第三章 交わらぬ軌跡



7

〈エデン〉の研究室に立ったジャスティスは、なんともいえない違和感に辺りを見回した。
 目に見えて変わったところはなかった。
 だがなんとはなしに、レイチェルの様子も変といえば変だった。
 そっけなさが言葉の端はしに漂っている気がしてならなかった。
 だがそれも自分の気分的なものかもしれないなと、自分の感じたものを否定した。
 そして研究日誌を開いて、その白いページに目を見開いた。
「何も書いてない……」
 遡ってページをめくってみれば、ほぼ一週間に渡って日誌を書くという業務がおろさかにされていた。
「さてどうしたものか……」
 原因は分からなかった。だいたいにおいて、自分の課した決まりを破っているのもまた自分なのだか
ら。
「レイチェル」
 空中に呼びかければ、レイチェルが姿を現す。
「はい、ドクター・ジャスティス。お呼びですか?」
 笑顔で立つレイチェル。
 だがその顔を見上げてジャスティスは、表情の変化に気付いて一瞬自分の言うべきことを忘れて閉口
した。
 笑顔が、以前のものよりも柔らかくなっていた。
 こんな顔で笑っていた妻の顔が甦る。あれは、ジュリアができたと告げられたときに見た妻の顔だっ
た気がした。
 ジャスティスの目が自然にレイチェルの腹に向く。
 だが当然のことながら、平らな腹がそこにはあった。
「どうしましたか?」
 何も言わないジャスティスに、レイチェルが尋ねる。
「ああ、いや、なんだったかな?」
 ジャスティスは慌てて手にしていた日誌を開いた。そしてその白いページを見て言おうとしていたこ
とを思い出して「ああ」と声を上げた。
「このところ、もうひとりのわたしはきちんと仕事をしていたのかね? 日誌が書かれていないのだが
」
「はい。ご心配には及びません。研究は進んでおります。ただいま卵巣の細胞片の培養がすすんでいま
す」
「何? 卵巣の再形成に成功したのか?」
「はい。わたしも確認しました。おそらくはもう数週間で完全な卵巣が創出できるはずです」
 笑顔のレイチェルが告げる。
「おめでとうございます」
 そんな大事なことを、なぜ知らせてこなかった。そんな言葉を喉の奥でかろうじて抑える。
「ちょっと研究所を見て回るよ」
「はい。了解しました」
 レイチェルが消える。
 やはり何かがおかしい。自分の研究所でありながら、大きな疎外感を感じざるを得なかった。
 別の研究室へと入ったジャスティスは、たしかに水槽の中で形成が始まっている卵巣のかたまりを目
にした。
 よくやったと褒めてやりたいところなのに、なにかがその晴れがましい気分をおさえこんでいた。な
にかがおかしい。
 全てが美しく整然と、あるべき位置に収められ、機能している研究室に異常は見られないのに。研究
は目覚しい結論を導こうとしているのに。
 ジャスティスは研究塔を離れて生活の場がある部屋に足を踏み入れた。
 これまでほとんど足の踏み入れることのない領域であった。
 大抵は夜遅くに短時間のジャック・インをするだけだったので、この生活のためのエリアを使う必要
がなかったのだ。
 もっぱらそれらを使うのは、もうひとり、研究をすすめるために自分がこの〈エデン〉の作って置い
ておいたもうひとりのジャスティスだった。
 こちらもキレイに清掃され、白で統一されたインテリアが美しかった。
 ガラスの器には花が飾られ、自分に背を向けた形でキャンバスが置かれていた。
 たしかレイチェルが、もうひとりの自分が絵を描いていると言っていたのを思い出し、その絵を覗き
込んだ。
「ジュリアか……」
 草原を髪を靡かせて歩く姿が描かれていた。どこか寂しげな笑顔を見せた大人の顔のジュリア。
 彼も、自分と同じようにジュリアを愛してくれている。
 だからこそ、研究に心血を注いでくれているのだろうと分かる。
 きっと長いことこの研究所を離れていた違和感に、自分が翻弄されているだけなのだろう。
