第5章   OVER THE ……


1

「〈エデン〉で生きるってどういうこと?」
 ジャック・インしたペルに、イサドラが不信そうな顔つきで聞いた。
 周りに広がるのは広大な野原だった。
 昼の強い太陽光がやや斜めになり、それでも十分に暑い空気の中を蝉の声が木霊していた。
「どういうことって、言ったとおり。イサドラも友達がいた方が楽しいでしょ?」
「……ずっとここにいるってこと?」
「そうよ」
「……それは無理なんじゃないの? スイレイだって」
 日陰を求めて木の下へと歩きだしていたペルは、スイレイの名に足を止めると、イサドラへと
振り返った。
「スイレイには言わないで」
「え? どうして?」
「知られたくないから。ジュリアにも」
「……言うなっていうなら言わないけど」
「……」
 ペルは納得していない顔のイサドラに背を向け歩き始めた。
 そして一本の大きな木の下に入ると、草の上に腰を下ろした。
 一面に咲いているシロツメクサを摘んで、目の前でクルクルとまわしてみる。
 昔、このシロツメクサで花輪を作って遊んだ覚えがあった。
 あれは、最初にお母さんだと思っていた人と一緒に行った公園でだった。
 ふわっと頭に乗せられた花輪に、どんなに感激したものか。
『ペルはかわいいからお花の精に選ばれました』
 優しい笑顔をしたかわいらしい人だった。
 あの人がお母さんだったらどんなによかったことか。
 あのままお母さんの下で育っていたら、きっと今生きている世界は随分と違っていたのだろう。
 ローズマリーに振り回されることもなく、スイレイに出会うこともなく。
 スイレイではないどこかの誰かに恋をして、幸せに過ごしていたのかもしれない。
 でもそのもしもは存在しないのだ。
「ペル、どうしたの?」
 立ち尽くしたまま聞くイサドラに、ペルは俯いたまま首を横に振った。
「別になにもないよ。〈エデン〉に遊びに来ただけ。いいでしょ?」
「うん、いいけどさ」
 イサドラはペルの纏っている空気の違いに戸惑いを感じているようだった。
 だがまだ人間を思いやる経験値の足りないイサドラには、ペルの抱える感情を知る由もなかっ
た。
「わたし、どっか行ってようか?」
 重い空気に耐え切れなくなったらしく、もじもじしながらイサドラが言う。
 ペルはイサドラを見上げてほほえむと、頷いた。
「……うん。少し、一人にして」
「わかった」
 直ちに空気に溶けるようにして消えたイサドラに、ペルはほほえみを消すと膝を抱えた。
 穏かな陽の光を浴びて、そよぐ風を受けながら眺める野原の光景は、あまりにも平穏に満ちて
いた。
 まるで世界に問題など何一つないのかもしれないと思わせるほどに。
 だが今ここにいる自分の胸の中にはどす黒い悪感情が渦巻いていた。
 誰かを呪いたいと思うほどの苦しさを秘めた黒い渦。
 この苦しさを誰かのせいにしてしまいたかった。
 手の中に触れた草を引きちぎる。
 一瞬で草の匂いが鼻をかすめて行く。
 手を開けば緑の草の汁が滲んでいた。
 草に当たっても仕方がない。
 ペルは草を投げ捨てると寝転がった。
 樹冠の間を縫って煌めく光に目を細め、腕で顔を覆った。
 もう逃げ出してしまいたかった。何もかもから。



