第三章   スパイス オブ ラブ 




3

 時間終了を知らせるチャイムが鳴る。
「はい、そこまで」
 教師のその声に、ペルは最後の一言を書き込み、ペンを机の上に置いた。
 テスト用紙に並んだ自分の少し丸い字を眺め、ペルは大きく吐息をついた。
「なに? そんな力入れてたの?」
 後ろからテスト用紙を回収しにきた女友達が声を掛けて来る。
「うん。昨日ちょうど勉強したところが出たから、思わず力入った」
「そりゃラッキー」
 彼女が白い歯を見せて前へと歩いていく。
 昨日の夜スイレイの教えてもらったところがそっくり出たのだ。
 今回のテストの点数が良いとしたら、まさしくスイレイのおかげだった。
「ぼくと付き合いだして成績落ちましたは絶対あってもらっちゃ困るからな」
 この1週間あまり、自分でも経験がないほど必死に勉強したのだった。
 スイレイが綿密に立てた勉強スケジュールもかなり厳しかったが、それ以上にスイレイに教えてもら
った手前、できませんでしたとは絶対に言いたくなかったのだ。
 それにしてもスイレイは、天才的な先生だった。
 スイレイの山掛けしたテスト問題の八割がそのままに出ているのだから。
 この高校の卒業生で、先生の作るテストの傾向を知っているとはいえ、凄まじい的中率だった。
 今受けた生物のテストも、スイレイが昨日作ってきた模擬テストそのものだった。
 問題 遅滞遺伝についてモノアラガイの巻き方を用いて説明せよ
 テスト用紙を見た瞬間に、目を疑ってしまった。
 昨日の夜に舞い戻ってしまったようだった。隣りにスイレイがいるような気がして、これは間違えら
れないと心臓までドキドキしだしたほどだった。
 たぶん完璧に書けた筈だ。スイレイに感謝しなければなるまい。
 ペルは自然に上がっていく口角に、顔を引き締めた。
 そしてかばんの中から一つの封筒を取り出した。
 青い封筒を手の平に乗せ、ペルはそっと大事そうに開いた。
 今日の朝、スイレイが手渡してきたものだった。
『絶対にテストが終わってから読むこと。いいね。テストがんばって』
 出掛けの玄関で言われ、手の中に落とされてから、気になって仕方なかった手紙だった。
 折り目正しくきっちりと畳まれた紙と一緒に入れられていたものが、サラリと音を立てて手の上に落
ちた。
 ビーズを繋いで作った指輪とネックレスだった。
 赤いチェリーが二つ並んだ指輪とネックレスが、窓から射し込んだ光でキラリと光る。
『テスト勉強よくがんばったね。ご褒美だよ。テスト終了後にデートしよう。待ち合わせの場所は地図
に書いておくからね
愛をこめて スイレイより』
「あー、何それ!」
 後ろから覗き込まれている気配に慌てて手紙を畳んだペルに、先ほどテスト用紙を回収していった女
友達がおもしろそうな笑顔でにじり寄る。
「ラブレターだ」
 ウインクしたそばかす顔が、ペルに笑いかけると頬を突いた。
「テストがんばっちゃったのは、彼のためか」
 そしてペルの手に乗った二つならんだかわいらしいチェリーに目をむける。
「手づくりか。マメな男だね。しかも小器用」
 真っ赤な顔をして一言も口をきかないペルに、女友達は笑うと言った。
「着けてあげるね」
 ひんやりとしたビーズの感触が首を伝う。
「うん。よしよし。似合うよ」
「……ありがとう」
 固まったままでいたペルを、斜めから眺めたり、正面から見たりする女友達に照れて言う。
「愛されてるね、ペル」
 まるで大波を頭から被ったような衝撃に心がざわめく。
 愛されている。
 それもスイレイに。
 思わず自分のほっぺたをつねって、その痛さに涙が滲む。
「そんなことしなくたって現実だって」
 女友達が笑っている。
「うん。すごく痛い」
「指輪も嵌めてごらんよ」
