第5章   OVER THE ……





「あの、ペルは?」
 昨日の今日の後ろめたさがあったが、自分のほうが無神経だったのかもしれないと反省したジュリア
が学校のペルの教室を訪れたのだった。
 目の前を通りかかった女生徒に声をかけた。ペルと話しているのを何度か見かけた相手だった。
「ペル?」
 ジュリアを見上げて、彼女が珍しいものを見る目をする。
 それには不快感を感じたが、ジュリアは物を尋ねている立場を思いその感情を飲み込んだ。
 それに今までの自分の態度も良くなかったのも事実なのだ。
 ペル以外の人間は目に入っていないという完全無視の態度を貫き通してきたのだ。
 ペルと一緒にいるときに彼女が何度か声をかけてきたことがあったが、ペルと彼女が話しだした途端
に、ジュリアは無関心を決め込んでいるか、ヘタしたら席を立ってしまったこともあったのだ。
 その自分が声をかけているのだから、相手にとっては大いなる珍事だろう。
「ペルなら今日、来てないけど」
「来てない?」
「ええ。いとこなんでしょ? だったら様子見に行ってくれない? 無断欠席らしいのよ」
「……」
 昨日のことで寝込んでしまったのだろうか?
 事の顛末は後から来たスイレイに聞いていた。
 自分が無神経にスイレイと顔を付き合わせる状況を作ってしまった。それだけでもペルは随分と動揺
していたのに、ローズマリーの家でも随分とショックなことがあったらしいことは分かっていた。
「ねえ、ペルのところに行ってくれるの?」
 再度問いかけられ、ジュリアは我に返って頷いた。
「だったら持っていってくれない? 今日のぶんの授業のノートとって置いたから」
「うん。ありがとう」
 礼を言ったジュリアを彼女はますます珍しげに見上げた。
 だが次の瞬間にほほえむと、ノートをジュリアの手に手渡した。
「お願いね」
 



