第三章   スパイス オブ ラブ 





 朝の朝食で顔を合わせるたびに、ジュリアのさぐるような視線を感じ、ジャスティスはその度に、ま

だ話していないことを示して首を横に振るのだった。
 そのあとに浮ぶジュリアの表情が痛々しかった。
 まだスイレイとペルが悲惨な事実を知らずに住んでいるという一時の安心感と、そのあとを追うよう
にして浮かび上がる嫉妬の感情。自分の知らないところで、二人は何をしているのだろう?
 自然と追い詰められたジュリアの心理状態は、食欲も奪っているようで、ここしばらくの間にまた線

が細くなったように感じた。
 新聞を読む向こう側にジュリアが座るの感じ、ジャスティスは新聞を畳んだ。
 いつものジュリアの視線とぶつかる。
「……今日、スイレイに会いに行ってくる」
「……そうなんだ。今日の夕方ペルが遊びにくるって連絡があったんだけど」
「そうか。……ペルにはまだ伝わっていないタイミングかもしれないな」
「わたしから……言わないといけない?」
 動揺に揺れた目が見つめていた。
「いや、ジュリアが口を挟める領域ではないだろう。普通に振舞ってあげればいい。今までと同じ友達

として」
「うん」
 それもむずかしいことであるのは分かっていたが、ジャスティスはそう言うと、コーヒーに手をつけ
た。
 静まり返った朝の食卓を、食器と食器の立てる硬質な音だけが交わされていた。 




 ジャスティスは自分の母校でもある大学のキャンパスに入り、スイレイが現れるのを待った。
 今はまだ講義中であることは確認済みだった。
 講堂脇の芝生に座り込み、気の重い時の訪れを待っていた。
 ジャスティスは自分の学生時代を思い、大きな木の梢を見上げた。
 妻レイチェルと出会ったのもこの講堂前だった。
 今でもあの時が再現できるほど、ありありとレイチェルとの出会いのシーンは覚えていた。 
 講堂から出てきたジャスティスは、今自分の座る芝生でボクシングの真似ごとをしていたレイチェル

に初めて出会ったのだ。そしてその風を切るすざまじいパンチに見とれてしまったのだ。
 笑顔で楽しそうに汗を拭いながら戯れる女の子の姿に、不覚にもノックアウトを喰らったのだった。
 ジャスティスを振り返ってみたレイチェルが、呆然と見つめるジャスティスに気付くと、拳を構えて
ジャブを打って見せて笑った。
 あの笑顔が全ての始まりだった。
 ジャスティスの青春の一端が詰まった場所がこの講堂だった。
 その時、ジャスティスは女の子の履く靴のヒールの音に目を上げた。そして大学の講堂への道を歩い
てくるペルの姿を認めた。
 明らかに初めて入る大学の光景に、辺りをキョロキョロと見回している。
 ジャスティスはさっと木の後ろに回ると姿を隠した。
 まさかペルが現れるとは思っていなかっただけに、ジャスティスは動揺とともに嫌な予感を感じてい
た。
 この先にあるのは自分が思い描いていたよりも悪い状況なのかもしれない。
 ペルの涙も、二人の間にどうしようもない溝ができる瞬間も、見たくはなかった。
 ペルは身の置き所に困ったような動きで立ち止まったが、レンガの講堂脇の花畑に気付くとそこへと
近づいていった。
 いつもよりもお洒落をしてきたのだろう。長いスカートの裾を膝の下に巻き込みながら花壇の前にし
ゃがみ込むとジッと花を眺めていた。
 その横顔が、幸せに満ちていた。
 ジャスティスはその笑顔を奪いたくはないと心の底から思った。
 ペルの不幸な幼少期を知っているだけに、やっと手に入れた幸せだということもよく知っていた。
 あんなに安心した自然体のペルを見るのは初めてだった。
 花の先に手を伸ばして微笑んでいる。
 講堂の中から人が溢れ出してくる。講義が終わったのだろう。
 その気配にペルが立ち上がると、一心に出てくる人を一人一人見守っていた。
 その顔が笑顔に変わり、手を振っている。
 大勢の学生の群れの中からスイレイがペルへと歩み寄る。
 ジャスティスはスイレイの後ろ姿とペルの笑顔を目で追った。
 スイレイが両手を広げ、はにかんだ笑顔のペルを抱きしめる。
 周りの視線を気にした風なペルも、胸の中にいる自分に問い掛けてくれるスイレイの顔を見上げて、
笑顔でうなずきながら話しをしている。
 幸せそのものの恋人たちの光景だった。
 自分とレイチェルも、かつてこうして会えるその時の幸せを一瞬でも零すまいと、身を寄せ合ってい
たものだった。あの苦しいまでに幸福な時を、二人はやっと手に入れたはずなのだ。
 スイレイとペルが手をつなぐと歩き出した。
 大学構内の広い並木道を歩いていく。
 ジャスティスはその後を追って歩き始めた。
 スイレイが何かを言うたびに、見上げたペルが笑顔を弾けさせていた。
 この先にカフェテラスがあるのはジャスティスもよく知っていた。きっとそこへ向かっているのだろ
う。 
 あそこに入られると、話しづらい状況になりそうだった。
 ジャスティスは意を決すると、足を速めた。
 ジャスティスの目の前で、スイレイの手がペルの頬に伸び、振り向いたペルの唇に顔が寄せられる。
「スイレイ」
 不意に掛けられた声に、スイレイは動きを止めて振り返った。
 ペルもつられたようにジャスティスを振り返った。
「ジャスティスさん」
 ペルが呟く。
 慌てた様子で手を離す二人に、ジャスティスはどんな顔をしたいいのかわからないまま、悲歎にくれ
た笑みで言った。
「二人に話しがある」