 ジャスティスはホッと胸を撫で下ろすと、机の上のパソコンに触れた。
 確かに自分のものでもあるのだが、どこか他人のものを覗く罪悪感があった。
 だがもしかしたらこっちに研究の日誌が書かれているかもしれないし。
 ジャスティスは自分にそう言い訳すると、パソコンを起動した。
 だが最初に立ち上がったソフトに、思わず目を見開いた。
 そこにあったのは、ジャスティスにもお馴染みだったゲーム「裁きの天秤」だった。
「まあ、ぼくのコピーだから、似たような趣味なんだろうけど……」
 ジャスティスは思わず苦笑した。
 いつのまにかもう一人のジャスティスを、自分よりも研究だけに打ち込む真面目なキャラクターだと
思い込んでいたようだ。
 だがジャスティスをそのままコピーしたのだから、自分と同じ思ってもいない癖まで再現されて目の
前に突きつけられるのだ。
 ジャスティスはパソコンの横の置かれたノートを開いた。
 そこにはメモ書きとイラストがたくさんならび、フローチャートのようなものが組まれていた。
「これは……」
 ジュリの質問
〔デニスを見捨てますか? それとも村長の家の中に連れて行きますか?〕
〔YES → アリッサを連れて村長の家の隠し扉へ〕
〔NO  → デニスがジュリに村で見つけた地図をくれる〕
 確かにゲームの中で展開された場面だった。
 これはまるで攻略のための本を見たようなものだ。
 ここまで入れ込んでいるのか。まさかこのために研究を疎かにしたわけではあるまい。
 だがノートに細部まで書き込まれた文字とイラストは、一種狂気を感じさせるほどに微に入り、ジャ
スティスが知りえない情報もあった。
 そして最後に近づくにしたがって、次第に残虐性を増していくイラストと、狂気に満ちた走り書きに
ノートを閉じた。
 ジュリがアリッサの胸にナイフをつきたてるイラストに、一面に血を滴らせて咲く赤い花の絵。
 そして、猿の首を右手に、残りの胴体を左手の持った男の絵には、思わず吐き気さえを覚えた。
 あのゲームはそんな残虐なものであったのだろうか?
 フローチャートが組まれて、マルチエンディングの体裁を取っているから、思いにもよらぬストーリ
ーが組まれている可能性はあるが、あのゲームオタクのカイルとて、そんなことは一言も言っていなか
った。 
 確かめてみたい気もしたが、もうノートを開く気にはならなかった。
 そしてこんなものをノートに克明にスケッチしている、もう一人のジャスティスの気持ちが分からな
かった。理解できない。
 そのとき机の立てかけられたキャンパスが一つあるのに気付き、ジャスティスをそちらに手を伸ばし
た。
 回転させて自分に向けた瞬間、ジャスティスは息を飲んだ。
 そこに描かれていたのは、裸体のレイチェルだった。
 それも今目の前にあるベットで幸せな表情で眠る姿だった。
「まさか……。だが、それは禁止事項として……」
 ジャスティスは眩暈を感じてイスに座り込んだ。
 今すぐにでも真実を確かめなくてはならない。それは分かっていた。
 だがなぜかすぐにレイチェルを呼び出すことも、レイチェルにこの1週間の研究所内の全てを映像で
見せることも要求しようとはしなかった。
 自分の脳裏にあることを、そんなはずがあるものかと否定したかった。そして、疑う自分すらを恥ず
かしく思った。
 そしてなにより、それが事実だったときに、この研究所ごと全てをナシにする勇気がなかったのだ。
 わかったところで対策の立てようがない。
 研究の最大の目的が叶おうとしている今、研究をストップさせることはできない。
 投げ出しすことだけは、決してしてはならないことだった。
「レイチェル」
 ジャスティスは力なく声をかけた。
「はい、ドクター・ジャスティス」
 ジャスティスはその顔を見上げることなく告げた。
「ジャック・アウトする」

 

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