第四章   天使の烙印



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「カルロスは、君の父親は遺伝子至上主義者であることは理解しているかい?」
 フェイの言葉に、顔を見合わせたスイレイとジュリアだったが、なんとなくは理解できる言葉に頷い
た。
「父が優れた種を残すために苦心しているのは知っています。人間の遺伝子は完璧に作動していないと
いうのが父の口癖ですから」
 スイレイの言葉に、フェイが皮肉げな笑みを口の端に乗せる。
 そして深くソファーに沈めていた体を起すと、ひざの上で両手を合わせ話し始めた。
「そうだな。優れた種を残すというのは、人類と言う種がこの地球に生き残っていく上ではある程度必
要なことなことなのかもしれない。俺も近頃思う。人間は昔に較べて身体的にも精神的にも劣ったもの
になりつつあるのではないかとね。今の世界が生き難いからだと結論付けることもできるが、じゃあ、
50年前の世の中の方が生き易い世の中だったのかといえば、より苦労が絶えない、まさしく生きると
いうことだけに四苦八苦していた時代なんじゃないかね? その時代を生きてきた人間よりも、生きる
ことにそのものには苦労しないはずの今の世代の方がはるかに弱い。その理由を、君の父上ならこう結
論付ける。雑多な劣った種が遺伝子の中に多く混入することで優れた遺伝子が発現しにくくなった」
 今から話されることの先が見通せないまま、スイレイはじっと俯いて話し続けるフェイを見つめた。
 そしてジュリアは、重苦しい空気を笑い飛ばすかのように軽口を言う。
「……優良な遺伝子だけを残そうと? なんだかヒトラーみたいな発想ね。優良なるドイツ民族で第三
帝国を築こうって。カルロスおじさんがそんなことを?」
「信じられないか?」
 上目遣いで問われ、ジュリアは分からないと肩をすくめた。
「ぼくは……」
 自分の父の思わぬ一面を明かされ、スイレイは何をどう受け入れればいいのか混乱したまま口を開い
た。
「……確かに父は遺伝子の研究をする研究者だ。その中でより人間が人間らしい生活ができるための
、時には遺伝子を人為的に作り変えてでも不具合を取り除けるような研究はしているはずだ」
「それも真実の一部かもしれない。だが、どんな人間も、完璧な人間なんていない。どこかに奇形を抱
えて生きているものだ。それが些細なもので自分でも気づかないようなものか、あるいは日常生活にも
支障をきたすような大きなものかの違いで。そんな生まれついての異常を持つものを、将来の地球にと
って役に立たない、排除すべきものだという考えを持っているとしたら、それは正しいことだろうか?
 生まれ持った優れた資質を持ったものだけが優遇され、持たざるものは種を残すことも許されず排除
される」
「そんな極論は」
 父が持つ考えであるはずがない。スイレイは、フェイがローズマリーに絡んだ一件で父に何かあらぬ
疑いを掛けているのではないのかという思いで笑った。
 いくら科学者であろうと、そんな倫理に背いた異常な考えに染まるはずがないと。
 だがあり得ないと笑ったスイレイを、フェイがじっと一片の笑みも見せずに見つめていた。
「カルロスにそういう一面があるということは、君もうすうす感じているのではないのか? だからこ
そ、そんな風に否定したがる。もちろん自分の父親を信じたいという気持ちもあるのだろうが。
 だがこのくらいで傷つくくらいなら、この先の話はできない。君とペルの間にある秘密については」
 スイレイの横で、ジュリアが大きな音を立てて唾を飲み、両手で二の腕を摩った。
 そのジュリアの視線を顔に痛いほどに感じながら、スイレイは混乱していた。自分の中にあった父親
像が崩壊しようとしていた。
 不動で力強い存在として心の中にあったはずの父親像は、あったはずの場所に光を照らせばまるで借
り物の父親像に過ぎなかったことに気づかされる。
 父親とは、黙っていても家族のためにその身を削るようにして働き、守り、愛情を注いでいる存在な
はずだと。
 しかしどんなに思い返そうとも、父親との実際にあった出来事としての思い出がなかった。
 スイレイは自分の横で両手で自分を抱くジュリアに気づいて、上着を脱いでその肩に掛けてやりなが
ら、昔、ペルとジュリアがしていた話を思い出した。
 あれは〈エデン〉を作っているときのことだったはずだ。二人でイサドラに愛情を教えるためには、
愛情を示してやることが大切なのだと話していた。そして、二人は自分の親との思い出を語っていたの
ではなかったか? ジュリアはジャスティスと行ったピクニックの話。ペルは亡くなった父親だと思っ
ていた人物とうさぎの話を。
 じっと見つめてくるスイレイの視線に、ジュリアがどうしたの? と目で訴えてくる。だが、スイレ
