第三章 交わらぬ軌跡



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「ジュリア」
 声をかけたが、机の上に伏した娘から返事はなかった。
 机の上の時計はすでに午前3時を指していた。
 開け放っていた窓から入り込む風は、夏とはいえずいぶんと冷めたい。
 ジャスティスはレースのカーテンのゆれる窓を閉めると、ジュリアに近づいた。
 そしてこめかみで光を放っているジャックに気付いて、ジュリアの眠る顔の前にあるパソコンにふれ
た。
「ジュリアのジャック・アウトを」
 画面にむかって指示するが、イサドラが拒否した。
―― あなたは〈エデン〉に登録されていません。
 その声に、ジャスティスは眉をしかめると、パソコンに向かって何かを入力した。
「レイチェル」
 ジャスティスが画面に向かって言った。
「はい。ジャスティス。御用でしょうか」
「ジュリアを〈エデン〉からジャック・アウトさせてくれ」
「了解しました」
 レイチェルが消え、数秒でジュリアのこめかみのジャックが点滅した。
 ジャック・アウトの準備ができた印だった。
 ジャスティスはジュリアのこめかみからジャックを外すと、すっかり寝入っている娘を抱き上げた。
 そしてベットに横たえると、大切な宝物を守るように布団を掛けた。
 そのジュリアの目から一筋涙が零れる。
 ジャスティスはその涙を指で掬うと、娘の寝顔を眺めた。
「母さんに似てきたな。お前も誰かを思って泣くような年なったんだな」
 気が強くていつも食ってかかるような娘だったが、寝顔は小さなときから変わらぬあどけないものだ
った。
「そういえば、お前の母さんにあったのも、ジュリアくらいの年だったかな?」
 懐かしく思い返すように言うと、ジャスティスはジュリアの額にキスをして立ち上がった。
 妻レイチェルと死に別れてから十五年。
 毎晩妻を思い、寂しい腕を感じる日々を送ってきた。
 また、あの手を握れるものなら握りたいと思った。本物の彼女の手を。



 ジャスティスは疲れた体を自室のベットに横たえると、大きく吐息をついた。
 午前三時。
 明日のことを思うともう眠っておきたいところだったが、彼には気にかかっていることがあった。
 カルロス研究所での研究とは別に、独自で進めている研究。
 臓器の再生に関する研究だった。
 今は幹細胞による再生医療が盛んだが、幹細胞で再生できる臓器には限度があった。
 骨髄中にある間葉系幹細胞には、骨、軟骨、脂肪、心臓、神経、肝臓の細胞に変化する力を持ってい
る。それらを利用して、心筋梗塞で壊死した細胞を修復してやることができれば、以前と全く変わらぬ
健康体を取り戻すことができる。しかも、移植のように他人の臓器を体内に入れるのではなく、自分の
体から取り出したものなので、免疫による拒絶反応もない。
 注目の医療技術だ。
 カルロス研究所でもこの研究が盛んに行われていた。
 だが、ジャスティスが行いたい研究は違った。
 ジャスティスが再生させたい臓器は卵巣。
 娘のジュリアが無くしてしまった器官を取り戻してやりたいのだ。
 ジャスティスはその研究を〈エデン〉とニューワールドの干渉地帯に研究所を作ることではじめた。
 だが通常の自分の業務をおろそかにすることもできない。
 そのためにある細工をしたのであった。
 ジャスティスはベットに横になっていたい誘惑にけりをつけると、勢いよく起き上がった。そしてベ
ットの上に自分専用のパソコンを広げた。
 MOディスクを挿入し、バーチャルリアリティーの世界へのゲートを開く。
「レイチェル」
 ジャスティスがその名を呼ぶと、一人の女性が顔を現す。
 ショートヘアーの快活そうな美人が笑顔を浮かべる。
「Dr・ジャスティス。こんばんは。ジャック・インしますか? それとも報告書をお読みになります
