第三章 交わらぬ軌跡



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 目の前にかざした細いシャンパングラスの黄金の液体から、無数に白い泡がたっていた。
 そしてそのグラスの向こうには、きらびやかな世界が広がっていた。
 燦然と煌くシャンデリアは七色に光を降り注ぎ、大理石の床が歩く女たちのハイヒールが高らかな音
を響かせていた。
 その合間を過不足なく軽快に駆け抜けていく生演奏のクラッシック音楽。
 色とりどりのドレスやアクセサリーを煌かせる女性たちは、まるで熱帯魚のように過剰に飾り立てら
れ、海の中を漂っているようにすら見えた。
「ジュリア、素敵な彼ね」
 顔見知りの友人がジュリアの横を通り過ぎながら声をかけていく。
 ジュリアはシャンパングラスを目の前から退かすと、スイレイを見た。
「素敵だってよ」
「当然」
 階下で行われているダンスを見下ろしながら、手すりに寄りかかったスイレイが言う。
 そのスイレイはタキシード姿で立っていた。
 そしてジュリアは、真っ赤なシックなつくりのドレスに、大ぶりなルビーのついたネックレスをして
いた。
 スイレイがふとそのネックレスに手をのばす。
 そして返っていたヘッドを戻すと、言った。
「前に写真で見たことがあるよ、このネックレス。ジュリアのお母さんがしてた」
「お父さんに貰ったんだ。お母さんがパーティーではいつもしてたって。元気で太陽みたいな人だった
から、お父さんはダイヤじゃなくてルビーを贈ったんだって」
「ジュリアにも似合ってる」
 スイレイがいつもと違って素直に褒める。
 そしてジュリアもいつもの調子が出ずに、恥ずかしげに俯いた。
「でもジュリアには、ルビーよりもエメラルドのほうが似合うかも」
「じゃあ、買ってよ」
「いつかね」
 スイレイがジュリアの前に腕を突き出す。
 その腕に手をからめ、ジュリアはスイレイの後について歩きだした。
 履き慣れないハイヒールにともすると足をとられそうになりながらも、スイレイの腕につかまって歩
く。
「ねえ、どこ行くの?」
「どこって、ダンスフロアだけど」
 当たり前のようにいって、広い螺旋階段を下りていく。
「え? スイレイ踊れるの?」
「まあね。母さんに仕込まれた。小さいときは嫌で嫌でしょうがなかったよ。ダンスを教えるときばか
りはなぜか母さん鬼のように厳しくてさ、何度ものさしで足を叩かれたか」
 なんだか泣きべそをかきながらステップを踏むスイレイが思い描かれ、ジュリアは思わず笑顔を浮か
べた。
「おっと、お嬢様は大笑いはしちゃいけないぞ」
 すかさず言うスイレイに、ジュリアは口元をピクピクさせながら、澄ました顔を作った。
 視線の先に、大勢の取り巻きに囲まれた富豪の娘が目に入る。
 頭にはティアラを載せてピンクのレースに覆われたドレスを着た彼女が、ジュリアを目にして、妖艶
に笑ってみせる。
 それから隣に立っているスイレイに目を向け、スッと目を細めた。
 そして自分の周りを何重にも取り巻いている男たちを見回し、スイレイと見比べる。
「スイレイが彼女の取り巻きとどっちが上等か、見比べてますが」
「見劣りするとでも?」
 ジュリアは富豪の娘に笑みを返すと、言った。
「まさか。あの顔見てよ」
 気に入らないことを見つけて癇癪を起した顔で、まわりの男たちに当り散らしているのが見てとれた。
「ここはもう少し、悔しがらせてやろうか?」
 スイレイがそう言った瞬間、ジュリアが抱き上げられていた。
 急に高くなった視線に当惑しながら、ジュリアは自分を抱き上げたスイレイを見下ろした。
「ちょっと恥ずかしいんだけど」
「パーティージャックには、このぐらいの演出が必要だとおもうんだけど? さっさと余裕の笑みでも
浮かべてみれば」
 スイレイのその一言で、自分に注目する全ての人に笑顔を送る女優の微笑が生まれる。
