第5章   OVER THE ……





 ドアを開けて現れたローズマリーに、ジュリアは思い切り顔を不快げに顰めた。
「何?」
 それに気付いてか否か、ローズマリーの顔にも愛想はなかった。
「ペルは?」
「まだ寝てるわ」
「寝てる?」
 今日も学校に行かないつもりなのだろうか? 
 ジュリアはそう問いたいところだったが、目の前の嫌な存在に、これ以上言葉を交わす気分ではなか
った。
 無言のままにかばんからノートを取り出すと、ローズマリーの前に突き出した。
「ペルの休んだ授業のノートだって。ペルの友達から預かってきたから」
 押し付けられたノートを手に取ると、ローズマリーは無表情のままジュリアを見下ろすようにして頷
いた。
「じゃあ、ペルによろしく」
 笑顔は一瞬たりとも交わされることはなかった。
 ローズマリーはドアを閉めると、受け取ったノートを手に、ペルの部屋へと向かった。
「ペル。いい加減に出てきなさい」
 ドアの外で声をかけるが、返ってくる答えはなかった。
 昨日の夜帰宅したときにはすでに眠っていたペルに、ローズマリーは声をかけることはなかった。
 だが食事をとった形跡どころか、何か水分を摂取したあともないことに気付いたのは、ついさっきの
ことだった。
「開けるわよ」
 ローズマリーはドアを開け、ペルの部屋に入った。
 換気のされていない淀んだ空気の中で、ペルが眠っていた。
 規則正しく上下する胸の動きも、子どものような平安な寝顔にも問題はなかった。
 だが、この眠りがもう24時間以上続いているのだとしたら、それは異常だ。
「ペル?」
 ローズマリーはペルの枕もとに立ち、声をかけた。
 だが反応は皆無だった。
 そっと肩に手をかけ揺すってみるが、抵抗一つあるわけでなく揺すられるだけの体が、どこか異常を
訴えていた。
 首に手を掛け、頚動脈に触れる。
 心臓は規則正しく動いている。
 呼吸も正常だ。
「ペル」
 強くその体を揺すったローズマリーは、ふとペルのこめかみにある光に気付いて揺する手を止めた。
 こめかみに刺さった小さなジャックが、起動中を示してピンク色の光を明滅させていた。
 ベットサイドには唸りを上げているパソコンもある。
「……なんなの、これは?」
 その正体も分からないものに手を出すことを躊躇い、ローズマリーはペルの机の上を見た。
 そしてMOディスクをしまってあったであろうプラスチックケースを見つけた。
 その上に書かれた「ペル用」の文字。
「スイレイの字ね」
 ローズマリーはペルの部屋を出ると電話を手にとった。
 数コールで出た相手に告げる。
「スイレイを出して」
 苛立たしげにタバコを口にくわえ、火をつけたローズマリーは電話に出たスイレイに言った。
「ペルに何をしたの? 頭にジャックを挿したまま、もう24時間以上目覚めないわよ。あなたの大切
なお姫様は」




