第四章   天使の烙印



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「ぼくの母がローズマリー?」
 あまりに予想外の言葉に、スイレイの顔に笑みが浮ぶ。どこか壊れたような悲痛な笑みが。
「そんなはずはない。だって写真だってある。母が妊娠中の写真で、大きなおなかで笑ってた」
 独り言のように呟くスイレイを痛ましげに見つめながらジュリアも頷く。
「そうよ。わたしも見たことある。大きなおなかが誇らしげなおばさんの写真。バレリーナの道をあき
らめて、それでも子どもができたことが嬉しかったのよっておばさん言ってたし」
 援護射撃のように言ったジュリアだったが、フェイはそんなジュリアに首を横にふる。
「……母親というのをどう定義すればいいのか分からないが、分けようと思えばいくつかの母親の定義
に分けられるだろう? 遺伝的な意味の母親、産みの親、育ての親と。レイリはその産みの親と育ての
親だということだ。実際に俺だってこの目でレイリが妊娠して大きな腹でいたときを見てるし、そのと
きはカルロスとレイリの子どもだって信じてたよ。ローズマリーの話を聞きだすまでは」
 確信のこもったフェイの声に、スイレイもジュリアも反論の余地をなくして口ごもる。
 スイレイは身動き一つぎこちなく軋む体に圧倒されながら、両手を強く握った。
 息を吸うことさえも苦痛になるほどの嫌な緊張に体が悲鳴を上げ始める。
 胃が縮み上がって痛みが走り、苦しくなる呼吸に大きく息をつく。
「母は、知っているのですか?」
「……いや、たぶん知らないだろう。どうやったのかは知らないよ。でも、カルロスは自分が人工的に
作り上げた受精卵をレイリに産ませた。そして、そのことに気づいたからこそ、ローズマリーはペルを
産んだんだ。……カルロスの手からレイリとペルを守るために」
 言い辛いことを口にするように顔をゆがめ、フェイが言う。
 フェイにとっても、これは苦しんだ過去の話のはずなのだ。
「えっと。……あのさ。全然話が見えないよ。分からない。どういうこと? なんでそこにマリーおば
さんがペルを産む話が出てくるのかも、人工的に作られた受精卵だとか、全然分からない!」
 ジュリアが混乱した自分を整理するように大きな声で言う。もうお手上げだとばかりに大げさな仕草
で頭を抱える。
 理解もできない。だが理解もしたくない。
 それがスイレイの本心だった。
 自分たちが、ごく普通の家庭に生まれ、ごく普通の人間として育ってきたのだと思ってきた。だが、
そんな当たり前のことが儚く消えていく夢だったかのような気さえしてくる。自分とペルの出生には、
どれほど多くの罪が絡み付いているというのだろう?
 心が痛くてたまらなかった。
「遺伝子の話は俺は専門外だから、ローズマリーに聞いたままに喋るけど、おまえたちの方が詳しいん
だろ? だからその都度おまえたちが注釈をつけてくれればいいんだが」
 動揺するジュリアとスイレイを窺うようにしながら、フェイが言う。
 そのフェイに、ジュリアは頷きながら俯いたスイレイを見る。
 スイレイも億劫そうに顔を上げると、蒼ざめた顔で頷く。
 その二人の顔に「いいんだな?」と確認をとるような目配せをしたフェイだったが、大きく息をつく
と身を正して話し始めた。
「人間の遺伝子の長さは一文字づつ書き表したらとんでもない厚さの辞書ができてしまうくらいのもの
なんだろう?」
 それにスイレイが頷く。
「DNAは幅が僅か0.000002ミリしかありません。それが総延長1.74メートルになり、0.001ミリとい
う大きさの核の中に収められています。これでは単位が小さすぎてわからないというなら、600倍に拡
大してみます。それだと、0.6ミリの糸が約530キロになります。この長大な糸の上に12ミリおきに
遺伝子が置かれているというかんじです。それだけ長大なものだからこそ、ヒトゲノム計画も長い年月
を費やしたわけです」
「ふむ。だがその遺伝子も、95パーセント以上が使われていないと聞いたんだが」
「ええ。俗にジャンク遺伝子なんていわれていますね。無駄だという意味で。でもその直接蛋白質の製
造指示を出すわけでない遺伝子、イントロンと言いますが、これが無駄なわけではありません。RNA
が遺伝子を読み取り、エキソンとイントロンを分ける作業、スプライシングを行ないます。そのスプラ
イシングこそが、新たな遺伝子の組み合わせを作り上げるのに必要なことだと分かってきたんです。
環境の変化に合わせて動物はその姿形を変え後代に伝えることがあります。昆虫の擬態なんかがいい例
