第三章 交わらぬ軌跡



  
 スイレイの肩に置いていた手を、富豪の娘はスッと滑らせた。
「本当にダンスがお上手ね。あなたのほど素敵な男に出会ったことはないわ」
「それは光栄です」
 間近にあるスイレイの横顔をみつめ、富豪の娘がほほえむ。
「ジュリアとはどんな関係なの? 恋人なのかしら?」
 媚を売った口調でしな垂れかかる。
「ええ。最愛の人です」
 だがそんな富豪の娘の意図などなんのその、スイレイは臆面もなく言うと、体を引いて睨みつけてく
る富豪の娘に微笑んで見せた。
 全く鈍感な男を演じて見せるスイレイに、富豪の娘は咳払いすると、胸に手をついた。
「最愛の女性ね。そんな風に言ってもらえるジュリアは羨ましいわ。でも、あなたのようなステキな男
の方には、もっとステキな女性現れるかもしれないわね。そうは思いません?  どこかに運命でつな
がった、今までは目の前に現れてくれなかった女性がいるかもしれないって」
 すてきな恋に憧れる女の子を演出してみせる富豪の娘に、スイレイは笑って見せた。
「たとえば、あなたのような女性?」
 耳元でささやかれたその言葉に、富豪の娘はスイレイには見えない角度で口の端に笑みを浮かべた。
 その目にあるのは、罠にかかった獲物を仕留めに入るネコの目の輝きだった。
 恥ずかしそうにスイレイを見上げた富豪の娘は、一瞬目を合わせると顔を赤くしてそらした。
「あの、このあとの予定は? よかったら二人で抜け出しません? 上のわたしの部屋にでも」
 最後に仕掛ける罠とばかりに言った富豪の娘を、スイレイはクルリを回して体を離すと、体を折って
礼をした。
「お誘いは非常に魅力的ですが、わたくしめはジュリアだけにか体が反応しないのです。申し訳ない」
「え?」
 クルリと背を向けられてしまった富豪の娘が呆気にとられて立ち尽くす。
「ちょっと!」
 トゲの含んだ声がスイレイの背中にかけられる。
 だがその声に立ちはだかる男がいた。
 スイレイの肩くらいまでしかない身長で、だが体重は二倍はありそうな巨体の男。
 その男が憤懣やるかたない顔で立つ富豪の娘の前に立つと、決死の覚悟を決めた顔で叫んだ。
「好きだーーーーー!!」
 あまりの大きな声に、オーケストラの演奏が狂って中断され、ダンスの輪も回転を止める。
 そして富豪の娘も、突然の告白に頭が麻痺して口を開けた間抜けな顔のまま、太った男ロイドの顔を
見つめていた。
 そのロイドが体当りでもするように突進し、ガシっと富豪の娘の体を抱きしめた。
 ロイドよりも背の高い富豪の娘が体当たりにグラリと体を振り回されたが、踏みとどまると、顔の前
にあるロイドの頭を見つめた。
「え? え? ロイドでしょ? なにやってるのよ」
「ぼ、ぼくは君が、シーナがこころの底から好きなんだ。親が決めたからとかじゃなく、世の中の何よ
りも、君が可愛くて、ずっと側にいたいくらい好きなんだ」
 明らかに狼狽した富豪の娘が、空いてしまった両手を持て余していた。
「ぼくなんてこんなに醜いし、美しい君の横に立つにはふさわしくないかもしれないけど、でもずっと
好きだったんだ」
 魂の叫びに心を揺すぶられ、富豪の娘の手がおろおろとロイドの背中に下ろされる。
「わたしは……、性格悪いし、ロイドを振り回して不幸にするわよ」
「それがぼくの幸せさ。マゾなんだ」
 高らかに宣言して胸を張るロイドに、富豪の娘は苦笑した。
「子どものころからわたしを見ているくせに、それでも好きだなんて、本物の変態ね。でも……うれし
い」
 そして自分から少し身を屈めてロイドの胸に抱きついた。
「ありがとう」
 再び始まった音楽と、踊りながら送られる温かな視線に守られ、二人の世界がそこに出来上がってい
た。
 ジュリアの前まで歩いてきたスイレイが、腕を差し出す。
「おまえ、ずいぶんとお人好しだな」
「まあね。でも、彼がいい人だったから」
 スイレイはジュリアと腕を組んで歩き出しながら、後ろを振り返った。
「あいつ苦労するぞ」
「そうね。でも彼女もローリーの優しさで、丸くなっていくわよ」
 ジュリアも抱き合う二人に目を向け微笑んだ。
 痩せた富豪の娘の背中に回された、太った丸い腕。
 きっと彼と毎日食事をしていたら、彼女も性格だけでなく、体も豊満に丸くなるのかもしれないわね。
 ジュリアは将来そうなるかもしれない富豪の娘シーナの姿を想像し、一人失笑するのであった。



