだった。
 まだペルの存在には気づいていないが、炎の威力に恐れを成しているのか、なにをするでもなくうろ
うろと家の周りをうろついている。
 どうか犬たちに見つかりませんように。
 ペルは祈る思いで二階の窓に足を掛けた。
 木登りなどしたことがなかった。
 それなのに、すでに張り出した腹を抱えた妊婦である自分が、窓から木に飛び移らなければならない
とは。
 窓枠を手が白くなるほどに握り締め、自分に向かって伸ばされた木の幹を掴むタイミングを計る。
 何度も何度も窓枠から手を放そうとするのに、そのたびに頭を過ぎるのは自分が落下して地面に叩き
つけられる映像だった。
 落ちなどしたら、自分は助かったとしても、おなかの子たちがどうなるかわかったものではない。し
かもその後に待っているのは、動けない自分を襲う犬たちの牙だ。
「……怖いよ……こんなことなら木登りしておくんだった……」
 言っても詮のないことだと分かっていながら、涙交じりに出るのはそんな言葉だけだった。
 すでに背中から追い立てるように白い煙が黙々と吐き出されていた。
 息が詰まる。
 目を瞑ってタオルで口を覆ったまま深呼吸をする。
 できる、できる。必ずあの枝を伝って幹までたどり着き、助けに来てくれるスイレイを待つのだ。
 その瞬間、腹が今までに感じたことのない強さで蹴られるのを感じた。
 その痛みに目をあけたペルは、自分の腹を見下ろした。
 丸く張り出した腹に手を置くと、もう一人の胎児がその手に手を重ねたようにそっと押し返してくる。
「励ましてくれてるの?」
 ペルは涙を流しながらも、初めて笑顔を浮かべる。
「そうだよね。お母さんは今三人分の命を預かってるんだもんね。負けないよ」
 ペルは意を決すると、窓枠から手を放し、太く曲がったふしを持つ木の枝を掴んだ。その枝の上を這
うように進もうと足を踏み出す。
 だが平衡を失った瞬間に、両手と両足で幹につる下がる形になってしまう。
 必死に枝にしがみつくが、目を瞑ったペルの手の平に捲れた木肌が刺さって痛みを発する。
 だが、ペルは痛みに耐えて枝を握り続けた。
 ペルの重みに枝はしなって嫌な音を立てる。
 それでも撓りながら持ちこたえた枝に、ペルはそろそろと幹に向かって体を進めていく。
 口からは苦しい息が漏れたが、一心に手足を動かす。
体が落ちないように慎重に一歩一歩進んでいく。
 そのペルの下で、犬たちが集まり出して騒ぎ始める。
 吠えたてられたペルは、ぎゅっと枝に身を寄せてから下を見下ろした。
 4匹ばかりの犬が、落ちるペルを期待した好奇の目で上を見つめながら舌なめずりする様子を見た。
――弱い動物はね、自分のいる安全な環境に気づかずに、暴れて守ってくれている柵から自ら飛び出し
て狼やライオンに襲われてしまうんだよ。
 こんなときになぜか、スイレイの昔語っていた薀蓄が頭を過ぎった。
 今自分は獲物となる羊で、下で吠え立てているのが狼だ。
 ここで恐怖してパニックになれば、自ら柵から逃げ出す愚かな弱い動物になってしまうのだ。
「気にしない。わたしは大丈夫」
 自分に言い聞かせるように唱え続けながら、幹へと逆さまになったままに這って行く。
 そして太い幹までたどり着くと、腰に差していた果物ナイフを幹に突き立て、それを足がかりにして
逆さまになっていた身を起す。
 連続する力技に震え出した腕に最後の力をこめ、体を枝の上に押し上げる。
 幹に抱きついた時には、激しくつく息の下で頭に溜まっていた血が一気に下がって吐き気がしたほど
だった。
 犬たちは悔しげに遠吠えをしながら木の幹を駆け上がろうと爪をかけていた。
 その様子を胸に手をついて身下ろしていたペルは、やっと訪れたわずかばかりの安心感に幹にしがみ
ついて座り込んだ。
 これで誰かが助けにきてくれるのを待てば何とかなるかもしれない。
 そう思ったまさにその時、ペルは自分の名を呼ぶ声を聞いた。
「ペル! ペルどこだ?!」
 スイレイ?
 幹に押し付けていた顔を上げたペルは、声の方向へと顔を向けた。
 だが同じように犬たちも耳を動かし、声の主の方へと注意を向ける。
「ダメ! 来ないで、犬が!!」
 ペルは背中のリュックからビニール袋に入れたものを取り出した。
 血に塗れたアヒルの肉だった。
 それを木の上から地面に向かって投げる。
 風に乗って漂う肉と血の匂いに気づいた犬たちが肉へと殺到する。それが唐辛子塗れの肉であるとも
気づかずに。
 齧りついた次の瞬間には悲鳴を上げて鼻をかき毟る様子に、少しの罪悪感を感じつつ、ペルは自分を
呼んだ声の主を探した。
「ペル。無事だったか」
 木の陰で姿はまだ見えないが、スイレイの声ではない。
「ジャスティスさん?」
 そして思いがけず木の下に現れた男の姿に、ペルは目を丸くした。
「どうしてここに」
「そんなことは後だ。ほら、早く逃げるぞ!」
 ジャスティスが庭に転がっていたはしごを木に立てかけながら叫ぶ。
 激しい風に火の粉が煽られ、まるで空中に咲き乱れる天上の花のように散っていく。
 ペルは急いではしごに足をかけ、ゆっくりと降りてく。
 そして残りの数段を残して、差し伸べられたジャスティスの手を取り、抱きとめられる。
「よかった。ペルが無事で」
 そう言ってペルを抱きしめたジャスティスだったが、不意に背後でした獣の唸り声に首を巡らせた。
 大量を涎を口から滴らせた犬たちが、恨めしげにペルを見上げて唸っていた。
「あ……」
 犬たちと自分たちとの距離はほんの数メートル。犬の一飛びで食いつかれる。
 だが冷静な顔でジャスティスがズボンの背に差していたものを構えた。
 長い銃身がキラリと光、次の瞬間には連続して火を放つ。
 空気を沸騰させる銃声と、犬たちの悲鳴にペルは目を閉じ、耳を塞いだ。
 そして音が止むのを待って目を開けた。
 顔色一つ変えずに、弾の終った銃を構えたままのジャスティスの横顔が目に入る。
 そのジャスティスの視線の先に、威力の高い銃弾を至近距離で浴びて砕けた犬たちの死体が転がって
いた。
「あ………」
 その死体を見た瞬間に、ペルはこみ上げてきた吐き気に地面にうずくまり、熱く喉を焼く胃液を吐き
出した。
 背後で、何も言わずに銃に弾を詰めなおすジャスティスが、ペルの背中を摩る。
「この〈エデン〉でこんなことが起こるなんて……信じられないよ」
 心底哀しげに言ったその声に、涙を滲ませたペルが顔をあげ頷く。
 その頭を幼い子どもをあやすように撫でたジャスティスが、微笑んで頷く。
「ぼくがペルを守るから。ペルとおなかの子どもを」
 ジャスティスは着ていた上着を脱いでペルの上に掛ける。
「おいで、安全なところへ案内するから」
 差し伸べられた手を握り、ペルは一緒に歩き始める。
 ジャスティスが前を向いてその口に笑みを浮かべる。
 ジャスティスの右手には拳銃が。左手にはペル。そして武器を隠し持った背中には、ボーガンの矢が
あった。






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