第5章   OVER THE ……





 空腹に腹がなる。
 ペルは〈エデン〉の中を歩き回りながら、大きな音を立てた自分の腹を抱えた。
「……お腹減ったな…」
 昨日のイチゴ以来、口にしたものといえば水だけだった。
 川沿いに歩いていれば猫のクラウドが教えてくれたイチゴ畑に再び行き当たるのではないかと考えて
いたが、どうやら方向を間違えたのか、行き当たる様子はなかった。
 周りに草は山のように生えているのだが、いったいどれが食べれて、どれが毒なのかという知識がな
い。まして食べられる草が分かったとしても現在のペルでは、それを生で食べるしかない。
 調理に必要な火のおこし方も分からなければ、鍋や包丁もない。
 昨日の決意が脆くも崩れ去りそうだった。
〈エデン〉で生きていく。
 ペルは空を見上げた。
 すずめの群れが高い声で囀りながら飛び去っていく。
 そして草原のあちこちでは馬が草を食んだり、ヤギが歩き回っていた。
 すずめでさえも自分で必要な糧を探し当て、ねぐらを持ち、仲間と生きている。
 それに較べて自分の今の状況はどうだ。
「わたしはすずめ以下か」
 ペルは川まで再び下りていくと空腹を紛らわすために水をのんだ。
「でも大丈夫。人は水があれば1週間は生きられるっていうものね」
 そう言って自分を元気づける。
 だがそれは生身の人間に当てはまることだ。
 自分の考えが詭弁であることは重々承知していた。
 恐らく問題を起こすとしたら、〈エデン〉にいる自分の体ではなく、現実の世界に放置してきた自分
の肉体の方なのだ。
 現実が頭を掠めた瞬間に、気分は酷く落ち込む。
 川面に映った自分の顔が悲しく歪んでいた。
 誰にも見つけられずに放置された自分の体を思い描く。
 からからの干からびた唇が浅い呼吸を繰り返しながら、緩慢に死へと近づいていく。
 そんなおそろしい予想に頭を振って否定する。
 そんなはずはない。
 いくら愛情がないとはいえ、そんなおそろしい事態になるまえにローズマリーが見つけるはずだ。
「わたしは……」
 ペルは思い当たった考えに川面の自分の目を見つめた。
 こんなことをしてローズマリーの、あるいはスイレイの自分への愛情を試しているのだろうか?
 一人で生きていくといいながら、自分を助けてくれる手を期待して、拗ねた子どものように〈エデン〉
に篭って見せているのだろうか?
 ペルには自分の思いが分からなかった。
 現実の世界に居場所がない。
 その身を切るほど恐ろしい事態から逃げ出しただけのはずだった。
〈エデン〉なら自分を迎え入れてくれるはずだと、そう考えて来たはずだった。
 だが自然の掟が全ての〈エデン〉は、ペルが思い描くほど優しくはなかった。厳しい掟の中にある。
人間の思惑が先行した現実世界よりもなんと生き難いところであるのだろう。
 ペルはため息をついてから、自分の考えの狭量さを思い知った。
 人間の思惑がひしめく世界だからこそ、精神がしめつけられて逃げ出した。
 だが人間の思惑の中で整備された世界でしか生きたことのない自分には、自然の掟の中で生きること
もできない。
「結局、わたしなんてどこにも居場所がないんじゃん」
 自嘲の笑いが川面に映っていた。
 皮肉に歪んだ口元が、とても自分の顔だとは思えなかった。
「なんて醜い顔……」
 だがその顔が不意に広がった波紋に散らされる。
 ふと横を見れば、一匹の猫が川面に顔をつけて水を飲んでいた。
 見覚えのある銀トラの模様。
「クラウド?」
 声をかけても無視で黙々と水を舌で掬う姿に、ペルの顔が変化していく。
 無視のクラウドに口を尖らせ、その顔が次第に笑顔へと変わっていく。
 そっと手を伸ばしてクラウドの背中を撫でる。
 柔らかな毛の感触と、砂の上を転がってきたのかザラザラとした砂の感触が手の平に触る。