イにはそれに答えることができなかった。
 自分の中にあるはずの父親との思い出を、何一つ探り出すことができない事実に、今さらにして打ち
のめされていた。
「ぼくには……父が分からない……今までは分かっているつもりでいたのに……思い返せば、父のこと
は何も知らない。思い出せる思い出の中に父の姿はない。母や、親族でもないジャスティスさんの姿は
あるのに」
「それは、おじさんは研究所の所長で忙しいから」
 思いつめたスイレイの口調に、ジュリアが言う。
「ジャスティスさんだって、副署長だ。同じように仕事をしている。それでいながらジュリアを男手一
つで育て上げた。ジュリアを一人ぼっちにしていたことってあったのか?」
「……そりゃ、学校から帰ってきて毎日お父さんがいたわけじゃないわ」
「じゃあ、家事なんて出来ないジュリアはどうやって生きてたんだよ」
「家事できないは余計なんじゃないの? 洗濯機回すのと洗濯物寄せてアイロンかけるのはわたしの仕
事だったわよ。お風呂沸かすのも、洗うのも。ご飯は毎日お父さんが作ってたけど」
 口を尖らせて反論するジュリアに、スイレイは笑う余裕もなく言葉を紡ぎ続ける。
「ぼくは、父さんと食卓を一緒に囲んだ記憶すらない。いつも母と二人で、ペルが来てからは三人で」
「え? おじさん、ご飯食べないの?」
「……さあ? 食べないことはないんじゃないか? でも、酒飲んでいる姿は見たことあっても、もの
を食べている姿は思い出せない」
「……それはおかしいって」
「ぼくが? それとも父さんが?」
「……」
 二人でしていてもただただ平行線を突っ走っていきそうな会話に、目を見合わせても焦りだけが生ま
れる。
 自分が正常だと思っていた家族が、実はとてつもなく異常だったのではないかという思いが生まれる。
「俺は、君たちのその話を聞いていても、納得するだけだ。あのカルロスなら家族などという枷に捕ら
われている男ではないだろうと」
「枷?」
 思わず眉間による皺に気づきながら、スイレイが低い声で問い返す。
「あくまでカルロスの考えで家族を語るならばということだ。……これは君にとっては聞きたくないこ
とかもしれないがな。カルロスにとって、君の母親レイリは、愛した女性というよりは完全な母体とな
りうる女だったというだけだ。つまり利用されただけ」
 今日の天気を語るのがごとく、さらりと言ってのけられた言葉に、一瞬の空白が生まれる。今の言葉
の意味は何なのだろうと。
 だが言葉の意味がスイレイの中で結実した瞬間、両手の拳を握って立ち上がた。
 ジュリアはその姿をオロオロと見上げる。
「父だけでなく母も侮辱するのですか?」
 スイレイのいつもの穏かさが消え、こめかみに血管が浮き上がる。
 そんなスイレイを、だがフェイは平然と見上げていた。そして、ふと目をそらすとソファーに身を沈
めた。
「君はさっき、自分とペルの間にある秘密を教えて欲しいと言った。なぜ、君とペルの間に秘密がある
と思った? その考えを抱くには、それなりの理由があるのではないのかね?」
 人間、図星を指されるほどに怒り狂う。
 スイレイもそれを痛感する瞬間だった。
 父は良識から離れたマッドサイエンティストなのかもしれない。そして母は、その父に利用されただ
けなのかもしれない。
 そんな心の中の疑惑に真っ直ぐに指を指されたからこそ、スイレイはたまらなかったのだ。そんな事
実には気づきたくもなかったのだ。
 しかも、そう思わざるをえない事実を自分は知っている。
 スイレイは崩れるようにソファーに腰を落とすと、頭を抱えた。
「ぼくとペルの遺伝子は、人為的に作りかえられている。男と女だという性染色体の違いを除けば、ほ
ぼ同一。性別の違いさえなければ、一卵性双生児かと思うほどに」
 その初めて聞かされる告白に、ジュリアが息を飲んだ。
「一卵性双生児? そんなことがあるわけないじゃない。一卵性双生児は、一つの受精卵が分裂して多
胚化した結果よ。だから遺伝子も同じなら顔形も似ている。当然性別だって同じはず。そうでしょ?」
「……本当ならね。それに、おかしいと思わないか? いくらローズマリーが父との間に作った子ども
がペルだとしたとしても、ぼくの母はレイリ。ローズマリーとは別人。それなのに、どうしてぼくとペ
ルの遺伝子が同じになるんだ」
 ジュリアの顔からも血の気が引き、隠されていた秘密の重みに気づきはじめる。
「それって……」
 二人は黙ってやり取りを見つめていたフェイを見た。
 じっと二人の出す結論を待っていたフェイは、おもむろに口を開く。
「スイレイ。……君の遺伝学上の母親は、ローズマリーだ」



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