第三章 交わらぬ軌跡

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 月が色鮮やかに、夜空に波紋のように金の光のベールを広げていた。
〈エデン〉
 この電脳の中に育まれた楽園が、ジュリアにとって唯一の癒しの場になっていた。
 ジュリアは風に波のようにさざめく草の中に座り込み、〈エデン〉の夜空を見上げていた。
「星が落ちてきそう。こんなにたくさんの星を見たのは久しぶりかも」
「地球上から見える星の全てを再現しただけだよ。なんでいつも見ないの?」
 背後から歩いてきたイサドラが、ジュリアの横に座った。
「現実の世界ではね、見たくても見れないのよ。誰にとっても癒しのときであるはずの夜が、来ないか
ら」
 草の中に寝転ぶジュリアに、イサドラが心底驚いた顔で、その顔を覗き込んだ。
「え?! 夜が来ないの? そしたら地球が燃えちゃうよ。自転してないのかな? 大変だよそれって。
太陽の引力にも負けちゃう。地球が消えたら、〈エデン〉も消えちゃう!!!」
 一人で恐慌を起して叫ぶイサドラに、ジュリアがクスクスと笑う。
「ジュリア、笑い事じゃないよ!!」
 真剣そのもので言うイサドラに、ジュリアはその手をとった。
「比喩表現だから。本当に夜が来ないわけじゃないよ」
 友だちのように繋いだ手を見つめながら、イサドラが口を尖らせた。
「比喩? じゃあ、夜が来ないってどういう意味? あ〜、ジュリアったら、もしかしてやらしい意味
?」
「そんなことは分かるのかよ」
 ジュリアは起き上がってイサドラのおでこをピシャリと叩く。
「痛いなぁ。じゃあ、どんな意味なのよぉ〜」
 まるで思春期の子どもをもった親のようだ。
 ジュリアはイサドラのむくれた顔を見ながら思った。
「現実的には、街に空の星の光を見えなくするほどの光が真夜中でも煌々とつき続けてる。巨大なイル
ミネーションなんて、空に反射しちゃってるからね。
 そんな夜でも眠らない街ができあがるとね、人は一見地味な家族で過ごす楽しみなんかの大切なもの
を忘れてしまうんだよね。夜は家族が揃って一緒に過ごして、一日の疲れを癒す。そんな当たり前がも
う、現実の世界にはなくなってきてるんだよ」
「街には夜を消し去るほどの光が溢れ、家族には共に過ごすはずの夜がやってこなくなってしまったっ
てこと?」
「そう」
 イサドラは膝を抱えて座ると、顔を膝の上に伏せた。
「それって寂しいね」
 イサドラを見れば、膝の上に頬をのせて、ジュリアを見つめていた。
「だから毎晩〈エデン〉に来るの?」
 傾げた首が、ジュリアの心を想って悲しげに見えた。
 ジュリアはそんなイサドラの頭を撫でると、笑った。
「そうだ! 今日はプールに入ろう!!」
「プール?」
 ジュリアは立ち上がると、草原の一部に青い水を湛えた小さなプールを作り上げた。
「そういう余計で無意味な創造はしないって約束なんじゃないの?」
 背後で呟くイサドラに、ジュリアは服を脱ぎながらエヘっと笑って振り返る。
「ま、固い事言わずに。あとで戻すから」
 全くの羞恥心もなしに真っ裸になったジュリアは、プールの中に飛び込んだ。
 水の中から浮き上がったジュリアの体に、長い髪が纏わりつく。
「イサドラもおいで」
「泳いだことないから怖い」
 水辺に座り込んだイサドラが、足先で揺れる水を蹴って遊んでいた。
「冷たいよ」
「だから気持ちいいんでしょ?」
 ジュリアが水の中を、軽やかに泳いでいく。
「ジュリア、人魚姫みたい」
 イサドラの足元に来たジュリアが水の中から顔を出すと、その勢いに任せてイサドラに水を跳ね掛け
た。
「人魚姫はダメ! なんて言っても悲恋の物語よ。ま、人魚姫を連想するくらいキレイってことは認め
るけど」
 かけられた水を頭から滴らせたまま、イサドラがジュリアを見下ろしていた。
 ジュリアは水から上がると、プールサイドの白い淵に座った。
「この傷見える?」
 ジュリアは下腹部にある手術の痕をイサドラに示す。
「結構目立つかな?」
 指が白い引き攣れを撫でていた。
「傷としてはキレイな方でしょ?」
 イサドラはジュリアと同じようにプールサイドに座り込むと、膝から下をプールに入れてバシャバシ
ャとバタ足を始める。
「気にしてるの? その傷」
「別に。たいした傷じゃないしね。でも水着になるにはちょっと気が引ける」
「ワンピースの水着なら見えないじゃん」
「水着と言ったらビキニ。わたしはそれ以外は認めません!」
 断言するジュリアに、イサドラはおざなりに「はいはい」とうなずいた。
「ってことで、これはポイ」
 ジュリアは脱いだ服のポケットから手紙を一通取り出すと、プールの中に投げ込んだ。
 白い便箋の上に書かれていた文字が、たちまち滲んで判読不可能になっていく。
「いいの?」
「いいの。大学の友だちが海へ行こうって言うんだけどね。やっぱ行かない」
「その友だちって男でしょ」
「……まあね」
 ふざけて肘でつつきあっていたジュリアとイサドラだったが、ジュリアがもう一通の手紙を持ち出し
たところで沈黙した。
「まだ男を抱えているの?」
「これは違うって」
 ジュリアはその封筒をピラピラと振ってはみたが、水の中に落とすことはなかった。
「それはどうするの?」
「……捨てるわけにはいかないんだな」
 ジュリアはその封筒をポケットに戻すと、イサドラと並んで水に足を浸けた。
 そして魔法を唱える魔女のように指を空中で動かす。
 するとプールの上の空中に、一着のドレスが出現した。
「また! 無駄な創造はやめてください!」
 イサドラの抗議に笑いながら、ジュリアは指を振って真っ白な長いベールのついたドレスを空中で躍
らせる。
 純白でフアフアとその裾を揺らすオーガンジーが、月の光に輝いていた。
「それってウェディングドレス?」
 イサドラがそう言った瞬間。ドレスが真っ赤に染まった。
 そのドレスを自分の腕に掛け、ジュリアがイサドラにむかって微笑む。
 そしてそのドレスを着込むと、ジュリアがイサドラに両手を広げて見せた。
「どうよ。似合う?」
「うん。よく似合ってる」
 ジュリアは一人相手が不在のまま、一人でダンスを踊る。
 楽しげに笑い声を上げて踊るジュリアに、イサドラもドレス姿に自分を変えると一緒になって草原の
中で踊った。
 プールが消え、草原にイサドラと二人、悲しくも美しい乱舞を続ける。
 その様子を、月だけが見守っていた。





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