 水を飲むのを止めて顔を上げたクラウドが、ペルを見上げて「ニャー」と鳴く。その鳴き声が陽気に
「おはよう」と言っているように聞こえる。
「もう、お前は現金なんだから。どうして昨日わたしを置いてどっかに行っちゃったの? どんなに不
安だったか分かる?」
 そんなペルの小言など聞いていないよという態度で、クラウドがペルの足に体を擦り付ける。
 クラウドの頭を撫でてやりながら、ペルはどこか自虐的になっていた自分の心が温かくなっているの
に気付いていた。
 自分が求めているのは、こうした触れ合いなのだ。
 たとえそれがクラウドのような猫でも癒されるくらいに。
 ペルはクラウドを抱き上げると胸の中でその頭を抱きしめた。
「クラウド大好き。友達でいようね」
 クラウドが抗議なのか、それとも肯定なのか、大きな声でニャーと鳴く。
 その声を聞きながら、ペルは笑顔で子どもをあやすように体を揺すった。
「随分と楽しそうだな」
 突然にかけられた声に、ペルはハッと後ろを振り返った。
 そこに立っていたのはスイレイだった。


「スイレイ」
 ペルはクラウドを抱いたまま振り向いた。
 自分の考えに飲まれていたわけではないが、どこかスイレイが迎えにきてくれたことへの喜びがあっ
た。
 自分は見捨てられていたわけはではない、ローズマリーが見つけ、スイレイに相談したのだろう。
 スイレイが〈エデン〉にいる自分を連れ戻しに来てくれた。
 だが、スイレイの顔を見た瞬間に、ペルの淡い喜びは打ち砕かれた。
 見たことのない顔をしたスイレイがそこに立っていた。
 冷たく燃える青白い怒りの炎を宿した暗い目がそこにはあった。
 笑み一つない無表情がペルを見下していた。
 腕の中でクラウドがスイレイに向かって威嚇の声を上げる。
 ペルはそんなクラウドをあやすと、逆立った首筋を撫でながら怯えた目でスイレイを見た。
「随分とお気楽に〈エデン〉を楽しんでいるようだな。ローズマリーやぼくの心配をよそに」
 まるで吐き捨てるように言われ、ペルは息を飲んだ。
 予想していなかったわけではなかった。
 こんな風にして〈エデン〉に逃げ込むことがどんな事態を巻き起こすのかを。
 残してきた自分の体は衰弱への一途をたどるだろうことを。
 だがローズマリーやスイレイの気持ちを考えるまでには至っていなかった。
 スイレイが冷たい目でペルを伏せ目から見上げる。
「ペルは〈エデン〉でどうするつもりだ? 一生をここで送るつもりなのか? 全てから逃げ出して」
「……それは……」
「逃げていても何の解決にもならないっていうのに」
 棘のある言葉に、ペルは口を閉ざした。
 いつもの思いやりに溢れたスイレイではなかった。
 ペルを見下し、怒りに任せた言葉を吐き捨てる。
 青白く血の気を失い、冷徹な表情にまでなるほどの怒りを滲ませたスイレイが恐ろしかった。
「だいたいどうだ? たった一晩〈エデン〉で過ごすのにも苦労した様子じゃないか。猫にでも縋らな
いとならないような弱い精神で、どうやって〈エデン〉で一人で暮らしていくつもりだ。たとえ現実の
自分の体の心配を抜きにしたとしても、〈エデン〉でだって生きてやいけない」
 あまりに真実を言い当てられ、ペルは言い返すこともできずに唇を噛みしめた。
「帰るぞ」
 命令だった。
 強い口調で言い渡された最後通告のような物言いに、ペルは信じられない思いでスイレイを見つめた。
 そして何も言わずに後退さるペルに、スイレイの眉間に苛ついた皺がよる。
「嫌」
 ペルは一言拒否の言葉を口にすると、スイレイの手がペルに向かって荒々しく伸びた。
 だがその手に伸びたのはクラウドの鋭い爪の攻撃と激しい威嚇の唸り声だった。
 慌てたペルがクラウドを抱き寄せ身を翻すも、スイレイの手に鋭い爪が傷を作るのを止めることはで