 左の薬指と思ってから、思い直して右手の薬指に嵌める。
 小さなチェリーがコロンと揺れる赤い指輪。
 手の平を左右に揺すって微笑むペルの背中を、女友達が気合を入れるように叩く。
「さあ、デートに行っておいで。幸せ者のお嬢さん」
 ペルはその背中の痛みに咽ながらも、微笑むと頷いた。
「うん」
 小さなチェリーが、なんだか肌に当たって熱かった。



 待ち合わせの公園の噴水の淵に座っていたスイレイが、ペルを見つけて手を上げる。
 いつも顔を合わせているのに、外でこうして待ち合わせて会うことが、なんだか新鮮で酷く胸を高鳴
らせた。
「なんだか胸が苦しいんですけど」
 ペルの照れながらも不思議そうに胸に手を当てる姿に、スイレイが笑い声を上げる。
「これは光栄で。そんなにぼくに会うことにときめいてくれるなんて」
 スイレイの手がペルの首に伸びる。
「着けてくれたんだ」
「うん」
 触れてはいないのに、数ミリ先にあるスイレイの手の熱が首に伝わり、ペルが固くなる。
 それに気付かれないようにペルは指輪をつけた手もスイレイに見せる。
「ほら。指輪も着けたよ」
 双子のようにつながったチェリーを揺すって見せたペルに、スイレイは笑顔のまま指輪を抜いてしま
う。
 そして左手を取ると左手の薬指に嵌めた。
「えっと、そっちの指は」
「エンゲージリングを嵌める指」
 異議を唱える隙を与えずにスイレイはペルの手を握ると歩き出した。
「テストね、できたよ」
「そりゃ、よかった」
「スイレイのおかげだね。お礼しなきゃ」
「別にぼくのおかげってことはないよ。ペルががんばったんだし、いつものちょっと要領の悪い勉強法
を修正してやっただけなんだから」
「……要領悪い?」
「悪い悪い。教科書の隅から隅まで覚えようとするなんて、無謀です」
 確かジュリアにも昔言われたことのある台詞に、ペルは苦笑した。
「でもお礼してもらえるのは嬉しいかも」
 スイレイは一人頷きながら、ペルを引き連れてレンタルの自転車店に入っていく。
「自転車でどっか行くの?」
「そう、ぼくの秘密の隠れ家」
 二人並んで自転車を引きながら店を出ると、ペルは公園の木々の向こうに見える空を見上げた。小鳥
のさえずりが新鮮に耳に響く。
「サイクリングか。実はわたし初めてかも」
「勉強で鈍った体にはちょうどいい運動だろ」
 自転車を颯爽とまたいだスイレイが先に漕ぎ出す。
「ちょっと待ってよ。わたし、運動神経ないんだから」
「でも自転車に乗れないなんて言わないだろ?」
 立ちこぎで進んでいってしまうスイレイが後ろを振り返りながら叫ぶ。
 ペルは大慌てでヨタヨタしながら自転車を漕ぎ出す。
 ひとまず久しぶりだったが自転車は走り出す。
 少し向こうで止まって待っていてくれるスイレイに向かって、ペルも立ちこぎでペダルを踏み込んだ。
 たちまちスピードに乗って、顔を気持ちのいい風が撫でていく。
 自然と笑い声が口から出た。
「気持ちいい!!」
 髪が風に靡き、木々の間をすり抜けてきた風が緑の匂いを鼻先に届けてくれる。
 ペルはスイレイの横を通り過ぎてもスピードを緩めなかった。
 今まで聞いたことがなかったような元気な笑い声を上げて、ペルがスイレイの横を通り過ぎていく。
「ペル?」
 見送るスイレイの先で、両足をペダルから離して足を広げているペルがいた。
 並んだレンガにガタガタ揺られながら、ムリに声を出して震える声にはしゃいでいる。
「まるで子どもだな」
 スイレイは後を追って走り出すと、ペルと一緒になって雄たけびを上げながらレンガの上を走ってい
った。
 そのスイレイに、ペルが笑い混じりの悲鳴で逃げていく。
 いい年をしてはしゃぎまくる二人を、周りを行く人たちが見ていた。
 だがその人たちの顔にも、笑顔が浮かぶ。
