第五章   激流の翻弄される力なき一振りの枝



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 病院に駆けつけたスイレイとジュリアは、逸る気持ちに早足になる廊下を歩き去る。
 そんな二人を、すれ違う看護師や患者たちが訝しげに見やる。
 スイレイの背中を追うジュリアも、自分でも理解しがたい錯綜する思いに戸惑いながら、足を進めて
いた。
〈エデン〉にいるというペルにどんなことが起こっているのかを心配する気持ちと、こんなにもスイレ
イを突き動かす力があることへの嫉妬心。そして同時にこんな事態を招いたのは自分が赤い花を〈エデ
ン〉に植えたせいなのかという自責と焦燥の想い。
 でもそんな思いより何より、ずっと顔の見れなかったペルに会えることの喜びも湧いていた。
 自分の心の真実はどこにあって、どれが理性や常識によって作り出された想いなのだろう?
 ジュリアは現実の世界である病院の景色の方が、なぜか非現実のような現実味のない世界に見えて仕
方がなかった。
 自分たちは余りに恐ろしい危機を目の前に神経をすり減らし、目の前が真っ暗になりそうな心地なの
に、白々と天井から照らす蛍光灯の光がやけにまぶしい。
 行き交う日常である患者たちや看護師たちの他愛のない会話も、色水のような点滴のスタンドも、何
もかもが作り物に見えて仕方がなかった。
 スイレイが音を立てて引いた病室の扉の中に消えていく。
 その後を慌てて追いながら、ジュリアは心の中で一瞬生じた戸惑いに鼓動を早くした。
 ペルに会える。ペルに会わなければならない。
 足は止まらずに動いていた。だが、気持ちの中で景色がスローモーションに変わっていく。会いたい
のか、会いたくないのか、自分でも分からなかった。
 だが閉じかけた扉を押さえたスイレイと目が合い、頷いて続いて病室に入った自分の足取りに戸惑い
は見られなかった。
 病室の中に目を転じる。
 ベットサイドに、白衣の医師が座り込んでいた。
 その背に隠され、ペルの顔は見えなかった。
 ただベットの上に投げ出された足の白さと細さだけがジュリアの心を撃ち抜いた衝撃だった。
「先生、ペルは?」
 いつもより性急に言葉を紡ぐスイレイの声を聞きながら、振り返った医師の後ろのペルの顔を覗きこ
む。
 ベットの上に広がる自分と同じくらいに長くなった髪。そして痩せて頬骨が前よりも高くなったペル
の瞑目する顔。
「ああ、今君に連絡をと思っていたところで」
 スイレイに返答した医師が、ジュリアを見て不意に言葉を途切れさせた。
 その視線の動きに気付いたスイレイもジュリアを見やる。
 そこには、滂沱の涙を流して口を両手で覆ったジュリアの姿があった。
「……ジュリア」
 声をかけたスイレイに、ジュリアは首を振って見るなと訴えながらも、次第に大きくなる嗚咽に顔を
赤くし、不意にペルのベットに走り寄ると、ペルの胸の上に覆い被さった。
 その後に漏れた大きな泣き声に、スイレイは半ば呆然とした顔で、その姿を見つめた。
「彼女は?」
 隣りに立った医師の問いかけに、スイレイは我に返る。
「ああ。彼女はジュリア。ペルのいとこで、ぼくの幼馴染みです。ローズマリーおばさんの弟、ジャス
ティスさんの娘です」
「じゃあ、〈エデン〉を一緒に作った三人のうちの一人か」
「はい」
 言いながら、医師の目がスイレイに「いいのか?」と問い掛ける。
 それに頷き返しながら、スイレイは泣き崩れたジュリアの横に立ち、その背中を撫でてやった。
「……ペル……ペル……」
 嗚咽の間にしゃくり上げながら、何度も何度もペルの名を呼ぶ。
 そしてその手がペルの手を握っていた。
「……会いたかった………ずっとペルに会いたかったよ………」
 子どものように、ペルの体温をその肌で感じようと身を寄せるジュリアが、スイレイには痛々しいほ
どだった。
 スイレイもジュリアも、今まで頭の中であらゆる可能性を考えて来た。
 恋の破綻をもたらしたペルに、憎しみを抱いてしまうのではないか?
〈エデン〉という地を汚し、倫理にも反することをしたことに、幻滅と失望を感じてしまうのではない
か?
 お互いにおじいちゃん、おばあちゃんになっても友達でいようねなどと言っていた関係は、これで破
綻してしまうのではないか?
 だがどれもが恐怖に駆られた小心が生み出す幻想に過ぎなかったのだ。ただそんな幻想にお互いが惑
わされ、恐れていたのだ。
 自分の本心は、心の奥底に眠っていた感情は、正直だった。
 ジュリアの心の中にあるのはペルが好きだといういうその思いだけだった。
 ただ目ざめて、「ジュリア」と名前を呼んで笑いかけて欲しかった。
「……ジュリア。ありがとう」
 スイレイはジュリアの背中に言った。
 その声を聞きながら、ジュリアはやっと繋がった三人の思いに心が満たされる安心感の中を漂ってい
た。
 耳に聞こえるペルの鼓動が、何度も自分の名を呼んでくれているような気がしていた。