 ピチョンと頬を打った冷たい水の雫に、ペルは目を覚ました。
 最初に目に入ったのは目の前に迫った木の枝に繁った葉と、その先端から今しも落ちて来そうな透明
な朝露の雫だった。
 大きく膨らんで落下した朝露に目を閉じる。
 ペルは自分が〈エデン〉で一晩を過ごした事を思い出し、木の下から這い出した。
 イサドラが案内してくれた低木が広がる草原に、ペルは立っていた。
 遠くに馬が何頭か草を食んでいる。
 大きくを空に向かって手を伸ばしながら、誰に気兼ねするでもなくあくびを漏らす。
「〈エデン〉の朝って気持ちいなぁ」
 呑気に一人呟くと、近くに見えた川まで歩いていく。
 まさしく青く透き通った水の流れに手を浸す。
「冷たい。氷水みたい」
 手の平で梳くって喉を潤す。
 昨日のイチゴ以来何も体に入れていなかったせいか、体に染み渡っていく水がいやにおいしかった。
 冷たい水で顔を洗い、顔を拭くタオルもないままに顔を動物のようにプルプルと振る。
 その頭の激しいゆれに、体が追いつかず、くらりと体が倒れた。
 自分を元気付けるためにしていた大げさな行動が、不自然さゆえに裏目に出た瞬間だった。
 水音高く川の中に手を着いて倒れる。
「……水を弾こうと思ったのに、水の中に落ちちゃうなんて。……バカみたい」
 両手と胸が水に浸かってしまった状態で、ため息をつく。
 だが次の瞬間に笑い出すと、ペルは川の中に顔をつけた。
 底まで見える川の流れの中で、ゆっくりと貝が移動していた。
 水を滴らせながら勢いよく顔をあげ、ペルは水面に映った自分の顔に笑いかけた。
「今日も一日、〈エデン〉で過ごすぞ」



 ローズマリーの連絡で駆けつけたスイレイは、ペルの姿に部屋の入り口で立ち尽くした。
「中に入って」
 ローズマリーに促がされなければ、足が先に進まなかった。
 最後にペルを見てから一日と少しの時間が経過しただけだった。
 だがその間に、ペルの体は明らかに憔悴していた。
 蒼ざめて乾き、上下している胸がなければ死んでいるのかと思うほどだった。
ローズマリーがペルの傍らに立つと、こめかみを晒してペルの髪の毛を寄せる。
「これは何?」
「それは……」
 スイレイはローズマリーに目を合わせないままに起動しているパソコンに近づいた。
 ディスプレイを上げた途端に光を灯したパソコンをローズマリーに向ける。
「ぼくとペルとジュリアの三人で、バーチャルリアリティーの世界〈エデン〉を作り上げました」
「バーチャルリアリティー? あのゲームみたいにコンピューターの中に世界を作り上げていくやつの
こと?」
「はい。ぼくたちの場合は地球を作り上げました。新たに誕生した地球に植物を植え、動物を誕生させ。
そしてジャスティスさんの協力で、実際にその世界に入っていけるシステムも作り上げました」
「それが、これってこと?」
 ローズマリーがペルのジャックを指さす。
 それに頷き、スイレイは画面の中の一点を指差した。
 川岸で何かをしている少女の姿が映っていた。
「イサドラ、画像を大きくして」
「了解」
 画面いっぱいに広がった草原の中の川の映像を、ローズマリーが言葉なく見守った。
 濡れた服を脱いで拾って来た木の棒にかけて干そうとしているのは、明らかにペルだった。
「いったいあの子は何をしてるのよ。遊んでるってわけ?」
 呆れと怒りの滲んだローズマリーの声に、だがスイレイはそれほど安易に安心する気にはなれなかっ
た。
「ペルが自分の意思でジャック・アウトしない限り、たぶん強制で戻すことはできません」
「え?」
 スイレイの深刻な顔に、ローズマリーが眉間に皺を寄せる。
「どういうこと?」
「……継続してジャック・インを続けること危険はペルにだって分かっているはず。それでも帰ってこ
ないということは」
「ペルは〈エデン〉から現実に戻るつもりがないってこと?」
 二人は顔を見合わせると、眠り続けているペルを見た。
 何か手をうたないと、緩慢な自殺へと向かっているようなものだった。
「医者を呼ぶわ」
「……この状況はどう説明するつもりです?」
「……説明しなくてもいい友達の医者を。あなたは何をするの?」
「ぼくは強制切断の方法を探します。なければぼくが直接ペルを説得に」
 無言で頷くローズマリーにペルを頼み、スイレイは家を出た。
 そして携帯電話を取り出すと、電話をかけた。
「カイル? 朝早くからごめん。ちょっと相談があるんだ」



