第三章 交わらぬ軌跡



5
  
 真っ白なキャンパスの上に黒い線を無数に描きこんでいく。
 その線で構成された絵が、次第に笑顔を湛えた幼女と手を繋いだ父親の絵に変わっていく。
 脳裏にある光景をキャンパスの上に描き取っていく。
 黄色い朝日の射す花の咲き乱れる庭を、まだパジャマ姿のまま、二人で並んで散策した。
 妻に似て豊かな波打つ髪が小さな背中を覆っていた。
 抱っことねだって伸ばされた手に微笑み、軽い小さな体を抱え上げ、首に跨らせる。
 高い高いだぞ。
 男の幸せそうな声と、女の子のはしゃいだ笑い声が脳裏に響き渡る。
 それだけで幸福感に包まれ、胸がいっぱいになる。
 だが、その記憶にはどこか霞みがかかって遠くに見える景色のようだった。
 その理由はうすうす分かっていた。
 あの男のせいだ。
「ジャスティス」
 頭の中に響いた声に、キャンパスを描いていた手を止めた。
 その瞬間、僅かな体の硬化とともに意識が途切れた。



 次に意識が戻ったとき、自分は動物の飼育室の中に立っていた。
 目の前の檻の中で、母猿が大事そうに子猿を抱いて濡れた黒い大きな目でジャスティスを見つめてい
た。
「ジョーエット」
 彼が母猿の名前を呼ぶと、檻の格子から手を伸ばしてくる。
 その手を握る。温かい湿った手であった。
 そこには確かに愛情と生命感が溢れていた。
「ジョエルは元気かい?」
 母猿の腕の中で指をしゃぶって寝ている子猿の頭の毛が白く変色していた。
 生まれたときから頭の毛がメッシュに染めたように白い子猿だった。
 ジャスティスは檻の鍵を外す。
 それだけで心得たとばかりにジョーエットは檻から抜け出し、子どもを抱いた母親だというのに、自
分が甘えたい子どものようにジャスティスの首に手を回して抱きついた。
「相変わらず甘えん坊だな」
 ジャスティスは苦笑とともに、口元が緩むのを感じながら、その体を抱きしめた。
 温かい体から心臓の鼓動が伝わってくる。
 ジョーエットの頭を撫でながら、ジャスティスはその頭に頬を寄せた。
 あの絵に描いた女の子とも、こうして触れ合いたかった。
 最愛の娘、ジュリア。
 ジャスティスは研究室に戻るためにジョーエットを檻に戻すと、手を振った。
「また来るからな」
 ジャスティスは研究室に戻ると、組織培養をしているシャーレを取り出した。
 背後の培養水槽の中で眠る小さな胎児の体には、すでに成人と同じだけの卵子が揃っている。
 女性は大人になってから卵子を作るのではなく、胎児の段階ですでに卵子を持っている。それが第二
次成長とともに排出されるようになるだけだ。つまり月経とともに一つづつ卵を排出しているだけで、
新たに作ることはない。だから一定の排出期間が過ぎると閉経する。
 ジャスティスは背後に眠る胎児の体の中で卵巣が形成されるまでを何度も観察した。
 大きく育ち過ぎて卵巣を形成してしまうと、胎児のもつ時間だけを過去に逆転させ、再び小さくする。
そして再び観察し、実験を繰り返す。
 決して大きくなってこの水槽から産声を上げて出ることはない命なのだ。
 だがその犠牲の成果として、卵巣が形成されるときに体内で発現する物質を特定できたのだ。そして
それを活性する物質も。
 前回は活性する物質が分からずに、幹細胞の卵巣への変成が途中で止まってしまった。
