第四章  掛け違えたボタンは永遠に…… 


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 レンガ造りのマンションの一室の前に立ち、薄暗い明かりに照らされたドアを見つめた。
 心に中で渦巻く感情が何なのか、ペルには分からなかった。
 自分がなぜここに来たのかも分からなかった。
 チャイムを鳴らす。
 そのチャイムに対する返答はなかった。
 留守。そんな可能性は考えていなかった。
 ただ、スイレイと同じ家に帰ることはどうしてもできなかった。かと言って約束どおりにジュリアに
会いに行く気にもなれなかった。
 わたしには行くところがない。
 ペルは小さなハンドバックをギュッと握った。
 この中に入っているのはわずかばかりのお金を入れたお財布と、携帯電話。ハンカチにスイレイに貰
ったビーズのネックレス。
 ハンドバックの布越しのその丸いチェリーの感触が、心には痛かった。
 昨日まではあんなに幸せに輝いて見えたものが、今は雨に打たれた窓の向こうの景色を見るように、
涙を呼び寄せてよく見えなかった。
 指に嵌めていた対の指輪を外すと、手の平の上で眺めてた。
 煌きが、涙で何重にも滲む。
「ペル?」
 そのとき背後から掛けられた声に、ペルは手の中の指輪を握りこみ振り返った。
 ローズマリーが立っていた。