「いい調子じゃん」
 ダンスの輪の中に入ったスイレイは、ジュリアをフロアに下ろすと、リードをとって踊りはじめた。
 密着する体に顔を赤くしながら、ジュリアがたどたどしくステップを踏む。
「何緊張してるんだよ。笑顔で、わたしは一番きれいよって顔して」
 クルリと回されて、返された手でスイレイの胸に抱きとめられたはいいが、思わず足を踏んでしまう。
 スイレイが眉を上げただけで痛みに耐えると、じっとジュリアを数センチの距離で睨んだ。
「ごめん」
「ま、愛嬌ということで」
 やっと調子が出てきたジュリアが、足元を見ずに笑顔で踊りはじめる。
「なんか久しぶり。結構楽しいね、ダンスも。パパとしか踊ったことないから、楽しいんだか分からな
かったけど」
「それにしてはうまいもんだ」
 スイレイはそういうと、ジュリアの耳元でささやいた。
「もうそろそろフィニッシュですが、派手に決めますか? 彼女も見てますから」
 チラッと背後を振り返れば、憤然とした顔で腕を組んだ富豪の娘が立っていた。
 取り巻きの一人が、必死に宥めようとしているが、聞く耳ももたずと、完全に無視を決め込んでいた。
「派手にお願いします」
「では行きますか」
 スイレイがそう言った瞬間、ジュリアの体が浮き上がった。
「ポールドブラ」
 小声で指示がくる。
 昔レイリおばさんに習ったことのあるバレエの言葉だった。
 ジュリアはスイレイのリフトを信用して両手を離すと、腕をしならせ後ろへ体を倒した。
 そのままストンと床に下ろされた。
「アチチュード」
 難しい指示に苦戦しながらも、体を倒さないようにしながら足を後ろに上げて堪えた。
 そのジュリアをサポートすると、スイレイがその体をクルリと回した。
 そしてその体を脇に抱えるようにして抱き上げた。
 伸びた足からドレスがハラリとめくれ、大きく足が露出する。
 それでも笑顔でポーズ決めた二人に、音楽が止まった瞬間に拍手が送られる。
「ステキ! ダンサーなの?」
「今度はわたしと踊ってくださらない?」
「わしも若かったころは君のように踊れたものだったがな」
 あらゆる賛辞が二人に向かって述べられ、握手を求めて手が伸び、肩を叩いていく。
 ジュリアはスイレイを見上げて、笑った。
 清々しいスポーツの後のような笑顔だった。
 そこへ割って入る寒々とした声。
「本当にステキだったわ、ジュリア。まるであなたがこのパーティーの主役のようね」
 その一言で、周りに集まっていた人たちが遠巻きにして下がり、富豪の娘のために道を開けた。
 パーティーに招かれていた老齢の夫婦などは、この富豪の娘の態度と言葉に苦い顔はしたが、なにを
言うでもなく立ち去っていく。
「シーナ。パーティーへのお招きありがとう。こんなステキなパーティーに来たことは初めてだから、
ちょっとはめをはずしてしまったかしら?」
 ジュリアは富豪の娘に負けずに言い返すと、可愛らしく笑顔を浮かべた。
 ジュリアの作戦は、富豪の娘よりもかわいい自分を演出することらしい。たしかに男はきつい女より
も可愛げのある女の方を好むのだから、いい作戦かもしれない。
 そんなジュリアの作戦の意図を感じ取ってか、富豪の娘は眉を上げて見せたが、笑顔を作ると言った。
「そんなことはないわ。ジュリアのように華やかな人が来てくれるとパーティーが盛り上がりますもの。
会場のたくさんの男の方がジュリアの虜になったのではないかしら? そして」
 富豪の娘はスッと視線をスイレイに泳がせると、微笑んだ。
「そちらの方もとても魅力的」
 富豪の娘は妖艶に微笑むと、スイレイに向かって手を差し出した。
 スイレイはその手をとって手の甲にキスをする。
「わたしとも踊っていただけるかしら?」
 気を良くしてほほえむ富豪の娘に、スイレイが優雅に頷きその手を引いた。
「わたくしでよろしければ喜んで」
