第三章 交わらぬ軌跡



  
「やあ、姉さん」
 ジャスティスは、ダーツを構えた姉ローズマリーに声がかけた。
 その声に、くわえタバコでいたローズマリーが目だけを向けた。
 そしてダーツの矢を投げる。
 トンという小気味いい音をたて、矢が的の真ん中に刺さる。
「お見事」
 ジャスティスの拍手に、ローズマリーが口の端に笑みを乗せ、そこからタバコの煙を吐いた。
 白く煙った喫煙室に足を踏み入れながら、ジャスティスもダーツの矢を手にとる。
「ぼくもできるかな?」
 ジャスティスに立ち位置を譲ったローズマリーが、何も言わずにさあ、どうぞと身振りで示す。
 ジャスティスは真面目な表情で矢を構えると、目を細めて的を狙った。
 放射線状に投げられた矢が、的にトンと音を立てて刺さる。
 ローズマリーよりも一つ外の円の中に刺さった矢に、ジャスティスはまずまずと頷き、ローズマリー
が手を叩く。
「うまいもんじゃない」
「でも、ねえさんには敵わないよ」
「ダーツくらいは、姉に軍配を与えておいて欲しいわね」
 タバコを灰皿で捻り消しながらローズマリーが言う。 
 そして棚の上に設置されたコーヒーメーカーに近づくと、煮詰まって濃くなったコーヒーを捨てて、
新しいコーヒーを入れ始めた。
「飲むでしょ?」
「うん。ありがとう」
 スラリと背の高い姉の後ろ姿を見守りながら、ジャスティスは昔に思いを馳せていた。
 全てを拒否したように、常に一人でいることを好んでいたローズマリー。
 常に外国に住み続けていた両親の代わりに自分の世話をしてくれていた姉は、食事の前も無言で黙々
と料理を作っていた。
 でもそのメニューの中には、必ずジャスティスの好物を織り交ぜてくれているのを知っていた。
 料理する姉の後ろ姿を見ながら、宿題をするのが、ジャスティスの常だった。
 時折チラっと後ろを振り返って、ジャスティスの視線を気にすることがあることを知っていた。
 今なら分かる。あのチラは、ジャスティスがきらいなニンジンを食べさせるために、摩り下ろしてい
るのを見られないように確認していたのだ。
 姉との生活は、高校を卒業するまで続いた。
 たった2歳しか違わないはずの姉は、ジャスティスにはどこまでも追いつけない大人として常にそこ
にい続けてくれていたのだった。
「さあ、どうぞ」
 白いカップを目の前に差し出され、ジャスティスは追憶から醒めると、入れたてのコーヒーの香りを
楽しんだ。
「姉さんの入れてくれたコーヒー飲むのも久しぶりだ」
「そうかもね」
 ローズマリーが壁にもたれて立ったまま、コーヒーを飲んでいた。
 ジャスティスの正面のソファーが空いているのに、座ろうとはしなかった。
 こんな夜更けに現れたことに、姉が自分を警戒していることが手に取るように分かった。
 山猫の敏感さで、耳と背中の毛を立てながら、様子を伺っているというところだろう。
「実は姉さん。伝えておきたいことがあって」
「何かしら?」
 明らかに聞きたくないという態度で、カップを持ったまま腕を組み、ローズマリーが目を細める。
「その、ペルの具合はどうなんだい?」
「今も入院中よ。ペルの意志で面会はわたしとスイレイだけだけど」
「姉さんとスイレイだけ?」
 ジャスティスは怪訝な顔でローズマリーを見つめた。
「ええ。あの子もわたしが母親だと分かってから頼ってくれるようになったし、一番気を使わないスイ
レイにだけしか、体力的に笑顔を振り撒けないのよ」
 その一言に、ジャスティスは後味の悪い思いを胸の内に抱えた。ペルが何の病気なのかは知らないが、
そこまで彼女を追い詰めたのは自分なのかもしれないのだから。
「ペルの病気って、精神的なダメージによるものなのか?」
 その低く沈んだ声に、ローズマリーがバカにしたような声を上げて笑う。
「何? まさか自分がペルの病気の原因かもしれないなんて悩んでいるわけ?」
「だって、ぼくがペルに言ったんだ。姉さんが実の母で、スイレイとはその…」
「実の兄妹ね。そこに何か問題があるわけ? 二人が愛し合ってるとでも言いたいのかしら?」
 先を言われて絶句したジャスティスは、平然とした顔をした姉の顔を凝視した。
「まさか、知って……」
「いいえ、初耳だわ」
 だがそう言いつつも、特に驚いた風もなく「だからどうしたっていうの?」とでもいいらそうな顔つ
きに、ジャスティスは思わず嫌悪感で目をそらした。
「なぜ、ペルに本当にことを伝えておかなかったんだ? ペルが自分の娘であって、スイレイとは実の
兄妹なんだって」
「伝える義務はないわ。だいたい、ペルがわたしの子どもだって聞いてあの子が喜ぶとでも思うの? 
あたしもあの子も、母親は姉さん、わたしは叔母って思ってるのが一番だったのよ」
「でもその一時の逃げのために、スイレイもペルも傷ついて」