 閑散とした室内は、必要最低限の家具があるだけでまるで生活観がなかった。
 黒とグリーンで統一されたインテリアが、どこか寒々しかった。
「その辺に適当に座って」
 ハンドバックをソファーの上に放り投げ、ローズマリーがペルに言った。
「はい」
 ペルはグラスに水を注いで持ってくるローズマリーを見ながら、フローリングの床の上にクッション
を抱えて座った。
 ローズマリーが水に濡れたコップを差し出す。
「飲む?」
「……はい」
 ペルはただの水の入ったコップを受け取ってから、コップの中の水を飲み干した。
 痛いと感じるほど勢いよく飲んだ水に、少し咽る。
 ローズマリーはその様子をただ黙って見下ろしていた。
「シャワー浴びてきたいんだけど、いいかしら?」
「……はい。どうぞ」
 ペルは涙で腫れているだろう瞼に気恥ずかしさを覚えて俯いたまま答えた。
 ローズマリーが踵を返してバスルームへと消えていく。
 その後姿が完全に見えなくなってから、ペルは辺りを部屋の中を見渡した。
 かつてペルもこの部屋で生活していたことがあった。
 ローズマリーとの生活は、共同生活というよりは、部屋のシェアリングに近かったかもしれなかった。
 ローズマリーはペルのために衣食住を与え、お金も不自由しない程度に与えてくれた。
 だがともに食卓に着いて話をすることも、夕べの一時に談笑するようなことも一度もなかった。
 朝起きると朝ごはんはきちんと用意されているのだが、本人はペルが学校へ行くまでに顔を出すこと
なく寝ていた。あるいは起きていても、シャワーを浴びたあとの脱力した姿でソファーに寝転がってい
た。
 夜もペルが寝るまでに帰ってくることもなく、夜中にトイレに起きて鉢合わせしてもお酒の匂いをさ
せているだけで、声一つかけるでもなかった。
 ペルは「おかえりなさい」と声を掛ければ、とりあえずと手を上げて返事を返す。
 昔中学生のときに家族への手紙を書くという課題が出たときは酷く困惑したものだった。
 何を書いたらいいのかが全く分からなかったのだ。
 ありがとう。その一言でさえ酷く躊躇われて書けなかった。
 あの手紙はどうしたのだろう?
 記憶の中で、埋没していた手紙の行方は思い出せなかった。
 ペルは立ち上がると机の上の小さな鏡を手に取った。
 鏡の中の自分の顔が、明らかに泣いたことを示す腫れた顔で見つめ返していた。
「スイレイと、わたしは……兄妹」
 声に出して言って、酷く抵抗する自分の心にペルは目を背けた。
 信じられなかった。
 信じたくなかった。
 そして不意に悲しみよりも強く怒りが込み上げ、ペルは鏡を机の上に伏せた。
 どうしてわたしばかりが、手に入れた愛情を取上げられなければならないのだろう?
 こんな不条理なことがあっていいのか?
 こんなに幸せから疎外されるなんて、わたしに何の恨みがあるというの?
 ペルは勝手に台所へ入ると冷蔵庫を開けた。
 そして目に入ったビールを手に取った。
 未だかつてペルはアルコールの類を口にしたことがなかった。だが、いまの自分の許容量を越えた辛
い事態に立って、逃げたい一心でビールに口をつけた。
 喉を伝い下りていく冷たい弾ける液体を、目を閉じて飲み込んだ。
 缶から口を離すと、詰めていた息を吸った。
 苦いだけで何がおいしいのか分からなかったが、これで少しでも苦しみから逃げられるなら、いまは
それに賭けたかった。
「わたしにも一本」
 いつの間にかペルの背後に立っていたローズマリーが声が掛ける。
 ペルは振り返ると、下着姿でタオルで髪を拭く姿を見つめた。
 そして冷蔵庫からビールを取り出すとローズマリーに向かって差し出した。
「……」
 無言のままそのビールを手にしようとするローズマリーに、ペルは手を引いた。
 ローズマリーが取り損ねたビールにペルの顔を見る。
 そして怒りに暗く沈んだペルの顔を見た。
「何?」
「物を受け取るときには『ありがとう』でしょ? お母さん」
 ペルの最後の意識的な一言に、ローズマリーが片眉を上げてみせる。
 動揺はなかった。
「お母さん?」
 ローズマリーは最高のギャグを聞いたように笑みを見せると、ペルの手からビールを引っ手繰った。
 缶のプルトップを引いた勢いのいい音を立て、ローズマリーがビールを飲み干す。
 そして満足げに息をつくとペルに向かって両手を開いた。
「かわいい娘と初めての酒盛りが楽しめるのかしら? それともこんな母を持ちたくなかったっていう
お小言を聞くことになるのかしら?」
 ペルはそのローズマリーの態度に、余計に頭に血を上らせる。
 手の中のアルミ缶が音を立てて歪み、泡を吹いて缶の口からビールが溢れた。
「……言うことはそれだけなの?」
「……何を言って欲しいのかしら? 本当は娘としてお前を愛していたのよっていうくさい台詞かしら
?」
 ペルもそんな台詞は期待していなかったが、開き直ったその態度が許せなかった。
 変形した缶を床に叩きつけ、叫んだ。
「あなたのせいよ。何もかも。わたしの幸せが壊れていくのはあなたのせいよ。どうしてわたしの母親
なのよ。どうしてカルロスとの間に子どもなんて作ったのよ。どうして……どうしてわたしがスイレイ
の妹なのよ!」
 絶叫が怒りと悲しみと絶望を乗せて吐き出される。
「どうしてわたしからスイレイを奪うのよ!」
 ペルはそれだけを叫ぶと、床に座りこみ、拳を床にたたきつけた。
「どうして……」
 涙が床を叩いて音を立てた。
 ローズマリーにこんなことを言っても、どうにもならないことはよく分かっていた。
 謝って欲しいわけでもなかった。
 だが言わずにはいれなかった。誰かを責めたかった。
 大きく漏れた嗚咽に、肩が震えた。
 ペルの視界にローズマリーの裸足の足が見えた。
 ローズマリーは何も言わずにペルの頭の上に自分の使っていたバスタオルを掛けた。
 視界がバスタオルの影で暗く落ちる。
 そのままローズマリーは歩き去ると、寝室へと消えていった。
 弁解も謝罪も同情もなかった。
 泣き顔など見たくないとでも言うのか。そこまでわたしに愛情がないのか。
 ペルは身を焦がす闇の感情を吐き出すかのように声を上げて泣き続けた。
 僅かにただよう甘いビールの匂いだけが、ペルとともにあるものだった。




 被せたタオルが穏かに上下をしていた。
 そっとタオルを持上げてみる。
 ペルは泣き疲れた様子で子どものように床の上で丸くなって眠っていた。
 ローズマリーは足元で眠る娘を見下ろしながらタバコに火をつけた。
 暗い室内に赤いたばこの光が灯り、ローズマリーの口から紫煙が吐き出される。
 そして電話機を手に取ると通話ボタンを押した。
「レイリ?」
 ローズマリーは電話の向こうに出た人物に言った。
「ペルはうちにいるから、心配しないで。何かあったみたいだから、落ち着くまでここに置くと思うか
ら」
 ローズマリーは相手の言葉を聞きながらタバコを吸う。
「どうやら本当は誰が親なのかを知ったらしいのよ」
 電話の向こうの人物が沈黙し、ローズマリーがゆっくりと肺の底から紫煙を天井に向かって吐き出し
た。
「あなたにもいつまでも嫌な思いをさせるわね。謝って済む問題ではないでしょうけど。……でもペル
を産んだことは後悔してないの」
 ローズマリーは二言三言相手に言うと、電話を切った。
 そして手にソファーの上に置いておいた薄い掛け布団を手に取ると、ペルの上に掛けた。
 休むためにではなく、何かから自分の身を隠すように小さく身をすくめた姿が布団の下に隠されてい
く。
 ローズマリーはペルから離れると、ソファーに疲れた様子で座り込んだ。
 手にしていたタバコが、長い灰になっていた。
 灰皿でタバコを押し潰すと、長いため息とともにソファーに身を沈みこませた。
 両手で顔を覆う。
 闇に落ちた思考を、溺れかけた人間のように必死に泳いでみる。
 だが答えが出ないことは知っていた。
 もう十七年もがき続けてきた海なのだから。どこにも陸地が見えないことは知っていた。




