第四章   天使の烙印



5

 宇宙服のようなラディカルスーツを着込むジャスティスとマリアンヌを、ローズマリーが手伝ってい
た。
 腕や足の継ぎ目をテープで塞いでいく。
 メットの中のマリアンヌの顔を見つめながら、ローズマリーが「大丈夫?」と尋ねる。もうインカム
を使わない限り、声は内側にいる人間にも伝わらない。
 だがマリアンヌは青白い顔でありながらも、同性であるローズマリーの気遣いに頷いてみせる。
 マリアンヌをカイルに会わせてやる。
 ジャスティスがそう言い出したとき、ローズマリーは反対した。
 すでに死の間際にあるカイルの壮絶な姿を見せることは、マリアンヌにとって悪夢に過ぎないのだか
ら。思い出すのが、手術痕ばかりになった、反応も示せない相手の姿では苦しすぎる。
 だがやってきたマリアンヌの顔にある決意に、ローズマリーは反対を唱えなかった。
 もしかしたら愛する人だからこそ、死を受け入れるためにその姿を確認することが必要なのかもしれ
ない。
 カイルが息を引き取れば、今後の事実解明に必要な器官の摘出を除いては、カイルの体は即時処分と
なる。骨一つ残さない高温で病原体ごとこの世から消滅させるのだ。
 だからそこ、カイルの生きている姿を見る機会は、今を逃したらないのだ。
 ジャスティスがマリアンヌの手を引いて歩き始める。
 陰圧に保たれたグレイゾーンへと歩を進め、強固なロックで病原体を物理的に建物の中に閉じ込めた
中へと入っていく。
 隔離されたグレイゾーンをゆっくりと抜け、レットゾーンへ。
 その様子をモニターで確認しながら、ローズマリーはギュッと拳を握った。
 これからマリアンヌが目にするカイルの姿は、ほんのあと少しでジャスティスのものへと変わるのか
もしれない。頭では分かっていても、心は受け入れまいと格闘する。
 ローズマリーは幸運にも感染はしていない。だが心が、すでに暗闇の中で逃げ惑う苦しみにもがいて
いた。



 生きている人間なのだろうか?
 これがカイルだと知っているからこそ、その体の中に命の僅かばかりの炎を感じるが、これが見ず知
らずの他人であれば、死体だと即決したかもしれない。
 肌は青白く変色し、腹には大きな手術の痕を覆うガーゼが貼られていた。
 点滴するための血管の確保もままならなかった結果だろうが、両腕の内側は内出血の痕だらけだった。
 両目は摘出の後ゆえに包帯で覆われ、色を失った唇は乾ききっていた。
 インカムを通して、マリアンヌの激しく乱れる息の音が聞こえた。
「マリアンヌ? 大丈夫か?」
 ジャスティスが隣りに立つマリアンヌを顔を見る。
 ショックに色をなくした顔が、見開いた目でカイルを見下ろしていた。
「これが……カイル?」
「……そうだよ。今はもう何の反応も見られないけれど、彼はまだ確か生きている」
 マリアンヌが大きく唾を飲む音がする。
 そして大きく息をつくと、寄り添うようにカイルの体に近づいた。
 その手がカイルの顔を覆う包帯へと伸びる。
「何をするの?」
 後ろから声を掛けたジャスティスに、だがマリアンヌは手を止めようとはしなかった。
 動かしづらい厚いグローブをゆっくりと動かし、母親が自分の子どもを労わるような優しさで包帯を
解いていく。
「マリアンヌ。カイルの両目はもう摘出されている。君の知っているカイルの顔ではもう……」
 声を掛けていた矢先に、カイルの顔が現れる。
 眼球を無くして大きく抉れた眼窩ばかりが目立つカイルの顔。
 その頬に手を当て、マリアンヌがカイルに声を掛ける。
「カイル。聞こえる? わたしよ。マリアンヌ」
 インカムを通して話されるマリアンヌの声を、レベル4実験室のスピーカーを通してカイルに届ける。
 もちろんカイルにその声が聞こえているのか、あるいはもうすでに聞くという機能すら失われている
かもしれない。それでもマリアンヌは話し掛け続けた。
「どうしてこんなことになったの? おととい会ったときにはすごく元気だったのにね。覚えている?
 あなたわたしが作った料理を食べ過ぎて苦しがって倒れてたわよね。ズボンのベルトとボタンまで緩
めてソファーに倒れ込むあなたに、わたしみっともないなんて言ったけど、本当は嬉しかったんだ。わ
たしは料理、そんなに上手でないでしょ? それなのに、毎回残さずに食べてくれる姿が嬉しかったの。
食べることの楽しさは、あなたと知り合ってはじめて知ったのよ。あなたが目の前にいて一緒にする食
事だけが、楽しかった」
 グローブ越しの愛撫をしながら、マリアンヌが陶然と話し続ける。
 その様子を、ジャスティスは黙って見つめていた。
「いつもわたしは文句ばかりで感謝を伝えることができなかったね。でも、そんなわたしを笑って受け
入れてくれるカイルが大好きなの。本当に、あなたのためなら何でもしてあげたいと思うくらいに、大
好きなの。……だから置いていかないで」
 マリアンヌの声に涙が混じる。
 その一瞬だった。ジャスティスはカイルの眉がほんの少し動いた気がした。体は微動だにしていない。
だが、ほんの少しの変化がその顔にあるような気がした。
 もしかしたら、カイルには明確な意識があるのかもしれない。
 ジャスティスは過ぎったおそろしい考えに愕然とした。
 体の動きが一つとして思い通りにならない。ならばどうやって想いを伝えるのか。
 その表情一つとして動かないその体を見て、外部の人間はまるで意識そのものまで喪失したかのよう
に感じるのではないか?
 もし自分の考えが正しいとしたら、カイルは今自我の海に溺れる思いで横たわっていることになるの
ではないのか? カイルが感じているのに訴えることのできない痛みに苦しんでいるのではないか? 
そして、伝えたいのに伝えられないマリアンヌやジャスティスへの想いという海の中でもがき苦しんで
いるのではないか?
 ジャスティスはカイルの顔を上から覗き込みながら声を掛けた。
「カイル。ジャスティスだ。おまえにはもしかして意識があるのか? もしわたしの声が聞こえている
のなら、眉をほんの少しでいい動かして見せてくれ」
 ジャスティスの呼びかけに、マリアンヌも必死でカイルの顔を見つめた。
 実験室の中に沈黙が落ちる。苦しいほどの緊張にかたまった空気の中で、カイルの顔を凝視する。
 そしてほんの少し、カイルの眉が動く。
 それを見た瞬間、マリアンヌがスーツを着ていることを忘れたかのように声を上げて泣き、カイルの
顔に抱きついた。
「あああああぁぁぁぁぁ……カイル、カイル。どうして……愛してるのよ。ずっと一緒にいたいの……
もっといろんなことをカイルとしたかった……まだ足りないよ……一緒にいる時間が足りないよ……お
願い死なないで……約束したじゃない。子どもができたらって……家を買って、犬を一緒に飼って、…
…わたしは子どもに美しいものを教えてあげたい、あなたは賢い子どもにするための胎教からするだっ
て……ねえ、そうでしょ? だったら今してよ。子どもができたのよ……どうして一緒に手を取って喜
べないのよ……カイル、あなたの子よ……ねえ……」
 吐き出すようにして出たマリアンヌの訴えに、ジャスティスも熱くなる目頭に力をいれ、堪えた。
 そして流れ落ちたカイルの涙に目を閉じた。



