第5章   OVER THE ……





 静まり返った部屋の中を覗き、ローズマリーは眠っているらしいペルの姿を確認してドアを閉めた。
 ため息が出そうになるが、自分にはため息さえもつく資格がないのは分かっていた。だからその息を
飲み込み、眉間によっていた皺を意識的に伸ばすと、冷たい表情で顔を上げた。
 スイレイは女でなければ殴りたいという顔で睨みつけると、出て行った。
 ペルのことを実験動物として可愛がっているわけではない。
 だが母として彼女を愛する資格がないのも事実なのだ。
 わたしは、愛されてはならないのだ。誰からも。
 呪いを振りまく自分は、この世から消え去らなければならないのだ。誰の思いの中にも残らずに。
 座り込んだソファーの上で、腕が震えていた。
「カルロス。あなたの仕込んだ呪いは、誰にも解くことはできないの?」 




「ねえ、どこに行くの?」
 しばらく休んでいたクラウドがのそりと起き上がると、野原の中を移動し始めた。
 ペルはその後を追って歩き出す。
 クラウドは特に走るでもなく、ゆったりとした足取りでペルを先導して悠然と歩いてく。
 野生の動物らしくしなやかな筋肉を纏った体を揺すりながら歩く姿を、ペルは上から見つめていた。
「やっぱかっこいいね、クラウドって。尻尾もまっすぐに長くてさ」
 褒められたのが分かったのか、ピンと張った尻尾を天に向かって伸ばし、クラウドが歩いていく。
 陽は大分傾き、夕焼けがもうすぐ訪れようとしていた。
 その光を受けて輝く毛並みが美しい。
 緑の草の波を受けて歩く夕方の散歩は、ペルの傷ついた心には最高のクスリになりそうだった。
 ペルは薄い雲がたなびく空を見上げてほんの少しここに来る前のことを思った。
 まだ激しい痛みが引き起こされる記憶だったが、それでも考えずにはいられなかった。
 スイレイのこと。
 ローズマリーのこと。
 ジュリアのこと。
 考えなど纏まるべくもなく、ただ走馬灯のようにつらい場面が繰り返されるだけだった。
 だがそんな走馬灯さえも、辛さの繰り返しの中で痛みに慣れさせるという作用があるのだというのだ
から、越えなければならない試練なのだろう。
 ペルは震えるため息で記憶を投げ捨てた。
 まだ考えたくはない。
 その思いを感じとったのか、足元でクラウドが大きく鳴き声を上げた。
 その声に我に返ったペルは、足元のクラウドに目を向けた。そして同時に目に入ったものに声を上げ
た。
「わあ、イチゴ!」
 足元一面に、大きな手の平のような緑の葉が広がり、その下に真っ赤に色づいたイチゴの実が実って
いた。
「クラウド、わたしをココに連れてきてくれたの?」
 クラウドはそんなペルには背をむけ、少し先の川へと歩いていく。
「クラウドは川で魚でも獲るの?」
 悠然と歩いていく背中に声をかけながら、ペルはしゃがみ込むとイチゴを摘み始めた。
 宝石のように光り輝くイチゴの実を手の平に乗せ、陽の光に照らしてみる。
 瑞々しい輝きに満ちたイチゴが手の中で揺れる。
 その光は一瞬にしてスイレイがペルにプレゼントしてくれたチェリーの指輪の輝きを彷彿させた。
 そっとスカートのポケットに手を伸ばせば、今もそこに指輪が入っているのが分かる。
 ペルは熱い火に触れてしまったようにポケットの上から触れた指輪から手をどけると、無理やりに笑
みを浮かべた。
「イチゴ、おいしそう!」
 ポイと口の中にイチゴを放り込む。
 途端に広がった甘酸っぱい味と実と種が弾ける感触に、本物の笑みが浮ぶ。
「おいしい!」
 言ってから川の方を見ると、クラウドが水面を掠めた手で魚を釣り上げたところだった。
「ナイスキャッチ」
 魚を咥えた勇姿を見てくれとばかりにペルのほうを見たクラウドに、ペルが拍手を送る。
「おいしいご飯を食べようね」
 ペルは大きな声でクラウドに告げると、イチゴ摘みに専念した。
 大きく真っ赤に実った実を見つけては、その美しさを眺め、口に入れる。
 こんなにこころゆくまで食べたことはないと思うほどにイチゴをほお張ったペルは、満足げに顔を上
げた。
 いつの間にか本格的な夕焼けを迎えた空がそこにはあった。
 真っ白だった雲が、金色に染まって穏かに流れていた。
「クラウド、ごはん終わった?」
 ペルは生い茂るイチゴの茂みから立ち上がると川の方を見た。
「クラウド?」
 だがそこに銀色のネコの姿はなかった。
 慌ててクラウドが魚を食べていた辺りに行ってみるが、食べ散らかした魚の残骸と鱗が散らばるばか
りで、とうのクラウドの姿はなかった。
「クラウド!!」
 大きな声で読んでみる。
 だが静まり返った〈エデン〉の中で、ペルの声に応える声はなかった。
「……なんで、行っちゃったのよ」
 相手はネコだ。
 もともと群れる性質があるわけではない。喧嘩のあとでペルが側にいるのを許しただけでも奇跡だっ
たのだ。
 まるでペルのためだと思わせるようにイチゴの群生地に連れて来てくれた。だから、ペルはもうクラ
ウドが自分の友達になってくれたようにさえ感じていた。いや、そう思いたかったのだ。たとえネコで
も、自分の存在を認めてくれる相手になってほしかったのだ。
「こんな寂しい夕暮れに、一人ぼっちになんてしないでよ」
 まるで迷子になった子どものようだった。
 全く把握のできない広大な世界に飲み込まれようとしているような錯覚。
 いや、錯覚ではないのかもしれない。
 ペルは川に背を向けて歩き出しながら、思わず浮かんだ考えに両手を自分で抱いた。
 現実の世界でも、ここ〈エデン〉でも、自分には将来が見えはしない。まさしく五里霧中。手を伸ば
した先に何があるのかさえ分かりはしなかった。
 手探りで歩いていくことを、わたしは放棄したのだ。
 〈エデン〉にはそんな忌わしい自分を縛る鎖はありはしないとこの地へ逃げ込んだ。だが、〈エデン〉
でさえ、自分はあまりに無力だった。
 〈エデン〉で生きる。そんなことを言ってはみたが、考えてみればこの後どうしたらいいのかも分か
らなかった。
 現実には帰りたくはない。
 でもネコのクラウドに縋りたくなるほどに、自分はこの世界で生きていく術をもたないのだ。
 帰る家も、寝る場所も、食べるものを見つけることも、何もできない。
 夜の闇がすぐそこまで来ていた。
 だが、ペルには〈エデン〉を彷徨い歩くことしかできなかった。



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