か?」
「ジャック・インするよ」
「了解しました。ではジャック・インの準備に入ります」
 ジャスティスはうなずくと、こめかみにジャックを挿した。
 目の前に展開したホログラフのモニター上で、確認項目がOKを示してレッドからグリーンへと変化
していく。
「一次ジャック・インをします」
 その言葉と同時に、ジャスティスは白い空間に立っていた。
 足元にあるのは影さえ吸収してしまったかのような、真っ白なタイルの床。
 その足元を見下ろしながら、ジャスティスは眩暈のように回る意識を整えた。
「体調はいかがですか?」
 目の前にレイチェルが現れて尋ねる。
「わたしは大丈夫だよ。毎回このジャック・インのときの浮遊感には慣れないけどね」
 頭を振ってみせるジャスティスに、レイチェルが微笑む。
 かつて自分が愛した人と同じ顔が、目の前にあった。
 だが、彼女は自分の妻であった人そのものではない。作り上げた擬似人格に過ぎない。
「君の方こそ、体調は大丈夫かね?」
「心配には及びません。完璧に回復いたしました」
 何の苦痛も味わってはいない。あるいは感じない。そんな顔で、レイチェルはジャスティスを見てい
た。
 その真っ直ぐな目に耐えられず、ジャスティスは目をそらした。
「いつも辛い実験につき合わせて、すまないと思ってる」
「いえ。ドクターのお役に立てるのなら、わたしは光栄です」
 レイチェルに注入した記憶に、ジャスティスと夫婦であったという記憶はない。
 ただ特別な関心を注いだ相手であり、ジャスティスの研究にその体を差し出すことが必要なのだとい
うことだけしか知らない。
 それが正しいのだと分かっていても、ジャスティスには自分の割り切れない気持ちとのギャップに日
々悩むのであった。
 これもジュリアのためだ。
 その思いだけが、ジャスティスの倫理観を支えていた。
「彼は?」
「ただ今手術を行っておりますので、シンクロはしばらくお待ちいただいたほうがいいかと」
「手術?」
「映像でご覧になりますか?」
「ああ、見せてくれ」
 目の前にホログラフで巨大な画面が現れる。
 そこに映っているのは、緑色の術着を着て真剣な表情で注射器を構えたもう一人の自分の姿だった。
 手術台の上に横たわっているのは、茶色の寅模様のネコだった。
 その右足の毛が剃られている。
 本来ならその毛の下にあるのは薄いピンクの肌なはずだが、今あるのは紫を通り越して黒くなり始め
た壊死寸前の皮膚だった。
「喧嘩をして怪我をしたようなのですが、そのときに血管内に血栓が出来たことから、その先の血管と
筋肉が壊死しそうになっているのを保護しました」
 レイチェルの説明に、ジャスティスは頷きながらディスプレイを見つめた。
 麻酔が施され、ぐっすりと眠っているネコの足に、今注射が打たれていた。
 血管再生。
 今、打たれた注射が、血管を作り出す幹細胞を送り込んだのだ。
 成功すればほんの数時間で元のピンク色の皮膚が戻ってくる。
 注射針を抜いたもう一人のジャスティスが、注射器を膿盆に下ろし、ホッと息をつくのが分かる。
「シンクロしますか?」
 レイチャルが横から尋ねてくる。
「そうしよう」
 ジャスティスが頷いたのをうけ、レイチェルが姿を消す。
 そして頭の中にカウントダウンの声を響かせた。
「シンクロ開始」
 まず最初にシンクロするのは視覚だった。
 白い部屋が消失し、目の前に今見ていたはずの手術室が出現する。
 続いて手足の感覚がシンクロして、手術室に立っている重力と手の中の温かいネコの体温がやってく
る。
 それから消毒薬の匂いが甦り、次の瞬間、完全にシンクロした証しとしてその体の中に落ちた感覚が
やってくる。
「シンクロ完了」
 レイチェルの声に頷くと、ジャスティスは手の中のネコを見た。
