第六章  分かたれた二つの世界





 揺れる草むらの中から猿の鳴き声が聞こえ、ペルは足を止めた。
 がさがさと勢いよく草が倒れていく。
 そしてそれに続いた声に、足は突然根が生えてしまったのかのようにそこに止められ震えだしていた。
 ジュリアの声。
 そして猿の声を追って草むらの中へと入ってくる音。
 姿が目に入る。
 長い髪を今日はポニーテールにして背中で揺らしながら、楽しげに笑い声を上げて草の波に苦戦しつ
つも走って来る。
 猿がその足音に追いかけられていることを察知して逃げる速度を上げる。
 だがジュリアが不意に追いかける速度を落とした。
「おーい、猿君。怖くて蹲ってるのかい?」
 ジュリアが倒れてできた草の道の中ほどに向かって呼びかけている。
 その様子を、ペルは息をするのも忘れて見守っていたが、浮んだ疑問にジュリアの横顔を凝視した。
 ジュリアはどうしてそんなところで追いかけることを止めてしまったのだろう? いや、追いかける
こと自体をやめたわけではないようだ。草を掻き分けて足を進めて猿の行方を捜している風ではある。
 だがペルの目には草の道は今も尚伸び続けている。そしてパサっと草の中から顔を出した子猿が今、
目の合ったペルに血相をかいて逃げていく。
 ペルは逃げていく小さな子猿の後姿からジュリアへと、胸の前で組んだ手を強く握り締めながら目を
転じた。
 ジュリアが不可解な顔をしながら、草むらの中で猿の姿を捜していた。
 ジュリアがペルのいる方向に向かって歩いてくる。
 ペルの目には、すでにジュリアの顔までもが明らかに見えていた。見間違いようがないほどに、はっ
きりとその姿が目で見ることができる距離だった。
 ジュリアが顔を上げる。
 ペルははっきりとこちらを向いたジュリアに、息を詰めた。なんと言い訳をしたものか。いや、言い
訳はすべきではない。嘘はいずればれる。それならば、嘘は言わなければいいのだ。ただ全てを伝えな
いだけで。学校に行っていないのは、まだ心の整理がつかないから。その整理をつけるために〈エデン〉
で心を癒している。スイレイには会っていない。ただし今日はだが。
 瞬時に様々な考えが頭の中を駆け巡った。その考えの渦を胸のうちに飲み込みながら、ペルはそっと
笑顔を浮かべてジュリアに手を振った。
 だが、ジュリアは全く反応を見せることがなかった。どこか視線もずれていた。
 ジュリアが立ち尽くし、何かを呟くと、眉の間を緊張させ背を向けて歩み去っていった。
「……ジュリア?」
 ペルは〈エデン〉にいる自分をジュリアに見られなくて済んだ安心感よりも、はるかに大きな暗雲と
して立ち込める不安に慄いた。
 ジュリアにはこちらの姿が見えていなかった。
 ではあの緊張した顔はなんだったのだろう?
 ペルはジュリアが見ていたものを確かめようと草むらの中に足を踏み入れた。
 チクチクと足を刺す草を掻き分け、進んでいく。そして視線の先でその草が途絶えた一帯を認めた。
何か草の生生しい香りとは違う甘い香りが漂う。花の、だが確実により濃厚で頭の中が朦朧としてくる
ような媚薬の誘いを含む香り。
 そしてその匂いを発する、地面一面に広がった赤い花に、ペルは勢いよく進めていた足を止めた。
 赤の洪水。
 高い木々で覆われた薄暗い空間と、その花の周りを囲む雑草の囲いの中で、まるで地面に出現した
がん細胞のように、それはそこにしがみついていた。
 見た目が禍々しいのではない。よく見れば細かな花を無数につけた姿は可憐ですらあった。それなの
に、全体としてそこにある姿は嫌悪すべきものだった。まさしく悪魔の撒き散らした死をもたらす誘惑
の結晶のように。
「これは……なに?」
 ペルは立ち去っていったジュリアの後姿を思い出しながら問いかけた。
「これも、ジュリアが?」



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