第四章   天使の烙印




 半信半疑のまま、ローズマリーはラディカルスーツを着て研究所の中を歩いていた。
 向かう先はジャスティスの個人ラボ。
 そこに感染源へとたどるための材料があるはずだという。
 ローズマリーはジャスティスのカードでラボのキーを解除すると、暗く闇に沈んだラボの中へと足を
踏み入れた。
 予備電源で緑色に光る小さな光が闇の中で煌めく。
 電気をつけずにその点滅を繰り返す光の中に身を置いたローズマリーは目を閉じた。
 ゲームがこの大規模なバイオハザードの元になるなんてことがありえるのだろうか?
 ローズマリー自身、「裁きの天秤」はやったことのあるゲームだった。だが、あまりその手のことに
のめり込む性格でなかったために、途中で放り出したままになっていた。
 確かにゲームの中でも謎の幻覚現象を起こし、精神を蝕む花として紅い花が登場するが、そんな花が
現実に存在するなどということは考えられなかった。
 突然変異株?
 ローズマリーは目を開けた。
 闇の中で光る無数の光が、今にも飛びかかろうとしている野獣の瞳孔の輝きのような錯覚を起す。
 部屋の電灯のスイッチを入れる。
 瞬きの間で煌々と室内を照らし出す光に、幻想は消え果る。
 ただ静かに佇む実験機器がそこに並ぶ。
 いつもと変わらぬラボだった。
 だがもしジャスティスの言うとおりに感染源が紅い花で、それがこの部屋で抽出されたのだとしたら、
ここがグランドゼロということになる。
 この空気の中にどれだけの病原体が蠢いているのかは分からない。
 ローズマリーは知らず知らずのうちに大きく唾を飲む。そして自分の体を隙なく覆うラディカルスー
ツを厚い手袋の上から撫でた。
 意を決し、ローズマリーはジャスティスのデスクの上のコンピューターに近づいた。
 まずはこのラボにカイルが入室しているかの確認をすること。
 副所長であるジャスティスのカードでなら、研究所の管理部門の最奥にまで入り込むことができる。
 現在ジャスティスのラボが使用される研究は行われていない。
 ローズマリーがコンピューターの電源を入れ、立ち上がったパスワードにジャスティスから聞いてき
たコードを打ち込む。
 研究所管理プログラムにアクセス。
 研究所の各部屋への入退出の記録を開示。
 ラボナンバー601、ドクター・ジャスティス専用ラボ
 ローズマリーが記録を開く。
 そこには、予想通りというべきか、二つの入退出の記録が記されていた。
 現在入出中のジャスティスのコードと、二日前の日付で並ぶ入退出の記録。
 午前9:53  コードB11352201 入出
 午前10:48 コードB11352201 退出
 コードB11352201 カイルの個人認識番号だ。
 やはりカイルはこの部屋に入っている。おそらくマリアンヌに言っていたという秘密のこと、DNA
抽出機を使用するためにだ。
 ローズマリーの目が、隣りの部屋でガラス張りの実験室の中に見えるDNA抽出機に向けられる。
 電源も落ち、ただ沈黙して眠りについている機械が、確かな存在感を放ってそこにあった。
 もしかしたら、あそこに病原体の残渣が残っているのかもしれない。
 そう思うとコンピューターのキーボードに置いた手が震える。
 カイルは、いったいこの世界に何を取り込んでしまったのだろうか?
 ローズマリーは管理プログラムからログアウトして画面を閉じた。
 そしてその時、その画面の片隅に新着のメールがあることを知らせるアイコンが出ていることに気づ
き、手を止めた。
 メールなどいくらでも届くものだろう。
 だが今は、画面の片隅で小さく点滅をしているメールのアイコンが、ローズマリーの気を引いて仕方
がなかった。
 メールのアイコンをクリックする。
 100件を越える新着メールを整理していく。
 ゲームに関するメルマガに、グルメや旅情報メール、研究者仲間から届いたたわいもないメール。だ
がその中に一通、差出人がカイルの名のものがあった。
 Send 19:18 kairu @xxx
  Subject  「裁きの天秤」のもう一つのストーリーについて
 