 目の前にはネコの足を造影したディスプレイがあった。
 明らかにつまって血流の途絶えた血管があった。
 だが今、その血管をバイパスするように、いくつもの血管が急速に伸びていく。植物の根のようにそ
の体内に伸び広がりつつあった。
 血管再生は成功だ。
 ジャスティスはもう一人に自分の知識と腕に感服しつつ、ネコをゲージの中に入れた。
 造影剤を抜くための点滴も施し、自分の研究室まで連れて行く。ネコの様子を見守るためだった。
 ジャスティスはゲージの中で眠るネコを見ながら、微笑んだ。
「元気になれよ。せっかくもう一人のぼくがお前を見つけてやったんだからな」
 ジャスティスは重量感のあるゲージを片手に、研究室へと歩いていく。
 研究室のドアが、ジャスティスの存在を確認してその口を滑らかに開けていく。
 そのドアの向こうに広がっていたのは、たくさんの水槽が林立する空間だった。
 温かい輸液の中を酸素の泡が下から上へと無数に上がっていく。
 その中に浮いているのは、脈動する心臓に、形成途中の背骨。
 そして明らかに人間の胎児の形をした生き物だった。人工のへその緒につながれたその胎児が、水槽
の中で親指を吸うように見える格好で眠っていた。
 ジャスティスはその全てに目を向けながら、デスクの上にケージを下ろした。
 ゲージの中のネコが、髭をピクピクさせながら横たわっていた。
 机の上の日誌を手に取ると、疲れを訴える体をイスの上に下ろした。
 ギシっと軋む音を響かせながら、ジャスティスは日誌を開いた。
 丁寧に記された神経質な文字は自分のものと同じだった。
「まあ、自分のコピーだから当たり前か」
 文字を追いながら、ジャスティスが呟く。
 研究は進めたい。だが、そのために割ける時間が圧倒的になかった。
 その問題を解決するためにとったのが、この研究所にもう一人のジャスティスを作ることだった。
 自分のコピーを常駐させることで、研究を進めさせようとしたのだ。
 自分と全く同じ記憶と知識を与える。
 家族への愛も、特にジュリアへの強い愛情も。
 今のところ、この計画は成功していた。
 日誌に並んだ文字は、Drジャスティスの意図したとおりに研究を進めている様子を如実に示してい
た。
「ネコの手術までは思い描いていなかったが。彼の愛情の成長なのだろうね。ぼくでもやるし」
「彼の行動パターンは、まったくジャスティス、あなたと同じです。朝は5時に起きて〈エデン〉の中
を散策し、珍しい花を摘んで帰っては花瓶に飾る。それから午後1時ぐらいまで実験動物の世話や資料
の作成。その後少し休んで研究を続ける。このごろは休憩時間に絵を描いています」
 ジャスティスの隣りに現れたレイチェルが言った。
「絵を?」
「はい。Drジャスティスにも絵の趣味があったと思いますが」
「そういえば、そうだね」
 忙しさに紛れてそんなことも忘れていたが、確かにイラストもどきの絵をジュリアと描いて遊んだも
のだった。
 デスクの上にはガラスの小さな花瓶に、白い花を咲かせる可憐な野の花が生けられていた。
「彼はとても有意義な時間を過ごしているようだね。羨ましい限りだ」
 ジャスティスのその言葉に、レイチェルが微笑む。
 日誌の続きに目を通しながら、ジャスティスがうなずく。
 そして立ち上がると、細胞の増殖を行っている培養皿を取りに立つ。
 取り出したのは、ほぼジュリアと遺伝情報が同じであろうES細胞だった。
「レイチェル。順調に増殖してるよ」
「はい」
 声をかけてから、ジャスティスは自分の中で膨らんでいく期待という幸福感と同時に存在する良心の
痛みを自覚した。だからこそ、レイチェルに同意を求めてしまったのだ。
 この行いが罪なのだとしたら、自分こそが負わなければならないものを、レイチェルの肯定の答えで
不快感を少しでも薄めようとしている。