 木々の間を抜けて射し込んだ太陽の光に照らされ、ペルとスイレイの笑顔が輝いていた。



 走り抜けた森の先にあったのは、紅葉に色づく湖だった。
 子どもの手のように広がったカエデの葉が、色とりどりに染まって落ちていた。
 ペルはそれを拾っては自転車のかごの中に集め、すでにカバンが見えなくなるほどにたくさん集めい
れていた。
「そんなにたくさん集めてどうするの?」
「だって、みんな色が違ってすごいきれいでしょ。どれ一つとっても同じじゃないんだよ。感動しちゃ
うよ」
 言いながら、ペルは道を横切っていったリスに声を上げる。
「ああ、リスだ!」
 色づきだした木々を水面にうつした湖面を、カモの親子が優雅に泳いでいた。
「ねえ、スイレイ。ちょっといい?」
 自転車を並んで押して歩いていたスイレイに声を掛けたペルは、スイレイの返答を待たずに、自分の
カゴの中を埋めていた紅葉した葉をスイレイのカゴに移した。
 たちまちスイレイの自転車のカゴが葉っぱだらけになる。
 そうしておいて、ペルはカバンを開けると、いつも持ち歩いているスケッチブックと色鉛筆を出した。
「ちょっと、いい?」
「どうぞ」
 笑顔で応じてくれたスイレイに笑みを送り、ペルは湖面の側にあった岩の側まで歩いていった。
 その岩の上に座り込むと、たちまち集中して絵を書き始めた。
 スイレイは自転車の道の隅に立てかけると、そっと後ろからペルに近づきスケッチブックを覗き込ん
だ。
 水面を軽やかに泳ぐ、カモの親子を描こうとしているのが分かった。
 スイレイはペルの邪魔をしないように、下草が沢山生えた木の下に座り込むと、ペルの背中を見つめ
た。
 小さい背中が、今は世界に浸透して溶け込んでいるように見えた。
 ペルは世界に対して抵抗する異分子ではなく、共に手を取り合っている地球の友達なのだろう。
 自分よりもはるかに小さくて、守ってやらないとならない弱いものに見えながら、自分よりもはるか
に強いものを持っていそうな背中だった。
 スイレイは座り込んでいた地面に目を向け、そこかしこにどんぐりが落ちているのを見つけた。
 その一つを手に取って見る。
 茶色に傷なく光るそれは、なんともキレイな楕円形をしていた。
 指で撫でると滑らかな表面がつるつるとして気持ちがいい。
 何とはなしに、さっきまで葉っぱ集めに余念のなかったペルの気持ちが分かる気がした。
 一つ、二つと集め始めるうちに、いろいろな形につい夢中になる。
 スイレイは自転車まで取って返すと、ペルの集めていた葉の一つとカバンを持ってどんぐりのところ
まで戻った。
 そしてそこら辺に落ちている木の枝とどんぐり。そしてペルの拾っていた赤い葉を組み合わせ始めた。
 夢中になって木々の下を這いまわったり、木の枝を見上げてめぼしい物を捜す。
 そして見つめた赤い木の実や、透明な石に顔を輝かせる。
 カバンの中の文具入れの中から接着剤を取り出し、くっつけ始める。
 すっかりペルの存在など忘れて作り続けていた視界を、影がさして初めて顔を上げる。
「何やってるの?」
 ペルが、スイレイが始めていた工作教室をおもしろそうに見下ろしていた。
「ちょっとね。どんぐりがいっぱい落ちててさ」
「それでリスと一緒になって遊んでたんだ」
 ペルに目線で示されて振り向けば、スイレイが集めておいたどんぐりを、リスの一匹が掠め取って食
べていた。
「それ、ぼくが集めたんだけど」
 そう文句を言えば、まるで「ケチ」と言うようにチチっと鋭くないたリスが去っていく。
「かわいくないな」
 口を尖らせるスイレイに、ペルが笑い声をもらす。
「で、そっちはいい絵が描けた?」
「うん」
 ペルは微笑むと、スケッチブックを差し出した。
「見ていいの?」
「うん」
 ペルはスイレイの前に座り込むと、感想を待ってますとばかり見つめてくる。