 スイレイに手を取られて颯爽と歩き出す富豪の娘がジュリアの横を鼻息荒く通り過ぎる。
 それを待っていたとばかりに音楽が再び始まり、置いてきぼりを食らったジュリアはただ立ち尽くし
ているしかなかった。
「ねえ、君」
 スイレイの後姿を見送っていたジュリアに、一人の男が声をかけた。
 その声の主に目を向けたジュリアは、思わず目に映った人物が間違いであるかのような錯覚を受けて
目を見張った。
 まるでハンプティ・ダンプティーがタキシードを着たみたい。
 丸い顔の下に首はなく、大きく張り出したおなかをタキシードの黒い生地が覆っていた。
 盛んに汗を拭うハンカチの動きばかりが目に入り、ジュリアは踊るドレスの群れの中で立っていた。
 ハンプティー・ダンプティーが口を開く。
「彼女の友だちなの? 」
「え? 友だち? ううん。学校が同じだけよ」
 ジュリアは正気に戻ると、ダンスの群れを抜けてバイキング形式の料理が並んだテーブルに近づいて
いった。
 その後を、どたどたと足音高く、ハンプティー・ダンプティーがついてくる。
「そうなんだ。ぼくね、彼女と踊りたくてさっきから申し込んでるんだけど、彼女ぼくの声が聞こえな
いらしくて」
 ジュリアは通りかかったボーイのトレイからシャンパンを取ると、ハンプティー・ダンプティーに向
き直った。
 その視線に晒され、ハンプティーは顔を真っ赤にするとハンカチで額を拭った。
「ああ、ぼくね、ロイド。ローリーって呼んでよ」
 愛嬌のある笑顔でそう言った男は、ポンと手を打った。
「ねえ、君もうここの料理食べた?」
「いいえ」
 ジュリアは取り澄ましたお嬢様のように言う。
「じゃあ、ぼくがおいしいものを君のために持ってきてあげるね。ぼく食べ物には自信があるんだ。こ
んな体のぼくが言うんだから信用あるでしょ?」
 ロイドはずり落ちないようにしていたサスペンダーを両手で引っ張ってパチンと音を立てた。
 人が欠点とばかりに笑う太った体を、ロイドは笑いに変えていた。それも嫌味にではなくさわやかに。
 ジュリアは思わずその仕草に笑うと、ロイドに頷いて見せた。
「じゃあ、お願いしようかな。ここで待ってる」
 ジュリアは手近なイスの一つを手にすると、その背もたれをポンと叩いた。
「承知いたしました」
 ロイドは短い足を後ろに引いて礼をすると、大急ぎで、でもドタドタと料理を給仕するウエイターの
方へと駆けていく。
 その後ろ姿がまた愛らしくて、ジュリアは一人含み笑いをした。
 だがその目が踊っているスイレイと富豪の娘に向くと、とたんにその笑顔がしおれていく。まるで命
の水を失ってしまった花のように。
 スイレイの肩に手をかけた富豪の娘が、ジュリアと目を合わせて嫌味に笑う。
 その視線から目をそらすと、ジュリアはため息をついた。
「スイレイもひょうひょいと一緒に踊ってやらなくてもいいのに」
 周りに人がいないのを確認して、ジュリアは隣りにあったイスを蹴飛ばす。
 ガタっと音を立てたイスに、周りにいた人があたりを見渡していたが、知らん顔だ。
 こんなことしてもちっとも気は晴れないけれど。
 自己嫌悪に見るとはなしに向けていた視線の先に、皿いっぱいにのった料理が差し出される。
「さあ、召し上がれ!」
 ロイドがジュリアの横に立ってフォークを片手にウエイターのように立っていた。
「あ、ありがとう」
 ジュリアがお皿を受け取ると、ロイドが膝の上に胸ポケットにさしていたハンカチを広げてくれる。
「ローリーって優しいね」
「そうでしょ?」
 フォークを差し出しながら、ロイドが微笑む。
 人って見かけじゃないな。
 ジュリアはロイドを見ながら思った。
 ジュリアの横にイスを引いてきて座ったロイドにもう一度感謝を述べ、料理を口に運ぶ。
 まずはローストビーフの挟まったサンドイッチ。
「ん〜〜〜! これおいしい!」