 脆弱な自分の意思に見切りをつけると、ジャスティスは培養皿を手にバイオキャビネットへと歩いて
いった。
 ES細胞は正確には(Embryonic stem cell)胚性幹細胞や胎児性幹細胞などと呼ばれる。
 読んで字のごとくES細胞は胎児から得るのである。
 本来不妊治療などでできた受精卵のうち、使用されなかった余剰受精卵から取り出し増殖させたもの
がES細胞だ。
 人間でいうところの受精から5〜7日の受精卵内部の内部細胞隗がその素となる。
 人は受精卵として一つの卵として命を受ける。
 それが母親の胎内で卵が成長する段階で、二細胞になり四細胞となり、次第に大きく成長して人間の
胎児の形にまで変化する。だが、その初期は誰もがたった一つの卵だったのだ。
 その一つの卵の中で、次第に一部は皮膚となる外胚葉を形成して皮膚や角膜を形成し、あるものは内
胚葉として腸などの臓器を作っていく。
 ここで一度外胚葉、内胚葉、中胚葉と役割を担って分化した細胞は、決して他の胚葉に変わることは
ない。なぜなら、一度皮膚である細胞と決まったところが変容して臓器になりたいなどと思おうものな
ら、手の甲にある日突然小腸が出現したり、つめの先に目ができたりしてしまうからだ。
 一度引かれた線引きは一生消えない。
 だが、初期受精卵は、それこそなんにでもなる可能性を秘めている。その力があるといってもいい。
 ES細胞さえ自在に使えれば、トカゲの尻尾が千切れても再び生えてくるように、もう一度無くした
ものを再生できるのだ。
 心臓の筋肉を死滅させる心筋梗塞で無くした機能ゆえに不自由な生活を強いられたひとにも、この細
胞を移植してあげれば、あとは自己の遺伝子の支持にしたがって心筋を再生してくれるのだ。
 だがここに倫理的問題がないわけではない。そして、免疫による拒絶反応の有無が発生する。
 胎児を利用する。一つの生命をいたずらに操ることへの禁忌は確かに存在するのだ。
 ジャスティスはシャーレから細胞を掬い取り、別の培養皿に落とす。
 このES細胞は自分とレイチェルの遺伝子を受継いだ受精卵から採取したものだった。
 つまり生きていれば、ジュリアの兄弟となりうる細胞だった。
 その細胞を利用して、ジュリアの失った卵巣を再生させる。それがジャスティスの悲願だった。
 細胞の上に薬液を落とす。
 未だ卵巣を再生させるための条件は見えてきてはいなかった。
「レイチェル、ありがとう」
 何度となく卵子を採取する手術を受けてくれたレイチェルに、ジャスティスは申し訳なさを感じずに
はいられなかった。
 彼女にはジュリアのためにそこまでする動機は与えられていないのだから。
「はい。お役に立ててうれしいです」
 レイチェルがいつもと変わらぬ儀礼めいた返事を返す。
 ジャスティスはその答えに苦笑してシャーレを培養機に戻そうとした。
「ジュリアの卵巣が出来るといいですね」
 レイチェルが言った。
 振り向いてみたジャスティスは、その目に浮かんでいるはずの愛情を探した。
「?」
 じっと見つめるジャスティスに、レイチェルが笑顔で首を傾げる。
「なんでもないよ」
 ジャスティスは硬質な音を立てるガラスのシャーレをしまいながら、自分の気持ちに嘲笑したい気分
だった。
 彼女はわたしの妻でも、かつての愛した人でもないのだ。
 何の期待ももつな。彼女は大切なパートナーであり、ジュリアのための細胞提供者にすぎないのだ。
「今日はあの子を使って卵巣形成のための条件をさぐる。発現する遺伝子とその誘導を行う因子を特定
する」
 水槽に浮ぶ胎児。決して成長しない胎児。
 大罪を犯している自覚はありながら、ジャスティスは研究を止めるつもりはなかった。


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