第一章 彼女の決意


 子馬が軽快に森の緑の中を走っていた。
 細い小さな足で、でも確かな足取りで走り回る。
 ペルとスイレイはその姿を倒木の上に腰掛けながら眺めていた。
「生まれたことが嬉しくてしょうがないってかんじだね」
 ひとしきり元気に走り回った後で、子馬は草を食んでいる母馬の側に擦り寄っていくと、その乳を飲
み始める。
 ペルは自分のお腹に手を当てながら、その様子を眺めていた。
「この子たちにも、自分でお乳上げたり、抱っこしたりして上げたいな」
 優しい母の顔で言うペルを、スイレイは複雑な気持ちで見つめていた。
 できるならば、その願いは叶えて上げたい。
 でもそれは決してしない約束だった。
 子どもは産む。だが、その育児はイサドラに一任する。
 この〈エデン〉という世界に、外部の人間が干渉し続けることはできないのだ。
 倫理的にも物理的にも。
〈エデン〉に在り続けたい。それはスイレイの願いでもあった。
 現実の世界では、どんなにペルを愛していても、実の兄弟だという越えがたい壁が確かに存在してい
た。そして自分はその壁を越えることはできない。
 この〈エデン〉だからこそ、たった一夜だけ、越えた一線であったが。
 ペルの頭が、肩に寄りかかる。
 サラサラと揺れる髪と、立ち上るペルの香り。甘く柔らかな香りがスイレイの気持ちを揺さぶる。
 桃色の頬はふっくらと膨らみ、長いまつげに彩られた瞳が子馬と、まだ見ぬ未来の子どもを映して輝
いていた。
 スイレイがペルの肩を抱く。
 ペルはその腕に体を預けて安らいでいた。
 スイレイはペルの頬に手をかける。
 ペルはほほえんでそのスイレイを見上げた。
 だがその瞳にあるのが、いつもの穏かな愛情に包まれた光でないのに気付いて表情を固めた。
 スイレイがペルの唇に唇を寄せる。
 一瞬呆然とされるがままになっていたペルだったが、目を閉じるとその首に手を回した。
 スイレイにも欲望がないわけではない。
 スイレイの唇はペルの首筋へとたどり、その手がペルの体を抱き寄せ、まさぐる。
 だが、次の瞬間、スイレイはペルの胸に顔を埋めたまま動きを止めた。
「スイレイ?」
 目を開けたペルが見たのは、自分の欲望を押し殺そうとするスイレイの苦悩の険しい顔だった。
「ごめん。妊娠中なのに」
 ペルは微笑むと、「ううん」と頭を振ってスイレイの決断を受け入れる。
 そしてスイレイの頭を抱きしめると、その頭に頬を寄せた。
 ペルは何も言わなかった。
 でもスイレイが、もう二度と自分には手を出さないであろうことも分かっていた。
 スイレイには、たとえ〈エデン〉であろうと、実の妹との情事などは受け入れがたいものなのだ。
 頭が硬いだとか、時代遅れだとか、そんなことで片付けられるものではないのも分かっていた。
 良心が許さない。
 植え付けられた遺伝子が、それを拒否して訴える。
 それでも愛している熱い気持ちは変わらないの。抱きしめたい気持ちも変わらないのに。
 スイレイを苦しめることが、ペルにはつらいことだった。
 その時、不意に目の前にイサドラが現れ、ペルとスイレイに向かって口に指を立てて静かにと指示を
だした。
 イサドラの視線の方向。
 そこに馬の親子と、もう一人の人物が近づいてくる姿があった。
 ジュリア。
 長い髪を風になびかせて歩いてくる美少女は、どこか暗い顔をしていた。
 ペルの従姉妹であり、スイレイとペルの幼馴染。ともにこの〈エデン〉を作った友だち。
「大丈夫。ジュリアには二人の姿もわたしの姿も見えてはいないから」
 イサドラの声にペルが頷く。
 スイレイもペルの横でジュリアの姿を認めた。
 ジュリアが子馬に向かって笑顔を向け、じっとその姿を見つめている。
「ジュリアはよくこの辺に来るのか?」
「大抵毎日、夕方に現れるのけど、今日は早い」
 ジュリアはじっと風に吹かれるのを楽しむように天を仰いで、目を閉じている。
 絵になる姿だった。
 だがその姿から若さを感じさせる活気はなかった。どこか虚ろで何かを求めて彷徨っている。迷って
いる。
 ペルにはそう感じられた。
 ジュリアとまた話をしたい。一緒に笑いあって、手を取り合って遊びたい。
 秘密を持つことのつらさを感じながら、それでもこの事実を知られることを恐れて息を殺していた。
 ジュリアがペルたちに背を向けて歩き出す。そして森の奥へと歩いていった。
「もう大丈夫。だけどなるべく家の近くに戻って。あのエリアにはジュリアが近づけないから」
「わかった。そうするよ」
 イサドラの忠告に、スイレイが頷く。
 そしてペルの手をとると歩き出した。
「ジュリアが入れないって?」
「あの家から半径5キロに対してジュリアの権限に制限をかけた。ペルと……秘密を守るためだ」
 初めて知る事実に、後ろめたさが増幅する。
 親友だったジュリアに対して、秘密を、しかも彼女の知らないところで彼女の自由まで奪うようにし
て。騙して。
「そうだったんだ。わたしだけ安穏と〈エデン〉で過ごしていて、申し訳ないな」
「そんなこと気にするな」
 スイレイに手を取られて歩きながら、だが、二人の間に流れる感情に溝ができていた。
 触れないように、そっとしていた事実に、たじろぎ、うろたえ、沈黙する。
 朝食を広げていた畑の横まで戻ってきたところで、スイレイが広げていたお皿や布をかたずけ始める。
 楽しかった時間の終焉。
 ペルをスイレイの姿を見つめながら思った。
 このピクニックに、どうしてジュリアが混ざっていないのだろう。どうしてこんなに後ろめたい気持
ちを抱かなければならないのだろう?
 わたしはただ、スイレイを愛しているだけなのに。
 ペルはスイレイの横にしゃがみ込んで一緒にお皿やフォークをバスケットにしまうと、その横顔を見た。
 悩みを抱えながらも、ペルのことを第一に考えてくれる優しい横顔。
「スイレイ」
 呼びかけたペルに、スイレイが顔を上げる。その顔にある憂いを隠した笑顔。
 ペルはその顔に微笑む。
「ありがとう」
 そして心の中でささやく。
 ごめんね。



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