第四章   天使の烙印



7

 制御不能の震える体を引きずるようにしてホッとゾーンを抜ける。
「ドクター?」
 自分の体を支えてくれるマリアンヌの不安な顔に安心させるための笑みを見せたいのに、足を前に進
めることだけで精一杯で、顔を無数の冷や汗が流れ落ちていく。
 頭上からケミカルシャワーが降り注ぎ、続いてお湯がスーツについたかもしれない感染源を洗い流し
ていく。
グレーゾーンに入り、ジャスティスを支えきれなくなったマリアンヌとともに倒れこむ。
 早く薬を。
 ジャスティスが目を上げた。
 だがそこにいたのは、ローズマリーだけではなかった。
 カルロス。
 マリアンヌの世話にまわるローズマリーが、心配そうにジャスティスに目を向けたが、その視線を遮
るようにカルロスがジャスティスの前に回る。
 そして継ぎ目にまいたテープをはぎ取ると、グローブを外し、その下にある手の甲の血管に注射針を
刺す。
 体の中に流し込まれた薬の効き目を待って目を閉じ、カルロスに身を預ける。
「感染してたのか?」
 カルロスのささやきに、ジャスティスが頷く。
「なぜ言わなかった。感染者が動き回ることがどのくらい危険なことかくらい、重々承知しているだろ
う」
 だがそう言いつつも、カルロスの言葉に非難の色も、ジャスティスの体を気遣う気配もなかった。
 ジャスティスの体からスーツが取り払われ、汗に濡れた術衣だけが残る。
「……これも俺が脱がせるのか?」
「……いや、いい。あと少しで動けるようになるから」
 苦笑交じりで返したジャスティスだったが、カルロスの顔にあると想像した笑みがないことに表情を
消した。
 カルロスがジャスティスの腕に刺した注射器の先で塗れる針を見つめていた。
「ここに病原体がいるかもしれないんだな」
 真顔で言ってから、ゆっくりと慎重に針にキャップを掛け、バイオハザードのステッカーの貼られた
ボックスに投げ込む。
「おまえはこれから隔離される」
「……規則なのは分かってる。でも、もう少し待ってくれ。原因を解明できるかもしれないところまで
来ている」
「いや、ダメだ!」
 少しの躊躇もなく結論を下したカルロスは、ローズマリーに伴われて現れたマリアンヌを一瞥して苦
々しいものを見るように目をそらす。
「そんな要求ができる立場だと思っているのか? 部外者をレベル4の実験室に入れるということのリ
スクが分かっているのか?」
「それは、……今の状態がどれだけ危険かは承知している。彼女も感染の危険に晒すことに――」
「そんなことを言っているんじゃない!」
 やっと身を起せるようになったジャスティスを見下ろし、カルロスが憤懣やるかたない顔を向ける。
「レベル4にはどれだけの極秘試料が眠っていると思っている。この女が産業スパイでないともいえな
い」
「そんな……」
 マリアンヌが口を手で覆い呟く。
 そのマリアンヌの肩にローズマリーが手を置き、気にするなと首を振る。
「まあいい、おまえのその無思慮な行動は、おまえがこの病気の解明のためのモルモットになることで
不問にきそう」
 ニヤリと笑うカルロスが、床に座り込んだままのジャスティスの腕を取る。
「モルモット?」
「別の言い方がいいなら、被験者か? おもしろいことにおまえは感染しているくせに発症が遅いよう
だ。その原因を探らせてもらう。都合がいいことにお前は医者だ。的確に自分の状態を表現できるだろ
う?」
 カルロスの顔が得もいわれぬ恍惚とした表情に彩られる。
 新たな実験対象と、その先に広がるだろう未知の世界に憧れる少年のような、だがそのためにはどん
な狂気にも身を染めようとする狂った笑み。
 そのカルロスの肩に手が置かれる。
 その手に振り返ったカルロスの頬を、ローズマリーの握り締めた拳が打ちのめす。
 渾身の力で殴られたカルロスが、よろめきながらも立ち止まる。
 そのカルロスを見下ろし、ローズマリーが赤くなった拳を左手で覆いながら言う。
「これは弟を侮辱された姉としての一発よ。あなたがジャスティスを研究対象とすることを止めようと
しても出来ないことは知っている。なら、ジャスティスの世話はわたしがする。それさえも認めないな
ら、あなたを告発する材料をもってここを辞める」
 ジャスティスを守るようにカルロスとの間に立って言うローズマリーに、カルロスが口の端から流れ
た血を吐き出し、笑う。
「ふん。まあいいだろう。もともとおまえに、わたしを所長と敬う態度など皆無なのだからな。お互い
の好きなようにするだけさ。おまえはかわいい弟と家族ごっこに勤しみ、わたしはジャスティスの体を
使って実験をさせてもらう」
 そう言い渡してから、カルロスは身の置き場に困って両手を胸の前で握ったマリアンヌに目を向ける。
「おまえももう用はない。さっさと帰れ」
 帰れもなにも、自分が監禁を命じて拉致させてきたくせに、そんな事実などお構いなしにカルロスは
言い捨てると部屋を後にする。
「マリアンヌ」
 床から立ち上がったジャスティスは、声をかけるとふらつく体を支えようとしたローズマリーを制し
て自力で立った。
「カルロスのあの態度を副所長として謝るよ。すまなかった。君はカイルのために協力してくれたのに
ね。でも、もう帰った方がいいのも事実だ。もうこれ以上ここにいることは、不必要に感染の危険を招
く。姉さんが軍の人間とわたりをつけるから」
 ジャスティスは震えてうなずくマリアンヌに笑みを向ける。
「元気な子どもを産んでくれ。きっとカイルと君の子どもだ。最高にかわいい子になるはずだ」
 手を上げ、マリアンヌに別れを告げて背をむけるジャスティスに、マリアンヌが涙を見せる。
「ドクターに見せに来るから」
マリアンヌの言葉に、ジャスティスが振り返る。
「カイルの子どもなんだもの。ドクターに見てもらわなくちゃ。元気な子を産むから、会ってやってね」
 ジャスティスは哀しげに微笑むと頷いた。
「ありがとう、マリアンヌ」
 その日は決して訪れないことを確信しながら、ジャスティスは背を向けた。