「でしょう。ぼくのオススメナンバーワンかな。その横にあるのがサーモンのサラダ。ちゃんとカナダ
産だって聞いてきたよ」
 うれしそうに解説してくれるロイドを、ジュリアはじっと見つめた。
「ローリーって、シーナの友だちなの?」
「ううん」
 そんな大層な者じゃないと大げさに首を振るロイドが、途端に顔を赤らめると俯いた。
「親同士が決めた婚約者なんだ」
「え?」
 一瞬言葉の意味が分からずに、フォークに刺していたパイを落とす。
「ああ、そのパイはエビのグラタン入りだよ」
 ちろっと向けた目線の中でいうロイドに、ジュリアが絶句する。
「ちょっと、驚いてるのはそこじゃないから」
 ジュリアはいつもの調子でつっこむと、ロイドの顔をまじまじと見つめた。
「婚約者って、あのシーナと結婚するってことでしょ?」
「うん、いずれはね。でも、こんなぼくは彼女の趣味じゃないよね。彼女もかわいそうだよ」
 頭をかくロイドが、気の毒でならなかった。
 かわいそうなのはロイドの方だ。こんなにいい人があんな性悪と一緒にならないとならないなんて、
神経をすり減らして死んでしまいそうだ。
「ローリーはさ、シーナのこと好きなの?」
 その問いに対する答えは、ロイドの返答を聞くまでもなく明らかだった。
 湯だったタコのごとくに真っ赤になったロイドが、ますます縮こまるように背を丸める。
「ずっと小さい頃から見てきたからね。すっごく可愛い女の子だったよ。あのころからぼくの憧れなん
だ。今はちょっときついけど、昔は庭で遊んでいては、花を摘んできてぼくにくれたりする優しい子だ
ったんだよ」
「そうなんだ」
 ジュリアにはまるで想像できなかった。花をくれたと聞いても、おもしろがってロイドを人形にして
花を飾ってあざ笑っている姿しか想像できなかった。
 でも富豪の娘にも、純真な子ども時代があったはずなのだ。
「彼女はさ、君の彼氏みたいな色男が好きなんだろうな。スタイルもスラっとしてて、知的そうで、ダ
ンスを颯爽と踊れちゃうハンサムボーイ」
 なんだかその昔風な言い回しが、ジュリアにはなんとも哀しく聞こえた。
 視線を向ければ、ねっとりとした手付きでスイレイの背に手を回した富豪の娘シーナが、声高らかに
笑っているところだった。
「ローリーはさ」
 ジュリアはスイレイの背中を見つめながら言った。
「ちゃんとシーナにスキだって伝えたことあるの?」
 ジュリアの横でロイドが首を横に振る。
「シーナが子どものころはローリーに優しかったなら、きっと外見なんて気にしてないと思うよ。ロー
リーって、そんなこと、忘れさせるくらいにいい奴だもん。
 シーナも分かってると思うよ。見た目がキレイとか、かっこいいとか、そんなことが一番欲しい物じ
ゃないってことは。心底愛してくれて、守ってくれる。自分のことを一番に考えてくれる人が一番大切
だってことは」
 ロイドは沈黙したまま、膝の上でギュッと拳を握っていた。
 ジュリアはお皿の上のものを食べつくして「ごちそうさま」と言うと、ロイドの顔をみつめた。
「こんなにおいしいもの食べれたのもローリーのおかげ。たぶん隣りにローリーがいたからおいしかっ
たのかもしれないし」
 ジュリアは通りかかったボーイにお皿を渡すと、膝の上のハンカチをたたんでロイドの胸にさしてあ
げる。
「うん。男前も上がった」
 ジュリアは勢いよくうな垂れたロイドの背中を叩くと、丸まった背中を真っ直ぐになる。
「思い切って、告白、行ってみよう!」
「え? 今?」
 目をむくロイドに、ジュリアが当たり前と頷く。
「今言わなきゃ、絶対言えないよ。ね、がんばりなよ。わたしもがんばるからさ」
 手を握られ、ロイドは顔を赤くしながら拳を固く握る。
 そして勢いよく立ち上がると、言った。
「うん。言ってくる!」


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