第六章  分かたれた二つの世界




3

 携帯電話を握ったまま、ジュリアは何度も押そうとするボタンに躊躇ったり消したりを繰り返してい
た。
 あのスイレイに不意打ちで会わせようとした事件以来、ペルとは顔を合せていなかった。顔どころか
声さえも聞いていない。
 学校も休み続け、連絡一つしてくれない。
 座った床の上には一枚の通知書があった。
 ジュリアのスッキプ進級を認める通知だった。
 ペルがいるからこそ、特に急いで学校を卒業する理由もなかった。できるだけ長くペルと同じ学生と
しての時間を持ちたかったのだ。
 そしてペルが卒業を一年後に控えたころから、同時に高校を卒業して大学に入ってしまおうと画策し
ていたのだ。
 どれもこれも、ただペルと一緒にいたいがためにしたことだった。
 めでたくジュリアはペルと同時に卒業をつかめそうだった。
 だが希望が通った今、隣りにペルがいなかった。
 驚かせ、ともに手を取り合って喜びたかったペルがいない。
「ペルのバカ」
 不満をぶつけるように机の上に顔を伏せると額を打ち付けた。
 ゴツンという音を立てて、額に痛みが走り、頭の中で脳が揺れる。
 だが気持ちはどこかに向かって終息していく気配を感じた。
 開いた目の前に携帯電話の液晶があった。
 ペルの名前と番号、メールアドレスの載った電話帳の画面が開いていた。
 たた通話ボタンを押せばいいだけなのだ。たとえ不満そうな声でペルが応じたとしても、いつも通り
に話題を振りまきさえすれば、ペルはきっと笑って許してくれるはずだ。きっとそうだ。
 そう思うのだが、ほんの数ミリ押し込むだけのボタンが押せなかった。
「スイレイも電話に出ないし」
 何度電話しても不通で、メールの返事も返ってこない。
 こんなことは初めてだった。
「二人してわたしのこと無視してるのか?!」
 被害妄想で怒りの声を上げてみても、それに浸って二人を責めるほど馬鹿ではなかった。
「もう、いい!!」
 自分で答えの出ない疑問を投げ捨てると、ジュリアはパソコンのラップトップを上げた。
「イサドラ!」
〈エデン〉にジャック・インすべくイサドラを呼ぶ。
「お久しぶりです、ジュリア」
「うん、お久」
 今日はなぜかネコの着ぐるみを着て現れたイサドラに、ジュリアはすっかり毒気を抜かれて笑顔を見
せた。
「なんでそんな格好してるの?」
「かわいいでしょ? 〈エデン〉にクラウドってネコがいてね」
「クラウド? イサドラが名前を付けたの?」
 そう聞いた瞬間、なぜかイサドラの返答が遅れた。
「あ、うん。そう。かわいいトラネコなの。だから真似してみた」
「……ふーん」
 何かの違和感を感じて画面の中のイサドラを見下ろすジュリアだったが、簡単に繕ってしまえるイサ
ドラの顔色を窺うことに飽き、言った。
「ジャック・インする」
「秘密の花園でいい?」
「うん」
 ジャックをこめかみに挿し、いつも通りの手順で〈エデン〉の中に入り込む。
 軽い眩暈のような浮遊感の後で目を開ければ、蔦で覆われた秘密の花園が現れる。
 すでに秋の様相を示した赤く紅葉した蔦の葉が一面を覆い、紫色の実をつけた姿が牧歌的な雰囲気を
醸し出していた。
「ごゆっくり」
 イサドラの声だけが頭の中で響く。
 その声に手を振って答えるとジュリアは花園への扉に手を掛けた。
 その瞬間、背後でした大きく草を掻き分ける音に、ジュリアが振り返った。
 がさがさと揺れる草むらが自分の方へと草を倒して進んでくる。
 ジュリアは花園のドアに背中を押し付けて後退さる。
 一体何? 
 目を見開いたジュリアの目の前に、草を掻き分け一匹の子猿が現れる。
 キキっと鳴き声上げてジュリアの姿を認め、回れ右をすると再び草の中に飛び込んでいく子猿。
「は、なんだ。猿か」
 ほっと胸を撫で下ろしたジュリアは、がさがさと進む子猿の作る草の道を見つめ、何かの悪戯を思い
ついた目で後を追いはじめた。
 その足音に気付いたのか、草の倒れる勢いが早まる。
「あ、待て!!」
 ジュリアも勢いをつけて草むらの中に駆け込むと、膝の高さまである草の中を走った。
 キーという子猿の声が、追跡者に怯えた声を上げていた。
 だがその声が不意に途絶え、草の中に伸びる道が途絶えた。
「え?」
 立ち止まったジュリアが、突然成長を止めた草の道の先を凝視した。
 草一本動こうとはせず、鳴き声も聞こえない。
「おーい、猿君。怖くて蹲ってるのかい?」
 そっと足を進める。だが確実に草が音をたてる中でジュリアは猿の蹲っているだろうポイントに近づ
いた。
 そっと上から草をかき分け、その下を覗き込む。
「あれ? いない」
 そこにはただ湿った土の匂いを上げる大地と草の株があるだけだった。
 そのまま草を掻き分け小猿が通った道筋を見れば、抜け落ちた茶色の毛が小猿の通った証拠を示して
いた。
「おっかしいなぁ」
 首を捻りつつジュリアは草を掻き分けて猿が進んでいったはずの先へと足を進めた。
 そして不意に途切れた草の向こうで、目の前に広がった光景に言葉を無くした。
「……これは」
 目の前に広がったのは真っ赤な花の海だった。
 濃厚な甘い匂いを発しながら、毒々しいまでに大地を覆った赤い花。
 それはかつて自分が〈エデン〉の戒めのためにと花園に植えた花だった。
「……こんなに広がって……。秘密の大麻畑みたい」
 冗談のように言ってみても、心の中で生じる何か禍々しい暗雲に、ジュリアは赤い花の群生から目を
背けた。
 気味が悪い。
 ジュリアはなぜかそう思うと、赤い花に背を向けた。


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