 ベットに寝かされたジャスティスの腕から何本もの血が採取されていく。
 その処置をする研究員はみな感染を阻止するためのラディカルスーツ姿であった。
 試験管の中でゆれるジャスティスの血は、最高レベルの危険物質であるために慎重な手付きでトレー
に並べられ、厳重にボックスの中にしまわれていく。
 それをジャスティスのベットの傍らで眺めていたローズマリーと目あった研究員が、何か言いたげに
したが、何も言わないままに目をそらした。
 ベットに無抵抗で寝かされたジャスティスにしても、自分の置かれた不条理ともいえる状況を諦観の
念で受け入れているかのようだった。
「採血は終了しました。それから、これ」
 研究員がローズマリーに一つのボックスを差し出す。
 その中に並んだ数十本の薬入りの注射器。
 蛍光灯の光を受けてキラリと光るその注射器の中で、透明な薬液が揺れる。
「ドクター・ジャスティスの指示通りに調合してあります。精神安定剤と抗痙攣薬です。今同じ物が他
の感染者にも投与し始めています。……これで効果が現れてくれればいいのですが……」
 くぐもったスーツの中の研究員の真摯な言葉に、ローズマリーが頷いた。
「ご苦労様」
 目礼して去っていく研究員に、ジャスティスも頷いて送り出す。
「……姉さんも、感染予防にスーツ着て欲しいんだけど」
 ベットの背もたれに身を預けて笑うジャスティスに、ローズマリーが肩をすくめて見せる。
「わたしみたいな、みんなから消えていなくなってもらったほうが助かるなんて思われているキャラに
限って、死なないようにできてるのよ。しかも体液感染だって分かってるのよ。十分に気をつければ大
丈夫よ」
 念のためと嵌めている医療用のゴム手袋を見せ、ローズマリーが笑う。
「でも、本当に、姉さんには感染して欲しくないんだ」
「だから大丈夫だって」
 いつもの心配症が始まったと弟の言葉を無視しようとしたローズマリーに、ジャスティスがその手を
握る。
「そういうことじゃないんだ。ぼくの考えていることを確かめてくれる手足が、ぼくにはもう姉さんし
かいないから」
「……あなたの考え?」
 ゴム手袋の僅かな隔たりが、だが確実にジャスティスとローズマリーの間にある障壁であることを感
じジャスティスが哀しく微笑む。
「感染源だよ」
 上目遣いに見上げられ、ローズマリーが笑顔を消す。
「感染源が分かったって言うの?」
「ああ。カイルが教えてくれた。でも、それをカルロスに言ったところで取り合ってもらえない」
「……どうして? あの男ほど原因解明に焦っている人間はいないはず」
「そうだよ。でも、あの頭の硬い男ではどうしても受け入れられないから」
「……いったい何なの? あいつのは受け入れられないことが、わたしには受け入れられると?」
 掴んでいた手を放し、ジャスティスがベットの上に半身を起すと真っ直ぐに正面を見つけた。
「感染源はゲーム、『裁きの天秤』 その中から贈られた紅い花のDNAコードだ」





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