第一章 彼女の決意


 初夏の空気の中を、二人は手をつないで歩いた。
 小道の両サイドに続くリンゴの木には、まだ小さな子りんごが実り、さわやかな風に葉を揺らす。
 頭にのせた白い帽子を風に飛ばされないように押さえたペルが、スイレイを笑みを浮かべて見つめた。
純粋な喜びだけに満ちた光が零れんばかりの笑顔。こうして恋人として堂々と手をつないで歩けること
だけで、ペルには極上の喜びだった。
「それ、新作だよね?」
 スイレイは駆け出しそうなペルに手を引かれながら、言った。
「そうだよ。かわいいでしょ?」
 ペルはクルリとダンスを踊るように、スイレイと手をつないだまま回ってみせる。
 それにつられて、レモンイエローのワンピースがはらリと舞う。
「今回は蓬で染色してみました。憧れのパフスリーブはちょっと恥ずかしい気もしたけれどね」
 全てを自然のままに残そうというコンセプトで作った〈エデン〉にいるゆえに、ペルはここで過ごす
間、ありとあらゆることを手作業でこなしていた。
 綿花から糸を紡いでその糸から生地を織り、植物で染色しては服を作る。
 その他、洗濯することも食事をつくることも、なにもかもが労働の末にあるものだった。
「ペルによく似合うデザインだよ。色もいいね」
 スイレイに褒められたペルが、えへへと照れ笑いを浮かべる。
 その胸元に光ったペンダントは、スイレイの手づくりだった。木の枝とドライフラワーで作ったペン
ダント。
 それに気付いたスイレイの顔にも笑みが浮ぶ。
「お嬢様はごゆっくりとおくつろぎください。このスイレイめがお嬢様に最高のブレイクファストをご
用意いたしますゆえ」
「期待しておりますわ」
 スイレイは腕に抱えたバスケットを掲げてみせる。
「さてさて、畑には何がなっているかな?」
 ペルとスイレイはわずかばかりだが、開墾して作った畑へと入っていった。
 ペルにしてもスイレイにしても、はじめて作った畑は、見るからに畝も曲がって不細工なつくりであ
ったが、それだけに愛着は大きかった。
 お腹が大きくなってからも、ペルは毎朝この畑に通い、水くれや収穫を楽しんでいた。
「ほら、こんなにおっきなトマトがあるよ!」
「お、いいね。とうもろこしはまだ早いか」
「うん。でもヒゲが光ってきれいだね」
 青々と繁った野菜や花の間を通り抜けながら、深緑にそまった空気を二人で胸いっぱいに吸い込む。
 それだけで二人は笑顔をこぼして笑いあえた。
 スイレイはちょっと待っててとゼスチャーで示すと、畑の横の平らな地面に布を広げ、小さな木のイ
スもセットした。この木のイスも、スイレイが畑仕事の合間にペルが休めるようにと作ったものだった。
「さあ、お嬢様どうぞ」
 スイレイはペルの手をとると、イスへと導いた。
 そして座ったペルの膝にはブランケットを広げ、準備よくおしぼりまで手渡す。
 その用意周到ぶりに、笑顔でおおげさに驚いて見せれば、スイレイも慇懃に頭を下げてみせる。
「では、スイレイのスペシャル・ブレイクファストを始めます」
 スイレイもペルの前の布の上に腰を下ろすと、楽しげな鼻歌を歌いながら、バスケットからナイフに
お皿と並べ始める。
「まずは採れたて野菜のサラダかな?」
 畑の横の川につけておいた野菜を取って戻ってくると、器用に手の上でカットを始める。
「トマトとキューリ。それにハーブソルトを一振り」
「この前乳鉢でごりごり作ってたのは、それだったんだ」
「そう。大正解」
 スイレイはフォークを添えてペルにサラダを差し出す。
「どうぞ」
「ありがとう」
 スイレイはペルの一挙手一投足を見守るように、下からじっと見つめてくる。
 ペルはその視線に「いただきます」と挨拶すると、サラダを口に運ぶ。
 トマトがプチっと音を立てて弾ける。
「うん。おいしい!」
「ぼくは切っただけだけどね」
「じゃあ、切りかたがいいんだ」
 ペルの褒め言葉に満足げに笑いながら、スイレイもサラダを口にする。
「ハーブソルトの出来はいかがかな?」
「うれしい、スパイスだね。ステビアの甘味につづいて見つけた、自然の調味料に感謝だね」
 スイレイにとってもペルにとっても、〈エデン〉での生活は不安と苦労の中で始まったが、何から何
まで初体験ですすめる生活が、思いの他楽しかった。
 不便なことだらけといえばその通りなのだが、その不便の向こう側に広がった新たな世界が、ペルに
もスイレイにも予想以上のお気に入りだった。
「つづきまして」