「もう子どもじゃないんだから、大丈夫。大丈夫」
 呪文のように囁いた次の瞬間、遠くでした動物の遠吠えにペルはビクっと体をすくめ辺りを見回した。
 鬱蒼と繁った夜の闇に落ちた森の中を彷徨っていた。
 足の下で枝がパキンと折れる音だけでも心臓が飛び跳ねる。
 月明りが明るいことだけが救いであった。
 だが同時にその月明りが影をも強く描きだすのだ。
 風で揺れ動く梢の影だけでもペルを怯えさせるには十分だった。
「子どもじゃないんだから、大丈夫、大丈夫」
 だがそう言うこと自体、闇を恐れている証拠だった。
「クラウド?」
 思いついたようにネコの名前を呼んでみるが、返事があるはずもない。
 もうクラウドはとっくにねぐらに戻って丸くなって寝ている頃だろう。
 その様子を思い浮かべて羨ましく思った瞬間、ペルの頭上で突如大きな羽音と鳥の甲高い鳴き声がし
た。
 その声にペルは我を忘れて悲鳴を上げると走り出す。
 がさがさと大きな音を立てる草音に、まるで追われているような錯覚に陥ってますます森の中を逃げ
惑う。
 その肩を何かが掴んだ。
「いやぁぁぁぁぁ!!」
 あらん限りの叫びを上げて抵抗するペルの腕を確かに人間の手の感触が掴んだ。
「ペル、ぺル。わたしだって」
 半狂乱になっているペルに、イサドラが声をかけた。
 その声に初めてペルは勝手にパニックに陥っていたことに気付いて逃げようとしていた足を止めた。
「い、イサドラ?」
 引きつった顔に涙を浮かべた目がイサドラを見つめ、次の瞬間腰が抜けたようにへなへなと草の上に
へたり込む。
「そんなに怖がる前に、わたしのこと呼べばいいのに」
 イサドラはペルの目線までしゃがみ込むと、蒼ざめた顔のペルの顔を覗き込んだ。
「だって」
 気が抜けたのか途端に涙声になって唇を噛みしめたペルは、ぐっと手の甲で涙を拭った。
「わたしは自分の意思で〈エデン〉で生きるって決めたのに、自分ひとりでは何もできなくて、何かに
依存していないと生きていられない甘ったれで」
 泣きじゃっくリを上げながら言うペルを、イサドラは不思議そうに見ていた。
「依存するっていけないことなの?」
「いけないっていうか、独立できないなんて情けないでしょ?」
「独立していることってそんなに偉いことなの?」
 純粋な子どものどうして? という質問と同じ核心をついてくる問いに、ペルは閉口した。
 だが同時に考えてもみなかった問いに、ペルもしばし考え込んだ。
 独立できた女性は、憧れの的だった。
 仕事もできて、自分の意見もはっきりと言えて、周囲も認める人間。そんな人間は、自分のことは男
の力など借りなくてもなんでもできそうな気がしていた。人に頼るどころか人に頼られる存在なはずな
のだから。
「何でも一人でできる、何者にも頼らない生き方が偉いならさ、人といる必要なんてなくなっちゃうじ
ゃん」
「……」
 さも当たり前のように言うイサドラに、ペルは顔を上げた。
「それは違うよ。独立した人間は、助けてもらうんじゃなくて、他の人を助ける立場にあって、側にい
て弱っている人を助けるんだよ」
 その反論に、イサドラは納得できないという風に腕を組んだ。
「それはどうかな? なんでもできて誰にも頼る必要も感じたことのない人間に、他の人が助けて欲し
い気持ちなんて分かるの? だいたいにおいて、苦しんだことのない人間に、苦しんでる人間の気持ち
なんてわかる? どう助けたらいいのかの前に、助ける必要がある事態なのかどうかも分からないんじ
ゃない?」 
 ペルはイサドラの言葉に返す言葉が見つからなかった。
 確かにそうなのだ。弱い人間だからこそ、弱っている人の気持ちが分かる。そしてこんなときどうし
て欲しいのかが手にとるように分かったりするのだ。そして同時に、その弱さを味わったことのない人
が、なんとも無神経な言葉を吐いて、弱っている人に追い討ちをかけることだって、今まで何度も見て
きたはずだった。
「イサドラ、どうしてそんなこと知ってるの?」
 ペルはまだ生まれて間もないはずのイサドラの年長者のような意見に、目を丸くして見つめた。
「どうしてって、……さっき思ったんだもん」
「どんな風に?」
「この前ね、怪我をした犬を見つけたの。怪我でもし命を落としたとしても、それだって自然の淘汰の
中では重要な仕組みだから、わたしはあんまり手当てしてやったりはしないんだけどね、その種類の犬
が数的にまだ少ない種だって分かっていたから、手当てしてあげようと思って側に寄っていったの。で
もね、怒っていて全然側にも寄れなかった」
「それは、怪我して気が立っていたから」
「うん。わたしだってそう思ってた。でも、今日同じ状況でペルは怪我をしたネコと仲良しになってた」
 見てたのか。
 ペルはあまりに情けない自分の姿をイサドラに全て知られているらしいことに恥ずかしさを覚えて俯
いた。
「ペルを見てて分かった。ペルはさ、痛さを知ってる。怪我をすると痛いってこと。だから怪我してい
るネコを驚かせないように、そっと近づいていってた。でも、わたしは痛いってことがよく分からない。
命の危機だって感じたことなんてない。だから、ただ犬をびっくりさせるような近づき方をしてたんだ。
犬の気持ちなんて考えなかった」
 小さなことから推察を積み重ねていくイサドラを、ペルは感心して見ていた。
 イサドラは真面目な顔で続けた。
「痛いことを知らないと、痛いってどういうことか分からない。苦しいって事も、自分で自分のことが
できない情けない気持ちも、同じ気持ちを味わったことのない人には分からないんだよ。だから助けて
なんてやれない。そうでしょ?」
「……そうかもしれないね」
 ペルは頷くと、肩の力を抜いた。
 ペルが思い描いていた完璧な女の像は、実在しないのかもしれない。
「ペルの言ってる独立した存在って、たぶんわたしみたいなのを言うんでしょ? 〈エデン〉のことな
ら何でも知ってるし、自分のことは自分でやってる。〈エデン〉の管理っているお仕事だって完璧にや
ってるし、美人だし」
 真面目顔で指折り数えているイサドラにペルは小さく笑った。
「いい? 独立しているわたしには、わたしのできることがある。でもわたしにはできないけど、ペル
にはできることがある」
 ペルはイサドラを見上げて頷いた。
「お互いに支えあって生きることで、お互いが自分っていてよかったんだなって思えるんだと思うんだ
よ。だから、人に頼ることだって大切なんだよ」
 イサドラの言いたいことを理解し、ペルは笑顔で頷いた。
「うん。わかった」
 笑顔を見せたペルに、イサドラがよしと頷く。
「夜寝るところくらい、わたしがすぐに見つけてあげるから」
 イサドラはそう言ってペルの手を握ると、先に立って歩き始めた。
 頼もしく成長しているイサドラの背中を見つめながら、ペルは思った。
 わたしにできないことではなく、できることを捜してみよう。
 わたしにできること。
 スイレイのために、ジュリアのために、ローズマリーのために。
 まだ答えは見えなかった。




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