でしょうか? 住む環境に合わせて体の色を変えるという作業ができるようになっていった。あるい
は、飛ぶという必要をなくした鳥のある種が、羽を退化させて泳ぐという技術を、ある島にいる種だ
けに獲得させていく。少数であって自然淘汰されるはずの突然変異がある環境に住む個体群の中では
伝わっていくというようなときにこの機能が必要です。そうした知的情報を処理し、エキソンとして発
現させるのがイントロンではないかと言われています」
「……ほう。半分くらいしか分からないが、それだけ遺伝子がスゴイということは分かったかな?」
 そんなフェイが答えに、ジュリアが横で笑う。
「そのフェイおじさんが今回の謎解きの要となる情報を持っているっていうんだから怖いわよね」
 冗談めかして言うジュリアに、もっともだとフェイがうなずく。
「もしそのイントロン? の部分がつねに全て作動している状態になったとしたら、スゴイことなんだ
ろ?」
 思っても見なかった言葉にスイレイとジュリアが顔を見合わせる。
「そりゃ、スゴイでしょう。人間は大抵脳の90%は使っていないなんていわれてるけど、それがフル
活動始めるようになるようなものよ。どんな能力や思考が成立するか予想もつかないわね」
「ローズマリーがいうには、カルロスはその状態を願っていたというんだ。手始めに、人間の持ち得な
い免疫機能をそのイントロンの活性で持つようにできないだろうかって」
「免疫機能?」
 その言葉に、スイレイが嫌な予感を抱えながら聞き返した。だがこの言葉こそが、フェイが囁いた言
葉に意味が与える。ペルや自分が病気に罹るはずがないという言葉に。
「人間の免疫機能は動物の、ネコなんかに比べたら脆弱といえるかもしれないわね。ネコはかなりの病
気に対する抗体を持っているもの。ある意味でネコの方が人間よりも完全体に近いなんて話も聞いたこ
とがあるけど」
 ジュリアが言ってから、「まさかねえ」という目でスイレイを見る。
「スイレイの遺伝子の中にネコの遺伝子が混じってるなんていわないでしょ? スイレイは瞳孔縦長じ
ゃないしね」
 じっとスイレイの目を覗き込んで、ジュリアが安心したように胸を撫で下ろす。
 だがフェイはそんな二人の緊張を解こうというやり取りに水を差す。
「まさにそのまさかに近いんだろうな。ネコの遺伝子を継いで入れたと言ってなかったけど、参考には
したって。イントロンの中にネコの免疫システムと同じ配列の部分を見つけてどうのこうのって……」
 昔の記憶をたどるように目を上向かせるフェイを、スイレイとジュリアが絶句して見つめた。
「……そんなSFみたいな話、嘘でしょ?」
 ジュリアが引きつった笑みで言う。
 その顔に、真顔でフェイが首を横にふる。
「カルロスは完全な人間を作りたがっていた。そして、それには生殖技師として高い技術を持っていた
ローズマリーの助けが必要だった。ついでにより完全に近い優良な卵子を提供してくれる存在としても。
ローズマリーはそのカルロスの考えに乗ったんだ。まさか本当にその受精卵が妊娠を経てこの世に生ま
れるとは知らずに」
「……そのまさかがぼくか……」
 まるであきらめに似た空気を漂わせながら、スイレイの中にその事実が落ちた。
 自分は作られた命だったのという事実。それが母レイリを欺くようにして父の画策のもとでなされた
こと。ローズマリーもそのことにある程度の関与があったにしろ、利用されていたということに。
「それに、ペルはどう関係するの?」
 ジュリアがスイレイの代わりに口を開く。
「カルロスは、出来上がった完全な命を、再び雑多な遺伝子を持ったものとの交配で乱されることを嫌
った。だから、同じく完全なDNAを持った女性体を作って交配させようと画策した。必ずお互いが惹
かれあうように細工をして」
「……交配って……」
 スイレイとペルという完全体同士で作る子どもを得ようとした。
「まるで自分の息子も実験動物扱いだ」
 ソファーに倒れこんだスイレイが、額を両手で覆う。
 ローズマリーの言葉の意味が始めて理解できた瞬間だった。
 お互いに引き合う存在となるように、遺伝子に手を加えた。
 それが父カルロスの思惑であったことが、スイレイには痛かった。愛した人との愛の証しとしてでも、
自分の遺伝子を持った子どもを次世代に残したいという思いでもなかった。ただ、自分の理論の発現と
しての通過点でしかない、自分という命の価値。
 ペルもかつて味わったのだろう心の痛みに、スイレイは身を引き裂かれる思いだった。
 そして父が預かり知らぬところでは言え、思惑通りに自分はペルとの子どもを作ってし
まった事実。
 それを知っているローズマリーは、何を思って手を貸しているのだろうか?