 富豪の大豪邸を出て、エントランスを潜った瞬間に濃厚な花の匂いが二人を取り巻いた。
 白い石でできたスロープの上一面にバラの花びらが敷き詰められていたからだった。
 赤やピンクの彩りが、濃厚な香りを立ち上らせる。
 スイレイと腕を組んで歩いていたジュリアは、その花びらの中で足を止めた。
 俯いた視界に入るのは、金色のヒールとその下にあるバラの花びら。
 立ち止まったジュリアに腕を引かれ、スイレイも立ちどまる。
「ああ、すごいバラだな。もったいないくらいだ」
 ジュリアがバラの花を見ているのだと思ったスイレイが言った。
 だがその言葉にジュリアは何の反応も示さなかった。
 ただ俯いて、スイレイの腕だけをしっかりと持っていた。
「どうした? ハイヒールで足でも痛いのか? なんだったら重いけど抱きかかえていってやってもい
いけど」
 なにやら重苦しくなる空気に、スイレイは軽口を叩いた。
 だが上げられたジュリアの真剣な顔に、眉をしかめた。
「スイレイ」
「はい」
 真面目なジュリアの声に、スイレイが返事を返す。
「わたし、ずっとロイドと同じ気持ちでいたの」
「ロイド? さっきの太った彼か? 彼と同じ気持ちって……」
 言いながらその意味を悟ったスイレイが、絶句してジュリアを見つめた。
「それって……」
「昔からスイレイのことが好きだった」
 怒ったような赤い顔で言ったジュリアが、スイレイの顔をじっと見つめた。
「鈍感なスイレイは全然気付いてくれなかったけど、他の誰かじゃダメなの。わたしはスイレイしか好
きになれない」
 いつもなら簡単に抱きつくことのできるスイレイの体が目の前にあるのに、ジュリアは指一本動かす
ことができずに、じっと立っていた。
 緊張で硬くなっていく筋肉に、どんな顔をしたらいいのかも分からず、赤くなっていく顔だけが自覚
できて思わず目をそらした。
 緊張で神経に異常をきたしたのか、なぜか目に涙が浮かび上がった。
 そんな顔を見せられるかと、グイって手の甲で涙を拭ったが、涙は止めることがなかった。
「ジュリア……すごい顔になってるけど」
 じっと見つめていたスイレイが言った。
 手の甲を見れば、落ちたマスカラで真っ黒になっていた。
「ヤダ。どうしよう!」
 慌てたジュリアに、スイレイはハンカチを手渡す。
 そのハンカチで顔を覆ったジュリアに、スイレイが言った。
「……ジュリア。いままで鈍感でごめん。ジュリアのことはずっと妹だと思っていたから……」
「妹じゃ、恋愛の対象にならないってこと?」
 ハンカチの向こうから、震えた勝気な声が言った。
「……ジュリアみたいな美人の告白されて断わるなんて考えられないことだってことは、頭では分かっ
てるんだけど」
 ジュリアはスイレイの言わんとしている事を理解して、もれそうになる嗚咽に唇を噛みしめた。
「スイレイには……好きな人がいるってこと……?」
 ハンカチで覆った顔の向こうでも、うろたえるスイレイの気配が見ているように分かった。
 組んだままの腕から、スイレイの激しい葛藤が伝わってくる。
「ねえ、それってペルなの? ……スイレイはペルが好きなの?」
 ジュリアはハンカチで顔を拭うと、スイレイを見つめた。絶句したまま答えないスイレイの目の奥を
覗き込むようにして。
「ねえ、そうなの? そうなんだね」
 否定しないスイレイの惑う目が、肯定していた。
 ジュリアは突然自分のなかに沸きあがった激情にのまれた。そして抑えのきかない感情のままに声を
上げて泣き出した。
「どうして?! どうしてペルなのよ! 実の兄妹でしょ? わたしはペルもスイレイも大好きなのよ。
二人に幸せになって欲しいのよ。なのに、なのに……これじゃあ、絶対に二人とも……」
 両手で顔を覆ったジュリアを、スイレイがどうしていいか分からずに抱きしめた。
「ジュリア、ごめん。でも、どうしようもないんだ。……お願いだから、ジュリアは悲しまないで」
 必死に言うスイレイの言葉も、ジュリアの耳には入っていなかった。
 ただ激しい胸の痛みと大切な何かを失った喪失感の中で、立ち上るバラの香りだけがジュリアを包む
全てだった。



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