 ここでスイレイは白い生地で覆った塊を取り出した。
「これはなんでしょう?」
 ペルは目の前にかざされたその白い生地に覆われたものに、鼻を近づけた。
 香ばしい甘い匂いに、うっとりと目を閉じる。
「パン」
「さっきフライパンで焼いてみました」
「フライパンで?」
「ぼくに不可能はない!」
 白い生地をパラリと落とせば、丸い形の山が並んだ大きなパンがこんがりと茶色に焼けてあらわれる。
「フライパンで焼けるなんて、よく知ってたね」
「いや、勉強してきた」
 完璧主義者らしいスイレイの返答に、思わずペルも笑い出す。
 畑作りにしても、料理にしても、スイレイは勉強することを欠かさない。
 少し前にスイレイが〈エデン〉に持ってきて読んでいた本が、「初心者のためのハーブ活用法」だっ
た。
 それで勉強した成果が、あのハーブソルトであり、パンなのだろう。
「パンにはライ麦をつかって、キャラウェイシードを入れて焼いてみました」
「キャラウェイシード?」
「ハーブの種だよ。ローストしてすり潰せば、ノンカフェインのコーヒーやココアが作れるらしいよ。
今度作ってやるよ」
「うん」
 パンをカットしてバターを塗りながら、スイレイが仕入れてばかりの知識を披露する。
「なんかさ、昔は母さんがどこの紅茶がうまいだの、ケーキが焼けたから食べろだのって、どうしてそ
んなに熱心になれるのか不思議だったけど、ちょっとこの頃わかる気がするよ。結構魅惑の世界ってい
うのかな? ゆっくり流れる時間を満喫して、豊かな気分になれる気がするよ」
「そうだね。わたしも〈エデン〉に来る前は、畑仕事なんてやったことなかったから、虫なんてみれば
悲鳴上げてたけど、全てのものが地面を通していとおしくなるっているのかな? 大げさに言えば、と
もに地球に地球に生きる友になれた気持ちのなれるんだよね」
「地に足が着いたってことなのかもね」
 太陽光に目を細めて上げたスイレイの顔が、いつもより逞しく、大らかに見えた。
 鳴き声に顔を上げると川から上がってきたアヒルの親子が、畑の横をヨタヨタと歩いていく。母親の
大きなアヒルの後ろを、二羽の小さな子どものアヒルが続く。
 愛嬌のある鳴き声を合図にしたように、急ぎ足の子どもたちが一心不乱に母親の後を追っていく。
 その母アヒルはスイレイの数メートル手前で立ち止まる。
「これ食べたいのかな?」
 なんとなくアヒルの視線がパンにある気がして聞いたペルに、スイレイが眉間に皺をよせる。
「これはあげない。ペルのために焼いたんだから。しょうがないなぁ。これをやろう」
 スイレイは切ったトマトのヘタの部分をアヒルの足元に投げてやる。
 それをくちばしで突いたアヒルだったが、明らかに、これじゃなくて、そっちという目つきで再びス
イレイを見る。
「絶対パン、欲しがってるって」
「だ〜め!」
 スイレイはカットして作ったサンドイッチをペルに手渡しながら、わざとパンをアヒルから遠ざけて
置いた。
 その行いにパンはもらえないらしいと判断したアヒルが、一声文句を言うかのように大きく「ガー」
と鳴くと歩き去って行く。
「かわいくないなぁ」
 プイとそっぽをむいて歩き去って行くアヒルの後姿に、スイレイが呟く。
「おいしいものは、みんなよく知ってるよね」
 ペルはそう言って笑うと、サンドイッチを齧った。
「うわ〜。このパンおいしい! 確かにこれはアヒルさんには分けてあげられないかも」
「で、しょう!」
 自信たっぷりのスイレイも口にしたパンのおいしさが予想以上だったらしく、当たり前という顔が崩
れて、眉が上がる。
「まじうまじゃん。シェフにもなれるかも」
 自画自賛にペルが笑えば、スイレイも歯を見せて笑う。
 その二人の上に射していた陽射しが、雲に遮られて一瞬陰る。
 空を見上げた二人は、だいぶ高くなった陽に目を細めた。
 スイレイが腕時計に目を走らせる。
 〈エデン〉にジャック・インしてから、すでに1時間以上が経っていた。
「時間、大丈夫?」
 スイレイの動きを目の端で見ていたペルが、空に目を向けたまま言った。
「スイレイ、いつもより早く来てくれたでしょ。うれしいけど、どうしたのかなって思ってたんだ」
 二人とも意識的に避けてきた話題に、ペルが少し困った顔でスイレイを見る。
 スイレイは時間を気にしてしまった自分に酷く後悔しながら、笑ってくれるペルに目を向けた。
「今は、マリーがペルに着いていてくれてるから」
「……お母さんが」