 「もう一つのストーリー?」
 ローズマリーは何か核心に近づきつつある気配を感じながら、メールを開いた。



―― ジャスティス副所長。ぼくも副所長も、「裁きの天秤」を楽しんできました。そして、昨夜クリ
アしたぼくは、ジュリから紅い花のDNAコードを贈られ、浮かれていました。
 でも、ぼくのパソコン宛に送られてきたもう一つの本当のストーリーというゲームを見て、このゲー
ムに込められている悪意のようなものに恐怖を感じました。もしかしたら、これはただ娯楽として楽し
めるというレベルのものではないのかもしれないと思うのです。
 これが、ただ恐怖映画を見た後に、物音に怯えるようなレベルの恐怖であったのならと思うのですが、
ぼくの中で何か自分の中でコントロールを越えようとしている何かを感じるのです。
 まるで、ぼくはあの殺戮の現場である村の只中にただ一人で放りこまれてしまったかのような恐怖を
感じるのです。もちろん、頭では理解しているのです。
 今いるのは、自分のデスクで、周りにはいつもと変わらぬ研究所の風景があるだけであり、そこに体
が感じようとしているような悪意など存在しないのだということも。
 でも体がここにあるだけで、ぼくの精神はあの悪魔の息づく村の中を漂っているのです。
 もしかしたら、一時の恐ろしいものを見たことによる心の揺らぎで、明るい太陽の光を見れば、自分
の小心さを笑えるのかもしれませんが、もしかしたらぼくは何かの悪意によって狂わされるのかもしれ
ないとも思えるのです。
 だから、正気のうちにここにぼくが手にしたデーターの全てを副所長に送ろうと思うのです。
 送るのはDNA抽出に使ったデーターと、新たに送られてきたほう一つのストーリと題したゲームで
す。でも、ゲームは見ることをお勧めしません。そこにあるのは、ただ血塗られ、地獄に落ちるだけの
救いのないストーリーです。
 あと、DNA抽出したものを解析しましたが、それは一種の芳香性の化学物質でした。非常に甘い匂
いを発する液体です。儀式で使用される芳香性植物の、イランイランのような花の香り。また同様に幻
覚性のアルカロイドもともに含有していることが分かりました。でも天然の植物にアルカロイド系の物
質が含まれていることなどはよくあることなので、特異なこととはいえないかもしれません。
 ただ何も起こることなく、明日の朝これを読んだ副所長に「この小心者が!」と笑われるだけである
ことを心の底から願います。ぼくに、副所長の笑顔を見せてください。