きなかった。
 腕の中で大きく暴れるクラウドを、ペルは地面に下ろす。
 威嚇の姿勢をとったままにクラウドがスイレイとペルの前から去っていく。
 クラウドに抉られた傷を手で庇って立ち尽くしていたスイレイの手から、血が流れ出していた。
「スイレイ!」
 ペルは駆け寄ってスイレイの手を取ろうとした。
 だがその手を避けるようにスイレイが身を引く。
 伸ばしたペルの手は空で行き場を無くして止まる。
 咄嗟に出た行動にお互いが見つめあい、気まずい空気に目を逸らし合う。
「スイレイは……」
 先に口を開いたのはペルだった。
「もうわたしに触られるのも嫌なんだ。そんなに嫌われちゃったんだ」
 自虐の笑みで語られるペルに震える声に、スイレイは傷ついた手を握ったまま俯いた。
「だったらどうして迎えになんて来たのよ」
 呟きとも取れる小さな声が言った。
「そんなに憎むほどわたしが嫌いなら、死ぬまで放っておいたらいいじゃない!」
 叫びがペルの口から放たれた。
 その頬にスイレイの平手が伸びた。
 乾いた音を立て、ペルは叩かれた衝撃でよろめいた。
 痛みと同時に自責の念に涙が滲んだ。
 スイレイに手を上げさせるほどのことを自分は今口にしたのだ。どんなに頭にきていようと口にして
はいけない言葉を。
 だが分かってはいても、頭に血ののぼったペルには自分を止めることができなかった。
「わたしには、スイレイしかいなかった。母親に疎まれ、最初から父親なんていない。いつだって手を
握ってくれる存在を求めて捜していた。そんな存在を。でも、こんなことになるなら初めから手を握っ
てくれる人なんて現れなければよかった。わたしは手を握られる安心感を知ってしまった。スイレイの
手を取られる喜びを。
 それを今さら奪われるなんて耐えられない」
 ペルは涙を流しながら、スイレイの顔を見つめた。
「世界で一番好きな人に憎まれたら、わたしは何を目的に生きていけばいいの?」
 静かな、だが強い痛みを滲ませた言葉だった。
 スイレイの顔が胸に楔を打ち込まれたように歪む。
「他の何ものを捨ててでも一緒にいたいと思っていた人に、手を振り払われたら、わたしはどこに縋っ
て生きていけばいいの?」
 ペルの頬から止めどなく大粒の涙の雫が流れ落ちていた。
「わたしは、スイレイが言うとおり、誰とも繋がらずに一人で生きていけるほど強くはないんだよ。わ
たしの存在を受け入れてくれない現実世界でも、〈エデン〉でも」
 目には見えない痛みを訴えるペルの言葉に、スイレイはじっとその顔を見つめた。
「それでも、ぼくはペルを受け入れることはできない」
 毅然とした言葉だった。
 なによりも強い拒絶の言葉。
「でも、ペルをこのまま〈エデン〉に放っておくわけにはいかないんだ。このままでは本当に体が死ん
でしまう」
 スイレイが血の滲んだ手を伸ばした。
 だがその手を今度はペルがかわした。
 自分を見つめるスイレイに、ペルが首を横に振る。
「生きていく場所のない現実に戻るつもりはない」
 そういうとペルは虚空に向かって言った。
「イサドラ、わたしを別の場所へ転送して」
「ペル!」
 スイレイが叫ぶ。
 だがその目の前で、ペルの体が掻き消える。
 残ったのは空を切った風の手触りと、全てを見透かすように流れる川のせせらぎだけだった。
 スイレイが拳も握り、叫びを上げる。
「くそ!」
 虚しい叫びが〈エデン〉の中を抜けていった。



 大きな声を上げ、ペルは転送された地面にしゃがみ込んだ。
 呼吸さえもままならない叫びをあげ、地面に倒れ込む。
 スイレイに拒絶された痛みに気が狂いそうだった。
 もうスイレイの隣に立っていられる幸せな恋人になれないことは分かっていた。
 わかっているつもりだった。