 ファミリーレストランの席に向かい合わせで座る。
 俯いたままのペルといぶかしげな目を向けてくるスイレイが目の前に座っていた。
 ウエイトレスの運んできた水を口に運びながら、ジャスティスは目の合ったスイレイに曖昧な笑みを
浮かべてこめかみを掻いた。
 何をどう話しだしたらいいのか分からなかった。
 なるべく二人を傷つけない方法で話を進めたいと、思いはその方策を捜しあぐねているのだが、道は
見えそうになかった。
「……今日は、その…急に悪かったね。二人はデートだったのかな?」
 言いながら墓穴だと思う。
 案の定、目の前でペルが体を硬直させてますます身を縮こませる。
 そしてスイレイの方は、ジャスティスが何を言い出そうとしているのかを思ってジッと目詰めてくる。
 緊張するペルに向かって、机の下でスイレイの手が動く。
 きっと手を握ってやっているのだろう。
 その手が、この後どう動くのかを考えると、冷や汗が出る思いだった。
「あの、ぼくたちに話って」
「うん。実は」
 再びこめかみに伸びた手を見つめ、スイレイが口を開いた。
「あの、バーチャルの世界へのジャック・インで何か不具合があるとかそういうことですか?」
「ああ、いや、違う。あのジャックは完璧だよ。なんだかジュリアもすぐに使いたいって言って、君た
ちのあとすぐに施術したんだよ。〈エデン〉と言ったかな? すごいものを作ったね。いつかぼくもお
邪魔したいんだけど」
 話が逸れていくのを感じながら、その方が楽なせいで話が弾んでしまう。
「ええ。ジャスティスなら歓迎しますよ。でも、あまりこのシステムに介入する人は増やしたくないの
で」
「ああ、カイルには内緒にしておくよ。あいつは結構おしゃべりだからな。あっという間に広まってし
まう。秘密の花園だということだな」
「はい」
 頷くスイレイの横で、ちらりとジャスティスを見上げたペルの視線を感じた。
 警戒の色を含んだ視線。
 今までの不幸な生い立ちゆえに、奈落の底へと落ちようとしている運命の暗部の匂いを感じ始めてい
るのかもしれない。
 ペルの目が考えを巡らせていた。
 なぜ自分までジャスティスの話とやらに呼ばれたのか。
 しかもなぜ、スイレイと一緒にいるところに現れたのか。
 また自分の手に入れた愛情を奪われるのか。
 まさしくその通りだよ。すまない、ペル。
 ジャスティスはあえて感じたペルの視線を無視すると、再び水に口をつけた。
「話っていうのは、……君たち二人のことだ。付き合っているのだろう?」
 なぜもう知っているのだろう?
 そんな表情が二人の顔に浮ぶ。
 その表情が次第にペルとスイレイの間で分かれていく。
 スイレイは、開き直りにも似た挑戦的な目になっていく。
 そしてペルは明らかに嫌な予感に怯えた蒼い顔になっていく。
「それがなにか? 真面目につきあっていくつもりです。もちろんジャスティスさんの姪であるペルの
ことが心配なのはわかりますが、ぼくは大事にしていくつもりですし、一緒の家に住んでいるからとい
って、そう簡単に手を出すつもりは」
「ああ、分かっている。スイレイが誠意を持って接してくれる男であることは。そこを問題にしている
わけじゃないんだ」
 慌てて口を挟んだジャスティスに、スイレイが眉間に皺を寄せる。
「問題?」
 スイレイの目が細まる。
 いつもは温和で物静かな青年に見えるが、やはりカルロスの息子だと、ジャスティスは内心舌を巻い
ていた。
 威圧感が違う。
 自分の行いが糾弾されることを嫌うのだ。
 それが自分にとって非がないと思っているときにはとくに。
 反してペルはショックで見開いた目でジャスティスを見つめていた。
 その目が訴えていた。
 どうか、もうわたしから温かい手を奪わないでと。
 テーブルの下でつながれているだろう手を思って、ジャスティスは胸に苦しさを覚えた。