「発熱が始まったのは今朝の4時くらいからだ。37.8℃の熱が続いている」
 頭の下に氷枕を敷いているが、その頬は幾分いつもより上気して赤く染まっていた。
「血液検査は?」
「今のところ白血球の異常増殖は見られないから、感染症ではないだろう。熱以外には血圧の上昇と心
拍数の上昇が見られるが、あとは特には変化が見られない」
 医師の説明を並んで聞いていたスイレイとジュリアだったが、じっと眠るペルの顔を見つめながらそ
れぞれに考え込む。
「交感神経が活発化している証拠ですよね?」
 呟いたジュリアに、医師が頷く。
「その通りだ。血圧の上昇、心拍数の上昇、消化器系の活動低下、瞳孔の拡大。すべて動物的本能で危
機的事態に陥ったときに最大限の力を引き出すために、自律神経が活動へと神経をシフトしたときに起
こることだ」
「危機的事態……」
 医師の口にした言葉を、スイレイが繰り返し顔色を無くす。
 その口調と二人の優れない顔色に、医師が怪訝な顔をして二人を眺める。
「何かあったのかね? さっきからローズマリーにも連絡を取ろうとしているんだが、全く連絡がつか
なくて」
 医師が困った様子で腕を組む。
 まだ研究所がバイオハザードを起したことは世間的には知られていない事態らしい。
 だが軍が動いている以上、いずれは白日のもとに全てが明かされることだろう。
 顔を見合わせたスイレイとジュリアが、お互いに頷きあい、話しておこうと意思を確認する。
「……研究所が、バイオハザードを起しました。今は軍の元で原因究明と病原体の物理的封じ込めを行
っている最中ですから、ローズマリーも外部との連絡がつきにくい状態にあるものと思います」
「え?」
 スイレイの話に、一瞬言葉の意味を掴みかねた空白の表情が医師の顔に浮ぶ。そしていつもは飄々と
した風な医師の顔に、初めて驚愕の色が浮ぶ。
「で、そのバイオハザードの原因は分かったのか?」
 つい声をひそめる医師に、スイレイが首を振る。
「でもかなり厳しい重篤な病気を引き起こすものである様子です。そして、そのバイオハザードの原因
物質が、どうやら〈エデン〉にあるらしいと、ローズマリーが」
 その返答に、医師の顔が再び唖然としたものに変わる。
「〈エデン〉に? ……いったいどうしてそんな結論に。だいたいどうやって〈エデン〉のものが現実
の世界に出現する?」
 あまりに不可解な話に、医師が眉をひそめて首を傾げる。だが、さすがはローズマリーの友人と語る
だけのことはあるのかもしれない。鼻からそれを否定するのではなく、提示された仮定を受け入れ、そ
こから思考を進めようとする。
「まあ、それはいいとして、それが事実だとしたら、〈エデン〉にいるペルの身にも危険があるかもし
れないということで、君たちは心配しているのだね」
 いち早く結論を引き出した医師に、スイレイとジュリアが頷く。
 医師の目がペルを見る。
 いつもより早く上下する胸と、耳につく荒い息遣いが苦しそうだった。
「〈エデン〉において起こったことが彼女の現実の体にどんな影響をもたらすのかは分からない。だが
実際に彼女の体は妊娠したかのように、生理を止めているし、時々乳を滲ませたりすることもあるんだ。
腹こそ大きくはなっていないが、人が見れば想像妊娠と結論するかもしれない。現実の体も、〈エデン〉
で起きていることに反応している。これを考えれば、今の彼女の身に起こっていることも、想像するこ
とができる。
 わたし自身の見解から言えば、おそらく感染症ではない。だが、何か特別なことが起きていることは
確かだ。それが何かは分からないが………、もしかしたら陣痛が起こり始めたのではないかという気も
するのだが」
「ペルの出産が始まった?」
 思いがけない言葉に、スイレイの顔から表情が抜ける。
「いや、確証はないよ。可能性の一つだ」
 医師とスイレイが顔を見合わせて、沈黙のうちの言葉を探す。
 だがその横で、ジュリアが決然と立ち上がった。
「つまり、確かなのは、実際に〈エデン〉へ行かないことには分からない。そういうことよね」
 ならばやることは一つでしょ? と、スイレイを見下ろして顎で示す。
 今は行動あるのみであると。
 今だ動揺の中にあるスイレイの代わりに、ペルのベットサイドの棚から、スイレイとペル、二人ぶん
のMOディスクを探し出して手に取る。
「スイレイ、行くわよ。全ての答えは〈エデン〉にある。創造主であるわたしたちが、その全ての幕引
きをしなくてどうするのよ」
 覚悟の決まった強い芯を見せて、ジュリアが言い放つ。
 その顔を見つめ、スイレイがその強さに圧倒されながらも頷くと立ち上がる。
「……自分の出来うる全てに全力を尽くしてから、へ垂れこまなきゃな」
「スイレイにはへこんでる暇はないってことよ。〈エデン〉の絶対神であって、お腹の子どもの父親な
んだから」
 ドンと胸を拳で叩かれ、咽ながらスイレイが頷く。
 そして振り返って医師を見たスイレイは、頭を下げると言った。
「先生、ペルをお願いします。ぼくとジュリアは〈エデン〉へペルを助けに行きますから」
「ああ。任せておけ」
 頷いた医師が笑顔で応じる。
 スイレイの先に立ち、ジュリアが駆け足で病室を後にしていく。
 その後を追って走り出したスイレイを見送りながら、医師がその背中を見送って笑う。
「幼馴染みか」
 そしてペルを見下ろす。
「君の大切な友達と恋人が、今から会いに行くから。がんばりなさい」
 だがその声の下で、ペルは荒い息をついていた。その姿は、まるで何かと戦っているかのようでもあ
った。




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