 ジュリアがスイレイを労わるように見つめていた。
 そのジュリアとて、自分が本当に〈エデン〉でペルを妊娠させたと知れば、こんな優しげな目をしな
いだろう。それが仕組まれた流れの中にあったのだとしても。
 スイレイも自分が被害者なのだと主張するつもりはなかった。
 ペルを愛したのは自分の意思だ。愛し合ったのも、子どもを産むという決定を下したのも。全て自分
の意志と責任の上でなされたものだ。
 フェイが二人にコーヒーを入れるために立ち上がりながら、先を続けた。
「ローズマリーは、カルロスの思惑を知って、女性体の受精卵を盗みだしたんだ。再び騙されて子ども
を産むレイリが憐れで、生まれてくる子どもの運命も初めから悲劇と決定されているようなことは許せ
ないって。あのときのローズマリーの気持ちを直訳すれば、こうなるだろうな。でもあの性格だ。言い
訳がましいことは何一つ告げず、ただ妊娠したって、言われたんだ。あなたの子どもじゃないけどって」
 フェイの自嘲気味の言葉にスイレイとジュリアが顔を上げた。
 二人の目の前に湯気をあげるコーヒーカップを置きながら、フェイが笑う。
「どんなにショックだったか分かるだろ? 俺は科学なんて分からない。理論なんてクソ喰らえってな
くらい、感性で生きてるしな。そんな自分を惨めだと思ったことはないけれど、自分には未知の世界で
共に時間を過ごしているカルロスとローズマリーに、何も感じないわけがない。自分には持ち得ない、
共有できる時間や生きがいを持っていることが、有体に言えば、妬ましかった。そのカルロスの子ども
だなんて」
 コーヒーの湯気の向こうで笑うフェイだったが、そのときの気持ちはスイレイにも分かる気がした。
 どれほど自分の存在価値を否定され、プライドを傷つけられたことだろう。
「それで、この遺伝子のカラクリはいつ聞き出したの?」
「……妊娠したと告げられたその時だよ。カルロスと寝たのか? って問い詰めた。そしたら自分たち
は病気に対して完璧な抗体反応をもつ人間を作り出したかった。だから自分の卵子とカルロスの精子を
受精させた受精卵を使って研究をしていたんだって聞かされたんだ。おまえたちに分かるかな? 俺に
とっては、もしかしたらカルロスとの浮気のすえに子どもができたって言われたほうが、まだ許せたの
かもしれないんだ」
 フェイはカップを手にソファーに戻って二人の前に座る。
「浮気の方がよかったっての? どうして?」
 ジュリアがあり得ないと眉を顰める。
「……おまえたちの親は二人とも遺伝子関係の仕事をしているから抵抗がないのかね? 俺は、人が踏
み込んでいい領域を、命の尊厳という領域を平気で踏みにじっているように感じてならなかったんだ。
受精卵を使って研究していたってことは、もしかしたら、普通なら命としてこの世に生を受けていたか
もしれない命を、切り刻んで消滅させたってことだろ?」
「それは、そうだけど。だったら人工授精で子どもが持てるようになって喜んでる夫婦はどうするの?