 今度こそ、正常な卵巣が再生した可能性が高かった。
 シャーレの中で増殖した細胞を僅かにとり、顕微鏡で覗く。
 そこに並んだ細胞を見て、ジャスティスは思わず右手の拳を握った。
「これは」
 念のために本棚の組織標本の写真と見比べる。
 どうみても、今顕微鏡で見た細胞は卵巣のそれに違いなかった。
「ついに、成功か……」
 深い感慨とともに、喜びが体の奥底から突き上げた。
 大事にシャーレの細胞を培養槽の中に移す。
 近いうちに、増殖を繰り返した細胞が卵巣を形作る日が訪れるだろう。
 シャーレを持って立ち上がったジャスティスは、興奮にすっかり注意力を失っていた。うっかり落と
したハサミに思わず声を上げた。
 先の鋭いはさみが、靴の上からジャスティスの足の甲に刺さっていた。
「あああ!! くそ!」
 シャーレを台の上に戻し、ジャスティスはうずくまった。
 まだ大した痛みは実感できていなかったし、出血もなかった。
 だが大怪我には違いない。こんなときに怪我をするなんて。
 ジャスティスは痛々しい傷を見ながらも、自分の失態に失笑した。
 ジュリアのために実験が成功したことが、どうやら自分が怪我をした不幸をなしにしてしまうほど、
嬉しいことであるようだった。
 ジュリアのためなら、この足くらい簡単に犠牲にできる。
 実験にさえ成功すれば、ジュリアに堂々と会いにいける。いつも夢みる愛しい娘をこの腕に抱ける。
その望みのためだけに、今まで〈エデン〉にこもって研究を続けてきたのだから。
 ジャスティスは確信とともに思った。
 そのジャスティスの視界に影がさした。
「お怪我ですか? 治療しましょう」
 レイチェルが立っていた。
「ああ、ずいぶんとドジをしてしまったようだ」
 ジャスティスはレイチェルに笑いかけると、その腕を借りて立ちあがった。そしてその体を抱きしめ
た。
 今まではなぜかレイチェルと必要以上の接触をもつことに躊躇いがあり、ジャスティスはレイチェル
に触れることがなかった。
 だが今は実験の成功の嬉しさと、ジョーエットを抱いたときの感触が甦っていたこともあって、強く
抱きしめた。
「実験が成功したみたいだ」
「そうですか。それはおめでとうございます」
 レイチェルがジャスティスの胸の中で呟く。
「さあ、イスに座って」
 レイチェルに促されてイスに座りながら、ジャスティスはまだ抜けない大きな喜びに、溢れる笑顔を
隠しはしなかった。
 レイチェルが黙ったまま、ジャスティスの足に刺さったハサミを観察していた。
「まずは抜きますね」
 言うが早く、レイチェルは何のためらいもなくはさみを抜いた。
「ああ、くぅぅぅ」
 痛みに顔をしかめた。
 だがその痛みが一瞬の後に消えた。
 ジャスティスの足に手をかざしたレイチェルが、さっと手を滑らせた。
「え?」
 ジャスティスは消え果た痛みに、足を見下ろした。
 靴を履いたままの自分の足には、はさみが刺さっていた痕さえのこってはいなかった。
 だがその靴の横には、たしかにはさみが置かれていた。そう、このはさみが自分の足を靴の上から貫
いていたはずなのだ。
 慌てて靴を脱ぐ。だが白い靴下に血痕一つなく、靴下を脱いでも、傷などは何もなかった。
 立ち上がったレイチェルに、ジャスティスは詰め寄った。
「おまえ、なにをした?」
 レイチェルがおかしな超能力者ででもあったのだろうか?
