第三章 交わらぬ軌跡



8

 こんなに苦しい沈黙は今まで経験したことがない。
 ジュリアはハンカチで顔半分を覆ったまま、スイレイの後を歩いていた。
 目は泣きすぎて腫れぼったく重かった。
 今となっては派手なドレスやアクセサリーがどうしようもなく恥ずかしくてしょうがない気分だった。
 つい数時間前とは大違いだ。
 着飾ったドレスも嬉しくてしかたがなかった。
 スイレイの隣りに立っていられることも、今乗り込もうとしているオープンカーの存在も。今では、
自分をますます惨めにするだけだった。
 無言のうちに車に乗り込み、すぐにはエンジンを駆けないスイレイがハンドルに手を置いたまま黙り
込む。
 ジュリアはスイレイが何か言い出しそうな雰囲気に、あえて無視するように顔を外に背けた。
 今は何も言わないで欲しかった。
 何を言われても、それは一番欲しい言葉ではないのだから。
 スイレイが小さくため息をつき、キーに手を伸ばした。
 そのとき、不意にジュリアは自分の抱えたバックの中でした携帯の振動にビクッと体をすくめた。
 急に動いたジュリアにスイレイの動きも止まり、こちらを見る視線がくる。
 ジュリアはその視線を無視して咳払いすると、バックから携帯電話を取り出した。
 そして液晶に映った名前に、眉の根を寄せた。
「はい」
 どこか警戒するような低い声で電話に出たジュリアは、名前のでない相手の電話を取った。
「ジュリアか?」
「フェイおじさん?」
 ジュリアはジャスティスの昔からの親友だと紹介された男の電話に声を上げた。
「急に携帯に電話してすまない。君のお父さん、ジャスティスから連絡をもらって」
「お父さんから?」
 横でジュリアを心配そうに見ていたスイレイに、ジュリアはひとまず知っている人だからと目で合図
を送る。
「家には戻るなという伝言だ」
「え?」
 ジュリアの眉間に皺が寄る。
「戻るなってどういうこと? お父さんがそんな事言うわけが……」
「ジュリア、今誰かと一緒か?」
「うん。幼馴染のスイレイが」
「ああ、スイレイか。電話を代わってくれないか?」
 フェイに対して持っていた印象と違う固い声に、ジュリアは疑問を残した顔で電話をスイレイに渡し
た。
「スイレイに代われって」
「ぼくに?」
 スイレイは電話を受け取ると、話し出した。
「はい、代わりました。スイレイです」
「ああ、急にすまないね。フェイだ。ジャスティスの大学時代の親友で、元ローズマリーの婚約者だ、
といえば分かるか?」
「……はい」
 スイレイはなぜそんな人物から電話を受けるのか分からないまま、頷いた。
「ジャスティスから電話があった。研究所で問題が起こったらしい。だから家には戻ってくるなという
伝言なんだが」
「問題?」
「……バイオハザードが起こったと。今はもう軍の監視下に入った」
「軍の?」
 スイレイは頭から血が引いていくのが分かった。
 ただのバイオハザードではない。感染の危険の高いなにかが漏洩したのだ。
 研究所には父も、ジャスティスも、ローズマリーもいる。
 研究所と併設された宿舎のスタイルを取った一角に家がある。つまり家にいただろう母も監視下に入
ったということだ。
 いったい何が起こったというのだ。
「スイレイ?」
 ジュリアが蒼ざめていくスイレイの顔色に気付いて尋ねてくる。
 そのジュリアを手で制して、スイレイは電話口の向こうにいる男に言った。
「それで、ジャスティスさんからの指示は?」
「俺もジャスティスの家にいたのでな、すぐに出ろと言われて街のホテルに退避した。済まないが君た
ちもここに来てもらえないか」
 一瞬の逡巡のあと、スイレイは頷いた。
「わかりました。今から伺います」
「気をつけてな」
 どこまでも冷静な男の声が切れる。
「なんだって? お父さんが家に帰ってくるなって言ったって、どういうこと?」
 ジュリアの不安に染まった声を聞きながら、スイレイはジュリアの携帯で電話をかけ始めた。
 どこかに電話を繋いだあと、なにかの操作をして再び電話番号を打ち込んでいる。
「何、何してるの?」
「ジュリアの番号だと通知されないように、違う電話を経由して家にかけてみる」
 数回の呼び出し音のあと、母レイリが固い声で電話に出た。
「こんにちは、レイリおばさん。スイレイの従兄弟のニールですけど」
 電話の向こうが沈黙する。
 ニールなどという従兄弟はいない。だが、母にはこの電話をかけてきたのがスイレイだということは
声でわかるはずだ。
「ああ、二―ル、こんにちは。元気かしら?」
 スイレイの考えを理解したらしい。母がこちらに合わせて返答した。
「今、大学の研修でこちらに来ているものですから、スイレイにも会いたいと思って。明日とかお伺い
してもいいですか?」
「ああ、二―ルごめんなさい。今、……ザービオッドハーが来ていて、あなたを迎える余裕がないの」
「ザービオッドハー……ですか。それは残念だ。またの機会に寄せていただきます。突然にすいません
でした」
「いいのよ。あなたも気をつけて」
 怪訝な顔で見守っていたジュリアに、スイレイは電話を返すと急にきた震えに強くハンドルを握った。
「ザービオッドハーって何?」
「アナグラムだよ。母さんが並び替えていったんだ」
「なんのアナグラム?」
「……」
 スイレイはハンドルに顔を埋めた。
「何なんだよ。どうしてこんなことが……」
 激情すら沸いてこなかった。
 腰から砕けてしまいそうな恐怖しか湧いてこない。
「スイレイ?」
 弱々しい声で問われ、スイレイは顔を上げるとエンジンをかけた。
「バイオハザードだよ」
「え?」
 あまりに耳慣れたその言葉が、頭の中で意味をなさずに流れていく。
「バイオハザード?」
「研究所がバイオハザードを起した。今、軍の監視下に入ったそうだ」
「……」
 ジュリアが声にならない悲鳴を上げてハンカチを握りしめた。
「今からフェイのところへいく」
 車が闇の中を走り出す。
 自分たちの向かう先がどこに繋がっているのか、スイレイにも分からなかった。




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