 だがスイレイの口からはっきりと言葉にされた瞬間、ペルの頭は真っ白になった。
 もう何も見たくない、聞きたくもない。
 喉の奥に湧き上がってきた恐怖に似た苦しみに、胸が押し潰された。
 その苦しみを涙と一緒に叫びにして流し去ってしまいたかった。
 何も考えたくない。
 だが頭の中に再生されるのは、避けられたスイレイの手だった。
 自分を見ていた軽蔑した冷たい目。
 棘をともなった荒い言葉。
 あんなスイレイを待っていたわけではない。
「どうして、……どうして、わたしには…与えられないの……愛する人も、愛してくれる人も」
 草の顔を押し付け、頭を両手で覆う。
 小さく蹲って世界から自分を覆い隠す。
 こんな世界から消えてしまいたかった。
 まるで壊れそうな自分を癒そうとするように、夢見ていた場面が目の裏に再生される。
 スイレイに初めてキスされた夜。
 肩車してもらったときの湖の景色。
 一緒に乗ったブランコ。
 スイレイの胸の温度。鼓動。
 スイレイの匂い。
 声。
 そして唇の感触。
 何かを求めるように伸ばした手の先にあたった感触に、ペルは顔を上げた。
 柔らかくてふかふかした暖かい手。
「クラウド?」
 イサドラがクラウドのことを転送してきたのだろうか。
 泣き叫ぶペルを心配するようにクラウドがペルの手を舐める。
 そして近づくと、頬の涙を舐め取った。
「クラウド」
 ネコを胸の中に抱き寄せ、ペルはその毛皮の中に顔を埋めた。
 再び溢れてきた涙に嗚咽が漏れる。
 クラウドがペルの腕の中でもがいて抜け出すと、地面を駆け出す。
「どうしてまた行っちゃうのよ!」
 叫んだペルに、クラウドが立ち止まって振り向く。そして側にあった木に登り始めた。
 その様子を見守りながら、ペルは初めて転送された先がジュリアの作った秘密の花園の中であること
に気付いた。
 咲き終わったバラの花が茶色く萎れていた。
 だが夏の始まりの気配に緑がその色を濃くし、濃緑の息を吐き出していた。
 バリバリと音をたててクラウドが登る木は、小さな実をつけはじめたばかりのリンゴの木だった。
 あのとき、初めてスイレイと〈エデン〉に来たあの日、ジュリアと三人で来ようと約束したあのリン
ゴの木。
 ペルはその幹に手を置く。
 なんて変わってしまったんだろう。
 あのときは希望に満ち溢れていた。
〈エデン〉で過ごす時を想像するだけで楽しくて仕方がなかった。次から次へとやりたいことが溢れ出
し、胸が期待でいっぱいだった。
 それからスイレイとの恋が始まり、スイレイの胸に抱かれながら朝日を見たこともあった。
 あの安心感と喜びを、どうしてもう味わえないのだろう。
 なぜ取り上げられなければならないのだろう。
 ただ、親たちの犯した罪の代償として、同じ血が流れているというだけなのに。
 こんなに心は、体は、スイレイを求めているのに。
 ペルはそこで自嘲して口の端に笑みを浮かべた。
 自分はスイレイを求めている。だけど、それはもう、一方通行の思いでしかないのだ。
 スイレイはもう、自分を求めてはいない。かえって疎み、蔑み、嫌っているのだ。
 だれかと繋がっていたかった。
 だれかが自分のことを思ってくれていると思いたかった。
 だれかの一番心にかける存在になりたかった。
 いや、スイレイが唯一愛する存在になりたかった。それだけでよかった。
 だがその願いは永遠に叶わない。
 揺れた木の幹から、小さく青いリンゴの実が落ちる。
 地面に落ち、傷ついた青い実。
 誰にも手に取られることなく、あとはただ朽ちていくだけの実。
 その実を自分とオーバーラップさせ、ペルは立ち尽くした。


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