 ペルはローズマリーが自分の実の母だとわかった時から、マリーのことをお母さんと呼ぶようになっ
た。だが、その呼び方はどこか不自然で、無理にそう思おうとしている空気が如実に漂っていた。
 ペルにとって母親とは、いったい何であるのか全く分からなかった。
 これから自分が母親という存在になろうとしている。だからこそ、ペルにはよくわからなかった。
 実の母だと思っていた人が、ローズマリーの異母姉妹にあたる人であったという事実。
 そしてこれまでの10年近い時間を、自分の世話をして育ててくれたスイレイの母レイリ。
 だがこの三人の中で最も自分に愛情を注いではくれなかった人、ローズマリーが実の母だというのだ
から、理解の範疇を超えていた。
 今、ペルはスイレイとの子どもがお腹の中にいるというだけで、最高に幸せな気分になれた。お腹の
中の子どもにたくさん話し掛け、早くその顔を見て抱きしめてあげたと思いさえするのだ。
 だが、ローズマリーにそんな様子は見て取れなかった。
 それでも彼女がペルの母親なのだ。
「マリーも、親身になってペルの世話をしてくれているよ」
「そうなんだ」
 ペルの顔に無理をした笑顔が浮ぶ。
「わたしにはお母さんらしいことしてくれるマリーなんて思い浮かばないけど」
 正直な感想を口にして笑うペルの目が、悲しげに遠くの景色を見つめた。
 その視線の先を、アヒルの親子がとも歩き回り、さらに向こうの野原では牛の親子が草を食んでゆっ
くりとした時間を過ごしていた。
「マリーはペルの髪を梳かしたり、体を拭いてくれたりね。今もぼくにペルに会いに言って来いって送
り出してくれた」
「……そうなんだ。……愛情なんてあるのかな?」
 期待なのか、それとも完全に否定して心のわだかまりを払って欲しいのか、ペル自身もわからなかっ
た。
 スイレイもそんなペルを黙って見守っているだけだった。
「ペル」
 スイレイの呼びかけに、ペルが笑顔で顔を向ける。
「なに?」
「…ちゃんと、戻るよな?」
「……」
「あと2ヶ月したら、子どもは生まれる。そうしたら、……〈エデン〉だけがぼくたちの許された地だ
けれども。現実の世界に戻るよな?」
 ペルにとって、現実の世界はつらいだけの場所だった。
 初めて愛した人が実の兄であり、自分をどんなときに愛して味方してくれはずの母親も、いるとはい
えない。幼馴染で親友であるジュリアは、スイレイをめぐって自分が裏切った存在であり、唯一優しく
接してくれていたジャスティスも、スイレイとのことを知って以来近づいてこようともしなくなった。
それどころか見る目は、監視の目となった。
〈エデン〉にいれば、スイレイと恋人でいられる。誰もペルを色目で見たりはしない。
 それでも、ペルは現実に帰らなければならないのだ。それが最初からの約束だった。
「わかってるよ。ちゃんと帰る」
 ペルはうつむくと悲しいだけの笑顔で言った。
「いられることなら、ずっと〈エデン〉にいたいよ。でも、それはできない。わたしの現実の体ももた
ないだろうし。スイレイとも約束した。これ以上みんなに迷惑もかけられないもの」
 ペルはスイレイを見つめながら微笑んだ。
 スイレイは悲しまないで。責任を感じないで。
 言外でそう伝えてくるペルに、スイレイは口の端にわずかに笑みを浮かべて頷いた。
「あと、……二ヶ月ね」
 スイレイと何の臆面もなく愛し合えるタイムリミットが近づいていた。
「スイレイ」 
 ペルが手を差し出す。
 スイレイはペルの手をぎゅっと握った。
「あと2ヶ月。楽しもうね」
「ああ。そうだな」
 スイレイは気持ちを切り替えるように立ち上がると、ペルの手を引いた。
「散歩でも行こうか」
「うん」
 ペルは明るく頷くと帽子を手に取った。
「どこへ行こうか?」
「子馬が生まれたんだ。森の向こうの広場で。見に行こうか?」
「よし、行こう!」
 リンゴの小道を抜け、野原の横切って小川に沿って歩いていけば、リスがたくさん暮す森があった。
そこで馬の群れがいるのを見つけたのはつい最近だった。
 栗毛の母馬がいたのを思い描き、スイレイと手繋いで歩いていく。
 空はどこまでも青く、柔らかな風に吹かれて花の匂いが漂う。
 ずっとこの光景を忘れない。
 ペルはスイレイの背中を見つめながら思った。
 こんな時は二度と訪れないとしても、きっとわたしは幸せな思いで生きていける。



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