第三章 交わらぬ軌跡




 顕微鏡から目を上げ、ジャスティスは疲れた目を揉みほぐした。
 そこへ同じように疲れた顔で入ってきたローズマリーが、顔上げたジャスティスに頷いた。
「カイルの手術は終ったわ」
「ああ」
 ジャスティスはローズマリーにイスを回転させて向き直ると、大きくため息をついた。
「大変な手術だったんだろうな」
「手術それ自体は簡単な処置だけだったけれど、何の病気か分からない患者の執刀をみんな嫌がって。
今もカイルはP4に隔離よ」
「そうだろうな」
 カイルの発病を機に、研究所は厳戒態勢に入っていた。
 深夜の眠っていたはずの研究所には明かりが煌々と輝き、全所員が緊急に召集された。
 特にカイルと同じ研究に係わっていた者はただちに隔離され、管理下に置かれた。
「あなたは大丈夫なの?」
 うな垂れていたジャスティスに、ローズマリーが尋ねた。
 あの潰れた眼球の体液と血をもろに被ったジャスティスが、今もしっかりと目に焼きついていた。
「ああ、大丈夫だ。あの血液と体液の検査をしたが、何のウイルスも発見されなかった」
「そう」
 ローズマリーはそう言ったまま沈黙し、騒然とした研究所の中を見回した。
「あれは、何なのかしら?」
「外傷でもないし、緑内障でもない。あんな症状を呈する病気は聞いたことがない」
「手術した医師も見たことがない病巣だと言ってたわ。まぶたを開けたら眼球と視神経が一緒に流出し
たって」
 その様子を想像して、ジャスティスは目を閉じ、顔をしかめた。
 そして今見ていた顕微鏡に置かれているプレパラートを見た。
 カイルの摘出された眼球の細胞片がそこにあった。
「ちょっと、これを見てくれないか」
 ジャスティスは顕微鏡をローズマリーに示した。
「わたしは病理の知識はないわ」
 だがそう言いつつ、ローズマリーは請われるままに顕微鏡を覗いた。
「……細胞が、破壊されている?」
「そう。でもまだ細胞として形を保っている細胞を見て欲しいんだ。核が見えるか?」
「ええ。核が……濃縮されてるかしら? 大きい気もする」
「そう。ミトコンドリアは変化なしだ。こんな工程で細胞死するのは」
「アポトーシス」
「そう。細胞の自然死だ」
 人間の体には2通りの細胞の死がある。ネクローシスとアポトーシスだ。ネクローシスが炎症を起し
た細胞が死ぬことに対して、アポトーシスは遺伝子がプログラムした死なのだ。
「ちょっと待ってよ」
 ローズマリーは顕微鏡から顔を上げると反論した。
「アポトーシスは体にとっていらない、不要なもの、やっかいなものだって認識されるから起こる防御
作用でしょう? 癌化してしまった細胞が増えないように死のシグナルを送って、自ら死ぬように仕向
ける。それがアポトーシスでしょ」
「そうだよ。直射日光に当りすぎて遺伝子まで壊してしまった肌が癌化しないように、あるいは、おた
まじゃくしからカエルになる段階で尻尾が要らなくなれば、尻尾の細胞にもういらない、細胞に消えて
なくなれという指示を出すのがアポトーシスだ」
「でもカイルの眼は不要であるはずがない。どうしていきなり眼球の組織が死ぬようなアポトーシスが
起こるっていうの?」
 ローズマリーは理解できないと頭を振った。
「エイズウイルスは、人間の免疫細胞のアポトーシスを誘導することで免疫システムをズタズタに壊し
ていく」
「……ウイルスだとしたら」
 ローズマリーは言ってから先は続けずに沈黙してジャスティスから目をそらした。
 ジャスティスにも姉が言おうとしていることは分かった。カイルの体液に触れている。もしウイルス
が含まれているとしたら、最大の感染源に接触してしまったことになるのだ。
「ウイルスだとしたら、免疫反応があるはずよね」
 ローズマリーが呟いた。
「そうだ。通常細菌やウイルスの侵入に気付けば、免疫が働き発熱や白血球数の上昇などが起こる」
「カイルにはその反応はなかったわ」
「ああ。でもスローウイルスの場合には、免疫反応が置きにくいこともある」
「あの劇的症状がスローウイルスのせいだとは思えないけれど」
 ローズマリーは冷静な顔で、その頭の中ではジャスティスが感染した可能性をなんとか排除しよう
と知識を漁っているように見えた。
「いずれにしても、今はまだなんともいえないよ。ぼくの血も検査に回ってるから。その結果次第で」
 ジャスティスは顕微鏡の組織標本をもう一度見ようとイスを回した。
 そのとき不意に自分の重心がどこにあるのか分からなくなってよろけた。
 ガタンと大きな音を立ててイスが転がり、回転する視界が収まったときに目を開ければ、机にしがみ
付くようにして立っている自分に気付いた。
「……ジャスティス?」
 明らかにローズマリーの声に疑いが混じっていた。
「ああ、ちょっと眩暈がしただけだ。疲れてるんだよ」
 ジャスティスは頭を振ると、倒れたイスを起した。
「本当に大丈夫なの?」
「ああ。心配ない」
 内心の動揺を隠し、ジャスティスはイスに座るとプレパラートを手に取った。
 その手がかすかに震え、ガラスとガラスの当たるカチカチという音を立てた。
 その手先にローズマリーの視線を感じ、ジャスティスはプレパラートから手を離した。
 静けさの中に響くガラスの硬質な音。
 その中では、自分の吐く息の音まで異常に大きく感じた。
 ウイルスではないんだ。感染なんて……。
 その時だった。
 大きな警告音が鳴り響き、外部へと通じるドアにロックが降りる。
 遠くからシャッターが下りていく大きな音が聞こえた。
「何?」
 ローズマリーが騒然としていく研究所を見回し呟いた。
―― バイオハザート発生 バイオハザート発生 Level 4の厳戒態勢に入ります。所員には外部
との接触を一切禁じます
 無機質なアナウンスの声と赤い警告灯が中庭を照らしていた。
 感染者がほかに現れたことは明らかだった。
 ローズマリーの目が自分に向けられる。
 ジャスティスは自分の震える手を見つめ、頷いた。
「ぼくは感染者だ」
 軍の監視下に入るのは時間の問題だった。
 ジャスティスは白衣の携帯電話と取り出すと、通話ボタンを押した。



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