「一昨日の夜にカイルに会ったのが最後です。本当にその時は元気で、興奮して何かのゲームの話をし
てました。もう少しでクリアできそうなんだって言って」
 カイルの手を握って、マリアンヌが話しだした。
 そのマリアンヌがクスリと笑いを漏らす。
「そのゲームの話で喧嘩になったのよね。どうしてあなたはゲームの話ばっかりなのよって。そしたら
珍しくおまえもたまには、俺のこの溢れそうな喜びに共感してくれたっていいじゃないかって」
 いとおしそうにカイルを見つめるマリアンヌを、ジャスティスはじっと見つめた。
「喧嘩別れ?」
「いいえ。ご機嫌斜めになってみせて、カイルの前の、まだオムライスの残ったお皿を取上げたら、ご
めんごめんってカイルが必死に謝ってくれたので、許してあげましたよ。仲直りのキスもしたし。ね?」
 カイルに話し掛けるマリアンヌが微笑む。
「いつもカイルにばかり謝らせてたわよね、わたし。ごめんね」
 楽しい恋人たちの語らいのように、マリアンヌが言葉を紡ぐ。たとえ、それに返答はないのだとして
も。
 その横顔を苦しい思いで見つめながら、ジャスティスが口を開く。
「……その、答え難いことだとは思うけど、その晩セックスは?」
 マリアンヌが頷く。
「避妊は?」
 それには首を振って否定する。
「もう結婚するつもりでいたから。現に妊娠してるわけだしね。昨日分かったばかりなんですけどね」
 マリアンヌが苦笑する。
 マリアンヌは避妊なしの性行為をカイルとしながら感染がない。ということは、カイルの感染はもっ
と後だということになる。マリアンヌと別れた後の昨日の朝から発病した姿でジャスティスの前に現れ
た夜の10時までの間。
 研究所内のどこかでだと確定できる。
「……そういえば、電話してるわ。わたし」
 考え込んでいたジャスティスの前でマリアンヌが口を開いた。
「あれは午前中だったわよね。10時くらいかな?」
「10時?」
「ええ。カイルったらやけに小声で話してて、わたしは何度も聞き直すはめになったわ」
 昨日の午前中といえば、ジャスティスはニューワールドでの植物採取をしていたはずだ。
 その時、ジャスティスの中で何かが繋がった。
 ニューワールドとカイル。
 確か何かがあったはずだ。
「あ!」
 ジャスティスは声を上げた。
 メールが来たはずだ。カイルからの。
 ゲームのクリアを伝えるメール。そしてクリアしたご褒美にジュリから贈られたプレゼントについて
のメールが。
「そのとき、カイルは何をしていたのだろう?」
「さあ? でも確か、秘密のことをしているから大きな声で喋れないんだって。許可なしで何かを使っ
てるからって言ってました。悪いことしてるんじゃないでしょうね? って言ったら、それはないから
って笑ってましたけど……まさか」
 顔を上げたマリアンヌに、だがジャスティスは余裕がなく目をそらした。
 あのメールに書いてなかっただろうか? ご褒美に送られてたのは紅い花のDNAコードだと。
 しかも、ニューワールドでの仕事を終えて自室に戻るときにカイルとすれ違わなかっただろうか?
 何かが入ったバイオチューブを振ったカイルと。
「紅い花……」
 呆然と呟いたジャスティスは、カイルの物言わぬ顔を見下ろした。
「災いを呼ぶ死の花。……そうなのか? カイル」
 そうだとすれば、バイオハザードを起した実験室は自分のラボということになる。現在使用されてい
ないラボだからこそ、検査が入っていない。そしてだからこそカイルが勝手にDNA抽出機が使えた場
所なのだ。
「ドクター?」
 体を襲う悪寒に震え始めたジャスティスに、マリアンヌが声をかけた。
 ジャスティスは激しく震える自分の体を両手で押さえながら、カイルの顔を見つめた。
「わかったぞ、カイル。おまえの仇はとってやる」




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