 ペルは突然耳に入った嬌声に目をあけた。
 文字通り飛び上がって目を覚ました。
 いつの間に眠ってしまったのか、眠りの落ちていたペルをたたき起こしたのは、甲高い悲鳴に
似た声だった。
 まだ寝ぼけた頭で恐怖だけが湧きあがり、心臓が激しく打った。
 身を伏して辺りを見回したところで、再び高い唸り声がした。
 声の方に目を向ければ、そこにいたのは二匹の向かい合うネコだった。
 銀のトラネコと、シャムネコに似た白い体にチョコレート色の耳と尻尾を持ったネコが向かい
合って唸り声を上げていた。
 少し離れたところにいるのは真っ白いメスネコだった。
 一匹のメスネコを巡ったオスネコの戦いだった。
 尻尾を極限まで太くし、背中の毛まで立たせたニ匹がにらみ合ったまま一定の距離を保って円
を描いていた。
 左右に大きく尻尾を振りながら、盛んに相手を牽制する唸りを発する。
 どちらかといえば、シャム猫の方が優勢なのかもしれない。
 銀トラのネコは耳を伏せ、どこか及び腰になっていた。
 こんなに身近でネコの喧嘩を見るのは初めてだったペルは、息を殺して動くに動けずに見つめ
ていた。
 猫たちの上げる声が一段と大きくなる。
 そしてまるで竜巻が巻き起こったのかと思うほどに、二匹はお互いに絡み合い、回転しながら
舞い上がった。
 バリバリと互いに互いを引っかく音と、抜け落ちた毛が宙を舞う。
 余りに痛そうで、緊迫した空気の中でペルは息を止めた。
 二匹のオスネコが地面に落ちる。
 シャム猫が銀トラのネコの後ろ足を齧っていた。
 そのシャム猫の顔にはひっかれた血の痕があったが、勝負は決したといってよかった。
 二匹が飛跳ねて距離を取ると、警戒して毛を逆立てたまま睨み合う。
 だが次第に距離を取って離れていくと、勝利したシャム猫がメスネコに近づいていく。
 そして負けたオスネコは、尻尾を盛んに振りながらその場を足を引きずりながら去っていくの
だった。
 ペルは去っていくオスネコを見守ると、思わずその後を追い始めた。
 ゆっくりと疲弊した足取りで歩き去る銀トラネコが、自分について来る不信な人間の存在に振
り向いた。
 だが足を止めたペルに、興味も無さそうに再び前を向くと歩きだす。逃げていくという気はな
いようだった。
 やがて木立の側に来ると、その下に身を横たえ。
 荒い息をつきながらぐったりと横たわった銀トラのネコ。
 ペルは少し距離をとってしゃがみ込むと、ネコの怪我した足の傷を見た。
 対して血は出ていないが、齧りつかれた痕がはっきりと見てとれた。
 人間などに比べて遥かに免疫性は高いのだろうが、ペルは心配になって見守った。
 警戒した様子もなく腹を出して横になった姿が、ペルには酷く哀れに思われた。
「喧嘩して疲れちゃったの? それとも負けてがっかりしてるの?」
 声をかけても、特に反応するでもなく寝ているだけのネコだったが、わずかに尻尾を振って答
える。
 その答えは明らかに「うるさい」であった。
 ペルは銀トラのネコを驚かせないように立ち上がると、さきほどの野原にまで戻った。
 少し先に小川が流れていたのを思い出したからだ。
 そこでハンカチを濡らし、ペルはネコの元に戻った。
 頭を起してペルを見たネコだったが、「ああ、おまえか」という顔をするとまた寝てしまう。
 ペルはそっとネコの傍らまで這って行くと、傷口にハンカチを当てた。
 それを嫌そうに足で蹴ったネコだったが、別段怒ることもなく横になっていた。
 拭いたからといってどれだけの効果があるのか分からなかったが、ペルは傷口に付いていたド
ロやゴミを払ってやる。
 そして近くに咲いていた蓬の葉っぱを手で潰すと、その汁を傷口に塗ってやった。
 その汁が染みたのか、ネコはギャっと鳴くと、ペルの手を叩いた。
「ああ、ごめん。痛かった?」
 ペルは自分の手の甲にできた引っかき傷をそっちのけでネコを宥めると、「しょうがないから
許してやる」と目で訴えてきたネコのお腹を撫でてやった。
「おまえ、いつもこうやって一人でいるの?」
 ペルはネコの横に座りこむと、一緒に木立の中で寝転がった。
 わずかに目を開いたネコが、尻尾でペルの顔を撫でる。
 その柔らかな手触りに、ペルは思わず笑顔を浮べ、ネコの頬を撫でてやった。
 途端にゴロゴロと大きな音を立てて気持ち良さそうに首を伸ばすネコ。
「おまえに名前を付けてあげようね」
 ペルは楽しそうにネコの顔を覗き込む。
「さっきの喧嘩のキックは中々よかったからね。ジャンプもすごかったよ。空まで飛んで行っち
ゃうかと思ったもん。うん、空か。空に浮ぶ雲、クラウドってどう?」
 ネコが承諾するように尻尾を小さく揺すった。
「銀色だから、なんだか雨を降らしちゃう雲みたいだけど、いいよね。雨だって大地の恵みで、
雨のあとにはたくさんの植物が芽吹くんだもんね」
 ペルがそう言ってネコ、クラウドの頭を撫でた。
 するとその手を、クラウドがペロリと舐めた。
 手の甲にできた傷を癒そうとしてくれているように、優しい舐め方だった。
「ありがとうね」
 ペルは笑顔でクラウドの額にキスをした。
 だがそれは嫌だったのか、クラウドの肉球のついた手がペルの顔を押しやった。
「なによ、親愛の情だっていうのに」
 ぐっとペルの頬を突っぱねてくる手を、ペルは笑いながら握った。
 細い小さな手だった。
 だがペルが今握ることの出来る唯一の手だった。


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