「ペル」
 ジャスティスは出来る限りの穏やかな声で呼びかけた。
 その声に反応してペルが顔をジャスティスに向けた。
「はい」
「10歳まで育ててくれたお母さんのことを覚えているかい?」
「……はい」
 ジャスティスの言葉一つ一つを吟味するようにして聞きながらペルが答える。
「彼女はぼくやローズマリー姉さんの母違いの姉だということは知っているね」
 ペルが頷く。
 その夫婦が亡くなったために、ペルはローズマリーに引き取られ、数年をともに過ごすことになった
のだ。
「彼女にはなかなか子どもができなくてね。それで養子をとったんだよ」
「……」
 ペルとスイレイが沈黙の中でジャスティスの言葉の真意を探そうと必死になっていた。
「養子?」
 スイレイが先にジャスティスの言おうとしていることに気付いて眉間に皺を寄せた。
「それが……」
「そう。ペルだ。ペルは彼女の子どもではない」
「……」
 ペルはただ目を見開いてジャスティスを見つめていた。
 だがその顔はショックのために蒼白になり、表情さえ失わせていた。
「ペルが養子だというなら、だれがペルを産んだですか?」
 問うスイレイに、ジャスティスが目を向けた。
「姉さん、ローズマリーだ」
「え……マリーおばさん?」
「そうだ」
 ジャスティスは大きく息をつくと、二人の顔をジッと見つめた。
「それから、これから先が大事なんだ。できればぼくだってこんなことは言いたくないんだ。だけど黙
っているわけにはいかないんだ。わかってくれ」
 ジャスティスが鎮痛な面持ちで目線を下げる。
 そして意を決したように目を上げると言った。
「ペルの母親はローズマリー。そして父親は…カルロスなんだ」
「……」
「……」
 眉を寄せた真剣な顔であったスイレイの顔が、急に告げられた予想外の事柄に呆気に取られたものに
変わり、次に笑いへと変わった。
「ジャスティスさん、その冗談笑えないんですけど」
「冗談じゃない」
 スイレイの顔から笑顔が消える。
 そしてテーブルの上に出ていた左手が、ぎゅっと握られた。
「じゃあ、こういうことですか? ぼくとペルは実の兄妹だと」
「……そういうことだ」
「そんな馬鹿な。ならなんでローズマリーがペルを育てずに母さんに託すようなことを。彼女と母さん
は親友だったのでしょう?」
「そうだ。親友だったんだ。だっただ。過去形だ。ローズマリーの裏切りで、二人は親友ではなくなっ
た」
 言い争うジャスティスとスイレイの横で、ペルがガタっと音を立てて身を引いた。
 その拍子にテーブルの上のコップが倒れ、水が床へと滴った。
「…わたしとスイレイが…兄妹?」
 唇まで色をなくしたペルが、スイレイから手を離す。
「ペル」
 スイレイがペルに手を伸ばした。
 だがその手は中途半端な位置で止まる。
 ペルもその手を見つめたまま、蒼白な顔に不釣合いな笑みを浮かべた。
 笑みを浮かべながら涙を浮かべていた。
「わたしは……わたしだけは……スイレイを愛してはいけない」
 中腰で浮んでいた体が、ガクっと崩れる。
 イスの上に落ちた体が震えていた。
 ペルの目から涙が零れた。
「お母さんもいない。お父さんもいない。でも、スイレイがいてくれればいいと思って……それなのに
……」
 呆然自失の中でペルが呟いた。
 涙を流しているのにも気付かずに、焦点を結ばない目がどこかを見つめていた。
 苦しみを閉じ込めた拳を震わせるスイレイが、今までと同じように手を差し伸べられずに俯いていた。
 ふたりの間にできた決定的な溝が、ジャスティスには見えるようだった。
 血という理不尽を湛えた濁流が渦巻いていた。
 それは二人の心から噴出した悲鳴の叫びを伴っていた。



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