 つづくメールには抽出物の科学データのグラフや一覧表が並んでいる。
「芳香性植物の抽出物……そこに幻覚性の物質が含まれているとしても、それが人体を損なう毒となり
うるの?」
 データに並ぶ化学物質の名前を見ても、即毒として作用するようなものは見当たらない。ましてや、
カイルが起したようなアポトーシスを起すようなものは知られていない。
「でも……」
 ローズマリーの中でその芳香とメールの中から溢れてくる恐怖の思いが、何かを訴えていた。
「芳香は、嗅覚神経を介して、大脳新皮質を介さない本能の脳へとダイレクトに作用する。そこに計算
されたかのように強烈な恐怖が叩き込まれると……」
 ローズマリーは自分の中で浮かび上がる考えに、ありえないだろうと鼻で笑う。
 人体は、精巧にできた化学工場である。
 人体ではアルコールを肝臓で分解する際に発生する有害な化学物質アセトアルデヒドを酸化させ、無
害な酢酸に化学変化させるという解毒作用を持っている。
 もし、人体という化学工場を操り、もとは無害なものを有害物質に作り変えることができるとしたら
どうだろう?
 人は恐怖を感じたら、ノルアドレナリンを放出することが分かっている。その過剰に分泌されたノル
アドレナリンが、紅い花として接触した何かと化学反応を起こすことで……。
「そんなバカな話があるわけないじゃない」
 仮に人体の一部が消失するような幻覚は見たとしても、実際に体にそんな反応が起こるなどとは思え
ない。ましてやアポトーシスが誘導されるなどと。
 ローズマリーはメールの続きを見るとはなしにすすめた。
 そしてそこに並んでいたDNAコードに、ふと見たことのある配列を見つめて沈黙した。
「エイズウイルスと似て……」
 免疫細胞にアポトーシスを誘導するエイズウイルス。
 たくさんのコドンの中に埋没するようにして埋め込まれた悪意。
「そんな……もしこの部分がRNAで転写されれば、自己体内でアポトーシスを誘導する物質が生産さ
れる。……でもどうやってこのDNA部分をエクソンと認識させる? ……活性させる物質がなければ
……」
 そう思った瞬間、先ほどまで頭の中で巡っていたものが繋がり、疑いようもない事実であるかのよう
に存在を主張した。
 恐怖によって誘導されたノルアドレナリン。
 そのノルアドレナリンが変化した何かが、活性物質となりうるとしたら。
 全てがただの仮説の域を出ない、まるで妄想のような考えだった。
 普段の自分なら、そんな考えを聞かされたところで一笑にふして闇の中に葬り去るだろう。
 だが、ローズマリーの中で、それが事実であるのだと何かが訴えていた。
 ローズマリーは逸る気持ちで紅い花のDNA抽出コードを写した部分のメ―ルを見返した。
 それは、カイルが受け取ったのであろうメールが全てコピーされた形でこそにのっていた。DNAコ
ードの送り手のアドレスも載せて。
 フリーメールではないそのアドレスに、ローズマリーは見覚えがある気がした。
 携帯電話を取りだし、ジャスティスに電話をかける。
「ジャスティス? 今から言うドメインに覚えはない? カイルにDNA抽出コードを送ってきた人間
の使っているメールアドレスなんだけど」
 そう言った瞬間、コンピューターの画面に、新たなメ―ルの到着を告げるメッセージが流れる。
「もしもし? 姉さん、知らないの? それはこの研究所のLAN専用のドメインだよ」
「え?」
 メールを開きながら、思いがけない返答にローズマリーは返す言葉を失った。
 この研究所内?
 疑問に頭をいっぱいにしたまま、メールの文面に目を向け、次の瞬間、ガタと音を立ててイスから立
ち上がった。
「ジャスティス?」
 口から漏れた言葉に、インカムを通して聞こえる電話の向こうのジャスティスの声が「なに?」と聞
き返していた。
 だが今のローズマリーのささやきは、ジャスティスに向けられたものではなかった。
 メ―ルの文章がローズマリーに向かって嘲笑いを浮かべていた。



―― ローズマリー姉さんだろ? はじめまして。   〈エデン〉のジャスティスより



「〈エデン〉のジャスティスって、誰よ」
 ローズマリーの呟きにジャスティスが「え?」と聞き返す。
「今メールが来たわ。〈エデン〉のジャスティスから」
 電話の向こうでジャスティスが閉口する。
 ローズマリーはそのメールに返信する。



―― あなたは誰? 



 すぐに返ってくる返信。



―― オリジナルとかいうジャスティスが〈エデン〉に作った、もう一人のジャスティスとでも名乗っ
ておこうか?
 俺の送ったプレゼントは気に入ってくれたかい?
 真っ赤な花束。



 真っ赤な花束。紅い花のDNAコード。
 画面に手をついて文字を見つめたローズマリーに、追い討ちをかけるようにメールが届く。



―― カイルは発病したかい? あいつの精神構造から言って、発病は免れない。まあ、俺がゲームの
中でそういう人間を選別してマルチエンディングでたどり着ける人間だけを誘導してたんだけどな。カ
イルが発病したとなれば、側にいるオリジナルのジャスティスも感染するだろうな?
 そうしたら、姉さんは、死に損ないのジャスティスと、〈エデン〉で待つ俺と、どちらを選んでくれ
るのかな?
 ちなみに、〈エデン〉にジュリアを連れて来てくれるというなら、きっと気に入ってもらえるプレゼ
ントを渡せると思うよ。
 オリジナルのジャスティスを救えるワクチン。



 ローズマリーの目が画面の上の文字を何度も追う。ワクチンという文字を。



「姉さん?」
 電話の向こうで、本物のジャスティスの声が問い掛けてくる。
 その声に、ローズマリーが呟いた。
「〈エデン〉へ行かなくては」
 メールの返信を打つ。



―― 待っていなさい。必ず行くから





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