「あなたがあの子たちに話たからでしょ。おまえたちは近親相姦の間柄だって」
「それは……」
 まるで自分のしたことが間違いであったかのような糾弾に、ジャスティスは閉口した。
 ではあのまま見て見ぬ振りをしていたほうがよかったとでも言うのだろうか?
 知らずに越えた禁断の橋に気付いたときに、あの二人が崩壊するのを待っていたほうがいいとでも言
うのか。
 姉の持つ倫理観が分からなくなり、ジャスティスは両手の拳を強く握った。
「別にわたしはあなたを責めているわけじゃないわ。感謝してる。言いにくいことを言ってくれてあり
がとう。でも、やっと心のよりどころを見つけたあの子が、また引き裂かれるのを思うと、少し不憫だ
わ」
「だけど、そうなる不幸の種をまいておいたのは、姉さん自身じゃないか! 婚約者がいながらカルロ
スとの子どもを妊娠し、その子を連れて失踪したかと思えば、そこまでして産んだ子を今度は腹違いの
姉になんか託して。すべてが姉さんの思いつきのままやったことじゃないか。それでペルのことを母親
として愛しているなんていうんだったら、その神経を疑うよ」
 感情のままに言い捨てたジャスティスは、言い過ぎた思いで目をそらすとため息をついた。
「別に真実を言われたからと言って、わたしは傷つかないわ。言ったあなたが傷ついてるなら、言わな
い方が懸命ね」
 高慢にも見える見下げた目線でまっすぐ自分を見ていたローズマリーに、ジャスティスは寒気すら感
じた。
「姉さんに、人並みの愛情を求めたほうが間違っていたのかもしれない。……ぼくには優しい姉さんだ
ったけど。母親にはなるべきじゃなかった。ペルがかわいそうだ」
「……全くの正論に反論はないわ。あなたは立派な父親をしているみたいだけど」
 ローズマリーは飲み干したコーヒーカップを棚の上に下ろすと、タバコに火をつけた。
 深くその煙を吸い込み、吐き出した瞳に、わずかに動揺があるような気がした。
 だがそれは欲目というものかもしれない。
 ジャスティスはコーヒーカップをテーブルの上に下ろすと、膝の上の肘に体重をかけて俯いた。
「もう一つ、伝えておきたいことがあるんだ」
 ローズマリーはそっぽを向いたまま、何一つ反応を示さなかったが、ジャスティスは続けた。
「フェイが帰ってきている」
「……」
 タバコを挟んだ指が、明らかに動揺を示して揺れていた。
「今、ぼくの家にいるんだ。もし姉さんが会いたいなら」
「裏切った婚約者に会いたいと思う男はこの世にはいないわ」
 言い捨てたローズマリーが、苛立たしげにタバコの灰を落とす。
「いくらフェイがお人好しだからといって、わたしを許したわけじゃない。それとも、今さら彼に頭を
下げて謝れてとでも?」
 珍しく感情剥き出しで噛み付くローズマリーにジャスティスは首を振った。
「そうじゃない。フェイが姉さんに会いたいって……」
「フェイが?」
 ローズマリーの目から鋭いトゲのようなものが抜ける。
 だが、その次の言葉を続けようとしたジャスティスの背後で足音がした。
 苦しげに壁に手をついて歩く白衣の人間が、そこにいた。
「副所長」
 顔中に脂汗を浮べて、カイルがそこに立っていた。
「どうした、カイル?!」
 カイルのもとに走りよったジャスティスは、壁から崩れ落ちがカイルの体を抱きとめた。
 ガクガクと震えるその手で、カイルがジャスティスの白衣を強く握る。まるで闇に怯えて父親に縋る
子どものように。
「あ、…あ……あか……またメールが……でも…恐ろしくて……」
 カイルの瞳に恐怖過ぎる。
 頭を抱えて悲鳴を上げるカイルを、ジャスティスはしっかりしろと抱え続ける。
 ローズマリーは内線の電話を取上げる。
「医務室? ここはB棟1階休憩室。病人よ。早く来て」
 ローズマリーの性急な声を聞きながら、ジャスティスはその顔を見上げた。
 何が起きたのか、ローズマリーにもさっぱりわからない様子だった。
 いつもは明るく、陽気な存在のカイルのこんな姿は見たことはなかった。
「カイル、何があった?」
 ジャスティスがそう叫んだ瞬間だった。
 カイルが一際大きな悲鳴を上げた。
 痙攣が激しくなり、腕が床を叩くように落ちる。
 カッと見開かれた目が真っ赤に染まっていた。
 動脈血の海に浮んだ眼球。
 そのその眼球に白い膜が張っていく。
 赤と混じってピンク色になる膜が瞳孔までもを覆った瞬間。
 眼球が内側から弾けて破裂した。
 体液と血液を撒き散らし、ドロリと溶けた眼球が眼窩から流れ落ちる。
「ギャァァァァァァ!!」
 大絶叫を上げたカイルが、ジャスティスの腕の中で気絶する。
 その血糊を顔を受けながら、ジャスティスは呆然とその顔を見下ろしていた。


 

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