第六章  分かたれた二つの世界




2

――  <エデン>のおける権限に制限を加えます
 返ってきた機械の音声にスイレイは唾を飲んだ。
――  ジュリア
  レベルキングからクイーンへ移行
 つづく確定への確認に、一瞬の躊躇いの後にOKをクリックする。
 スイレイは〈エデン〉の管理システムに書き換えを加えていく。
 画面に指示を書き並べていく。
 レベルクイーン・ジュリアに立ち入りの制限を加える地区を作成
 またレベルキング・ペルの存在を感知させない保護システムの起動
 スイレイは震える息を吐き出す。
 ジュリアがペルの半径1キロ以内に侵入することを阻害
 ペルの姿が視認できぬように、ジュリアに対して透過を選択
 全てを書き終えてOKを押せば、〈エデン〉においてジュリアが決して知ることのできない秘密が出
来上がるのだ。
 これは裏切り以外の何ものでもない。
 だがペルを守るために、自分たちの恋を守るためには、絶対に避けては通れない道だった。
―― 全てを実行しますか?
 迷いを断ち切るように息を飲み、スイレイはOKを押した。
 パソコンを起動したまま、スイレイはベットの上に寝転んだ。
 真っ暗なままの部屋の中で灯っているのはパソコンの青白い光だけで、それがかえって怪しく空気を
発光させていた。
 白い天井に、大きく伸びて歪んだ影が映り、揺れていた。
 スイレイは目を閉じると、ローズマリーとの会話を思い出した。
 病室でローズマリーと、ペルの担当をしてくれている医師に告白したのだ。
 ペルがバーチャルリアリティーの世界にいること。そして妊娠しているゆえに子どもを産むまでは帰
ってこれないことを。
 当然返ってきたのは信じられないという沈黙だった。
「妊娠って誰の子を?」
「……ぼくの」
 返答に眉を釣り上げたローズマリーだったが、それは自分の娘に手を出した男をいさめる目ではなか
った。ただ倫理の壁を越えたスイレイを驚きと興味で眺めただけのことだった。
「つまり10ヶ月はこのまま眠り続けると?」
 医師の反応はいたって冷静だった。ただ事実を確認するように淡々と質問を重ねる。
「いえ、バーチャルの世界での時間の進み方と現実の世界の時間の進み方の間には差があります。現実
時間に換算すれば、出産までの時間はあと7ヶ月ほどだと」
「……ふむ、七ヶ月か」
 腕を組んで考え込んだ医師に、スイレイは口を閉ざして答えを待った。
「バーチャルリアリティーの世界で子どもを産む。なんて非現実的で馬鹿げた話かしら」
 イスの上で身を反らし、立ち尽くすスイレイを半眼で見上げるローズマリーに唇をかみしめる。
 だがその視線の先でローズマリーの顔はあらぬ笑みを浮かべていた。
 異様に輝く目が何かを画策して、どこかを見据えていた。
「本当になんて無謀でおもしろいことをしでかしてくれたのかしら」
 上目遣いにスイレイを見上げたローズマリーの目が怪しく光る。
「……最高の実験になりそうね。協力するわ」
 ローズマリーのその目に隠された本心を見出すことはできなかった。
 ただ求めていた答えは導けた。どこか心からの安堵を得ることはできなかったのだが。
「実験って、マリー。……この子は自分の娘だろう。……相変わらずというか、ますます偏執が助長さ
れたというか」
 医師は信じられないと首を振りつつ、どこかローズマリーの言動にらしさを見出して笑っていた。
「七ヶ月。この病室を確保してやることと、命だけは永らえることができるように協力はできる。だが
それには、彼女の体に無理を強いることになる。当然君たち二人の生活にも変化が起こる。それを覚悟
だというのなら協力してやろう」
 医師はそう言うと、「金はもちろんマリー持ちで」と付け加えてローズマリーの冷たい口の端に浮く
笑み受けることになる。
「よろしくお願いします」
 スイレイは頭を下げた。
 そのときに見たローズマリーの顔とペルの顔が忘れられなかった。
 ただ静かに眠るペルの顔を見つめるローズマリーの横顔。
 まさかペルの言うとおりになるとは思わなかった。
 もちろん思惑が通ったのだから喜ぶべきなのだろうが、どこか釈然としなかった。
『ローズマリーにとってわたしは最高の実験動物。その動物が思惑通りにスイレイの子どもを産む。そ
れがただ現実ではなくバーチャルの世界だというだけよ。絶対にこの機会をふいにするとは思えない。
しかもカルロスに知られることなく自分だけの手柄にできる』
 冷静に自分の立場を分析するペルに、そんなことはないと言ったはずだった。
 だがローズマリーの目に宿った光は、まさしく科学者としての好奇心に他ならなかった。母として娘
を思いやる、心配する愛情は見えなかった。
 スイレイは気分の悪くなる逡巡から意識をそらすと、パソコンの画面をみつめた。
「ジュリアに知られたら、どんな顔するんだろうな」
 ジュリアの怒った顔がすぐに思い浮かぶ。
 何に対してジュリアは怒るのだろう。
 自分の裏切りに対してか? ペルがジュリアへの信頼を示さなかったことか? それとも、自分とペ
ルの背徳の行為にか?
 いずれにしろ、ローズマリーよりもジュリアのペルに対する愛情の方が遥かに大きいだろうとスイレ
イは思った。



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