「強制切断の方法?」
 電話口のカイルの口から不穏な空気を感じ取った声が聞こえた。
「なにか問題か?」
「いや、そうじゃない。ただ強制切断とかしたら、どうなるのかなって思って」
「思っただけでこんな朝早くから電話はしてこないだろう」
「……」
 だがスイレイはカイルに真実を話すつもりはなかった。
 話し出すには、あまりに秘密にしていることが多すぎる。
 カイルは〈エデン〉の存在も知らなければ、当然のこと、ペルとスイレイの関係など知るはずもない。
「……話したくないなら聞かないけど」
 カイルの少し落胆を滲ませた声が告げた。
 信頼していることは確かなのだが、〈エデン〉に踏み込んでいいのはペルとジュリアと自分だけなの
だという気持ちが強かった。
 暗黙の了解の中でできた秘密の協定が、三人の中にあった。
 三人だけの秘密の楽園なのだと。
「…ごめん。カイルのことは兄さんみたいに思ってるんだけど、このことには踏み込んで欲しくない」
「わかったよ」
 カイルが電話の向こうで苦笑する。
「俺に何を聞きたいわけ? 答えて上げられる範囲で答えるけど」
「ありがとう」
 スイレイは心の底から感謝を口にすると、状況を説明した。
「ジャック・インしたまま約一名帰ってこようとしない人間がいるんだけど、外部から強制切断するの
は危険?」
 電話機の向こうが沈黙する。
 カイルはジャック・インするための処置をした人間を知っている。
 だから誰が帰ってこないのか、予想はついたのかもしれない。
 だがそのことには触れずに、カイルが言った。
「強制切断は不可能ではないけど、脳に障害の残らない保障はない。パソコンだって突然電源を落とさ
れれば壊れる。人間も、見るという動作一つとっても、目で見えたものだけを見ているわけじゃない。
見たものから脳が発展させた想像の世界の映像も現実としてぼくたちは受け取って生活している。その
感覚はバーチャルの世界でも同じだ。そのバーチャルの世界で見るという機能に、新たに作った神経網
が使用されているだけだ。
 人間は通常なら衝撃で気絶しても、保護処置が働いて脳内のネットワークは保持される。それでも幾
分の記憶は飛んでしまう。
 それが人工的に作った神経網では、どう作用するかは未知数。
 結論から言えば、強制切断は危険。自分の意思で帰ってこさせるしかない」
 ある程度予想はしていた答えではあったが、スイレイは落胆を禁じえなかった。
 思わずため息が漏れる。
「大丈夫か? スイレイ」
 そのため息にカイルが尋ねてくる。
「ああ。大丈夫。ありがとう。助かったよ」
 スイレイは礼を言うと電話を切った。
「連れ戻すしかないか」
 スイレイは家へと戻る足を速めながらも、心の中で重く圧し掛かる気持ちが焦りとともにスイレイの
足を重くする抵抗感を生んでいた。
 ペルと顔を合わせる。
 それは何よりも望んでいることであり、恐れていることでもあった。
 ペルを全て自分のものにしてしまいたい欲望が渦巻く心と、貪欲な自分を嘲弄しそんな思いを抱かせ
るペルを疎ましく思う自分とが同時に存在していた。
 抱きしめてその存在を体で感じたい自分と、メチャクチャに壊してしまいたい自分。
 初めて感じた自分の中の暗部に、スイレイは恐怖しているといっても良かった。
 ペルを目の前にして、自分がどんな反応をとることになるのかを思うと恐ろしかった。
 だが、自分の撒いた種は自分で刈り取るしかないのだ。
 〈エデン〉の創造主であり、ペルにその世界への扉を開いたのも自分なら、ペルとの恋を仕掛けたの
も自分なのだから。
 スイレイは口を引き結ぶと、走りだした。
 どんな結果が待ち受けていようと、今は止まるときではない。できることは全てやってやる。 

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