 試験管ベイビーを作るには、母親の体内からたった一つの卵子を摘出して受精させればいいわけじゃ
ないのよ。数十個の卵子を受精させて、できた受精卵の中から選ぶしかない。だっていくら子どもが欲
しいって言ったって、一気に十人以上の子どもが生まれても困るし、だいたい母体が持たない。子ども
だって正常に育つのか分からない」
「ああ、そうだよ。子どもが欲しいと思っている夫婦には便利な世の中になったんだろうよ。でも、出
来るようになった=それが正しいこと、じゃないだろう。そうやって、人間が人間の命の選別をするよ
うな事態を招くことをすることが正しいのか? と俺は言いたいんだ。踏み込んではならない神の領域
ってものがあるはずだ。人間は完璧じゃない。今までだって歴史の中で繰り返されてきたことだろ? 
よかれと思ってやっていたことが、後でとんでもない惨事を招いたなんてことは。DDTの散布がマラ
リアを媒介する蚊は退治したが、同時にネコも殺していたがために、ボリビア出血熱を蔓延させるネズ
ミが大量発生して村が全滅した。たかだか薬一つの使い方でも、未知の奇病が発生してるんだぞ。これ
が遺伝子だ、なんだってよく分かりもしないものを弄くりまくって、その過程で人の命まで弄ぶ」
 熱く語るフェイに圧倒されながら、ジュリアが納得しない顔ながら、思うところがあったのか頷く。
「そういうところが許せなかった?」
「ああ。命の価値を天秤にかけて量るような女とは、一緒にいられないと思った。しかもローズマリー
が言った一言が許せなかったのかもな。愛しているのはあなただけど、遺伝子的に欠点がないのはカル
ロスなの、ってな。俺には先天的に病気になる遺伝子が含まれてるんだとさ。俺は発現しないけど、子
どもの代には分からないって」
 遠慮のない言葉でしか語らないローズマリーにそう言われたとしたら、フェイは自分との子どもは作
りたくないと言っているように聞こえたのではないだろうか。スイレイはそう思い描いてから自分も言
われた場面を想像して心が重くなるのを感じた。
 もちろん子どもを持つことだけが最高の愛情のやり取りではないにしても、家庭を一緒に築くことを
希望する人間には、手痛い仕打ちだろう。
 ジュリアは苦笑いするフェイを笑いながら、ソファーの背もたれに凭れ掛かる。
「なんか複雑だな。軽薄な女だと思って軽蔑していたマリーおばさんが、ただの軽薄な女には見えなく
なってきた。もちろん間違ったこともしてるんだろうけど、自分が恨まれるのが分かっていながら、言
い訳一つせずにペルを生んだんだよね。レイリおばさんとペルを守るために」
 今まで伯母と姪の間にあったやり取りを考えれば、この話を聞いたからといってすぐに態度を変える
ことはジュリアにも難しいだろう。たとえジュリアが変わったとしても、あのローズマリーが素直にそ
れを受け入れるとも考えずらい。
 困ったように眉を下げてみせるジュリアに、スイレイが笑う。
 そんな二人を見下ろしながら、ふと気がついた顔でフェイが言った。
「ところでジュリア、いつまでそんな格好してるつもりだ。とりあえずこの部屋には独身の男が二人も
いるわけでな」
 そう言われたジュリアが、バスローズのままの自分の姿を見下ろし「あはは」と笑う。
 そしてフェイとスイレイにベットに肢を掛け、お色気ポーズを取って見せたジュリアだったが、着替
えるから隣りの部屋に言ってと二人を追い出す。
「覗かないでよね!」
「俺はジュリアのオムツまで替えたからなぁ」
「バカなこと言わないで!!」
 隣りの部屋から聞こえてくる声に、ジュリアが叫ぶ。
 フェイが売店で買ってきてくれたらしいTシャツを手にしながら、やけに子どもじみた花がらに顔を
顰める。
 とそのとき、ジュリアは机の上で光っている携帯に気付いて着替える手を止めた。
 スイレイが机に置いて行った携帯電話だった。
 こんな非常事態だ。何かの連絡が入ったのかもしれない。
 ジュリアはそう思って携帯を手に取った。
 だがその液晶に浮んだ文字に、目を見開いた。
 メールを送ってきた相手。それはペルだった。



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