 ジュリアは帰ってきた父の顔を見て、何も聞かずに頷いた。
 話したのだ。
「ペルは来てないだろ」
「うん」
 ジュリアは手の中の携帯電話を意識して握った。
 何度も電話をしようかと思いながら、思いとどまってきた。
「今はそっとしておいてやれ」
「わかった」
 ジュリアの前を通り過ぎ、自室へと入っていく父の背中が酷く疲れていた。
 どれだけの精神的苦痛を味わってきたのだろう。
 そしてジュリアはスイレイとペルを思った。
 二人の心の傷はどれほどなのだろう。
 全くの赤の他人が、いきなり実は兄妹なのですと現れたとしても、かなりの衝撃であるだろう。自分
の父、母への無条件の信頼、愛情の期待が崩れるのだから。
 だが二人の場合、その衝撃に加えて手に入れた恋人との将来を断たれたのだ。
 ペルは恐らく初恋だっただろうことは予想できた。
 心の支えであったスイレイを失い、無条件に愛情を注いでくれるはずの母親がローズマリーであった
と知ることは、どれだけペルを苦しめることだろう。
 誰からも愛されない、必要とされないと思うことは、どれほど魂に傷をつけるのだろう。
 ペルの支えになってあげたい。だが、スイレイに恋する自分に、どれほどの支えてあげる力があるの
かは分からなかった。
 もしかしたら支える資格すらないのかもしれない。
   

     
「……スイレイ」
 家に着いた途端に、その帰りを待っていたのかのように母レイリが顔を覗かせた。
 明らかに何が起きたのか知っている憂い顔が、リビングの入り口に立っていた。
「……何?」
 平常心を装ったが、その口から漏れたのは酷く暗く重い声だった。
 その声に母の顔にある憂いが強くなり、スイレイは目をそらした。
「今、ローズマリーから電話があったわ。ペルを預かるって」
「……そう」
 ペルの名前に動揺が走りそうになるが、同時に安心もした。
 ペルが一応でもどこかの家に入ってくれたのなら安全だ。
 スイレイは二階の自分の部屋に行こうとレイリの前を通り過ぎようとした。
 その背中に声がかかる。
「……お父さんを恨んでいる?」
「……」
 背を剥けたまま立ち止まったスイレイは何も言えずに立ち尽くした。
 まだ確たる感情が湧いてはいなかった。
 頭も心も、全ての考えるという作業を拒否していた。
「母さんは? 父さんとマリーに裏切られたんだろ?」
 その包み隠しのない言葉に、母から悲しみに濡れた空気が押しよせた。
「……二人は…わたしを裏切ったわけではないわ。…でも人間として正しいことをしたわけでもない
。それに対して正邪の判断をくだすのはわたしではない。神よ」
 いったい父と母とローズマリーの間に何があったのか知らないスイレイには、理解のしようがない言
葉であった。
 今はただ手の中からこぼれてしまった砂のように、失われた大切なもののために心が空虚で仕方がな
かった。
 砂時計の中の砂が滑り落ち、悲しみの色をした空気が代わりに増えていく。
 全ての砂が落ちきったとき、そこにはいったい何が残っているのだろう。それとも空になった砂時計
のように、ただ空虚に過ぎていった時間の欠片だけが残るのだろうか?
 今すぐにでも砂時計を返して、もう一度ペルを手に入れたかった。
 でも時は決して逆転してはくれない。
「…父さんのことは…まだよく分からないよ。でも……哀しいだけだ……全てが不変のうちに続いてい
くと思っていたのにあまりに脆く崩れやすいものの上にあったんだと気付いて。……でもそれは父さん
や母さんのせいじゃないから。……ぼくが弱いから、受け止めきれないだけだから」
 スイレイはレイリをかえり見ると、哀しげに微笑んだ。
「いまはごめん。それしか言えない。明日は、もっと元気になってるから」
 スイレイはそれだけ言うと、二階への階段を上り始めた。
 自分の部屋というシェルターへの道のりを、これほど苦しく感じたことはなかった。


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