 おかしな笑顔が浮ぶのを気にしながら、ジャスティスはレイチェルの目を見つめた。
 そのジャスティスに、レイチェルがさも当たり前のことのように言う。
「時間を遡りました」
「時間を?」
「はい。わたしやあなたはいくらでもこの世界の記録をたどって過去の体へと入れ替わることができま
す」
 そう言って、レイチェルが水槽の中で眠る胎児を指さした。
「あの子のように」
 心臓がドクンと大きく胸の中で打った。
 ジャスティスはレイチェルから後退さると、自分の手を見下ろした。
「この世界?」
 声が震えていた。
「バーチャルリアリティーの世界、〈エデン〉です。わたしやあなたはこの世界に生きている」
「ではジュリアは?」
「ジャスティスが大事に思っている娘ですね。時々ジャック・インしてくるようですが、この世界の住
人ではありません」
 ジャスティスは痛みに悲鳴を上げる心臓に、胸を強く握った。
「ジャスティス? ジャスティスとはわたしのことだろう? レイチェル、おまえは誰の話をしている。
わたしには全く……」
「ドクター・ジャスティス。あなたのオリジナルです。あなたはこの世界にオリジナルのジャスティス
のコピーとして作られました。ジュリアのため、卵巣の形成を促がす実験を代理で進行させるために。
そして見事あなたはその役目をまっとうしようとされている。立派です」
 レイチェルがさも賞賛をたたえた目で見つめ、笑顔を浮かべる。
 だがその笑顔さえ、ジャスティスには薄ら寒い恐怖を与えるだけだった。
 喉がカラカラに渇き、そこから心臓が飛び出してきてしまいそうだった。
 体中が血を流して痛みを発していた。
「そんな、わたしが。……ジュリアと過ごした記憶は……レイチェル、君を愛した記憶は……今も鮮明
に手で触れた感覚まで覚えているというに」
 ジャスティスは後退りながら、感覚を無くして垂れ下がった手が触る実験台の上に並んだ試験管やシ
ャーレを床に落とした。
 床の上で無惨に砕け散るガラス片が目に入る。
 ジャスティスはその欠片を手に取った。
「わたしは、ジュリアの父ではないのか? こんなに愛しているのに。ジュリアに会うことはできない
のか。……本当は何一つ持ってはいなかったというのか……いつわりの記憶に騙されいただけで……」
 ガラス片を握り、自分の腕の内側に押し付けた。
 確かな痛みのあと、赤い血が溢れ出す。
 だがレイチェルがその手に触れた瞬間に、跡形もなく傷は修復する。
 ただ確かに腕を切りつけた証として、手にあるガラス片と床には血の滴った痕があった。
 ジャスティスはガラス片を投げ捨てると、笑い声を上げた。
 狂ったように腹を抱えて笑う姿をレイチェルが黙って見つめていた。
「おかしいだろ? 自分だけはこの世界の住人ではないと思っていた。胎児を実験に使っていることに
良心の呵責さえ覚えて、人間のエゴに苦しみだって覚えたさ。だがどうだ? 利用されていたのは俺だ。
偽物の記憶に心を焦がし、会えもしない娘に会うことだけも夢見て、夢見て、夢見て、夢見ていたのに
!!」
 ジャスティスの声が悲鳴へと変わっていく。
 俯いた顔からは涙が零れ、叫びを上げる口から涎が滴った。
「俺の家族はどこにいるんだよ! 生きている証はどこだ!!」
 顔を上げたジャスティスの表情からは、絶望ゆえに理性が消失していた。
 そして次の瞬間、レイチェルを床に押し倒していた。
 乱暴に服を剥ぎ取る。
 その下にあったのは、記憶の中にあるのと同じ妻の白い肌だった。
 レイチェルは当惑しながらも、特に抵抗することなくジャスティスを見上げていた。
 かつての自分を恥ずかしげに見ていた妻の顔ではなかった。
「レイチェル。お前だけがぼくの家族だ。だから、……ぼくを愛して」
 ジャスティスはレイチェルの胸に顔を埋めた。
 乱暴に愛撫するジャスティスの頭を、レイチェルが撫でた。
 その手付きがあまりに優しく、ジャスティスは声を殺して泣いた。
 自分の中で禁を発する声を無視し、ジャスティスはレイチェルを抱いた。
 固い床の上で、発する自分の声が、自分のものだとは思えなかった。
 俺はいったい誰なのだろう?
 消えない疑問がいつまでもジャスティスの中にうずくまっていた。



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