 スイレイはスケッチブックを開いて、一枚づつを捲っていく。
 軽やかな色合いで描かれていていながら、どこかペルの描くものの予想を裏切ってしっかりとした太
い線で描かれた絵がそこにはあった。
 緑色の湖面を仲むつまじく泳ぐカモの親子は、まるでその柔らかな毛が手で触れそうだった。
「うん。うまいな。ペルの優しい視点がよく出てるよ」
 そう言いながら、次のページをめくったスイレイは、そこに描かれていたものにペルの顔を見上げた。
 ペルがニコニコと満面の笑みで見つめていた。
「これ、ぼく?」
「そう。必死にやってる姿がかわいいなって思って」
「かわいい?」
 確か絵の中の自分はまるで子供のような好奇心に上気した赤い顔をしていた。
 手の中のどんぐりに夢中で、後ろで隙を伺っているリスの存在になど気付いていない様子が描かれて
いた。
「こうして見ると、なりがでかくなっただけで、子どものときとちっとも変わってないのかもしれない
な。ちょっと情けない」
「なんで?」
 ペルはスケッチブックを手に取ると、スイレイの足元に転がっていたどんぐりの一つを手にして手の
平で転がした。
「そんな何にでも一生懸命になっちゃう夢を持ったところが、わたしは好きなんだけどな」
 言ってから照れているペルに、スイレイはありがとうと笑う。
 そして作っていたものをペルに手渡した。
「はい。これはブローチになるかなって思ってね」
「キレイだね。森のブローチだ」
 ペルが自分の服の胸に当てて見せる。
「あとでキレイに加工したらペルにあげるね」
「ありがとう」
 手に帰ってきたブローチを見つめながら、スイレイは思った。
 ペルとは、こうやって自分たちが過去にし残してきてしまった貴重な時間を再現しながらゆっくりと
付き合っていけるのかもしれない。
 急速に燃え上がる恋心ではないけれど、ペルといると酷く心が穏やかになっていた。まるでペルは荒
れた海でも凪に変えてしまう力があるかのように。
 スイレイはペルの手を引くと、胸の中に抱きしめた。
 そして背中から抱きしめるようにして、ふたりで湖の景色を見つめていた。
 ペルの頭を顎の下において、スイレイは幸せな気分で湖を見つめた。
「でっかい熊のぬいぐるみ抱いてるよりも気持ちいいな」
「熊のぬいぐるみ?」
 ペルがおかしそうに笑うと、下からスイレイの顔を見上げた。
「ぬいぐるみなんて持ってるの?」
「こう見えて結構かわいいものは大好きなんだ。小さいときは毎日くまのプーさんと一緒に寝てたし」
 ペルの体が笑いにともなって揺れる。
「ペルは?」
「わたしはぬいぐるみと寝たことないよ。結構早くから一人で寝なさいって躾けられたからね。初めて
一人で寝た夜のことはよく覚えてるよ。
 窓の外を車が通り過ぎるたびに天井を影が長く動いていくんだよね。それが怖くてね。ギュッと目を
閉じているのに、車の音に目を開けてまた影が動くのを確かめちゃうんだよね」
「ぼくはひたすらプーさんに抱きついて目を閉じてただろうね」
 思わぬスイレイの告白がペルにはおかしくてしょうがなかった。
「ペルは小さいときに遣り残した悔いってないの?」
「遣り残した事?」
 ペルが小首を傾げる。
 そうしながら、自分の前に組まれているスイレイの手を取ると、自分の手の代わりに動かして遊びは
じめる。
「う〜ん、あのね、お父さんに肩車して欲しかったかもしれない。一度も経験ないんだ、肩車。どんな
かんじかな?ってたまに想像するんだ。グラグラして怖いのかなとか、お父さんの頭に掴まって楽しい
だろうなとか」
「肩車か……」
 スイレイが悩みはじめる。
「……何悩んでるの?」
 スイレイの手を猿の人形よろしく叩き合わせて遊んでいたペルは、急に立ち上がったスイレイにその
手を離した。
「おいで」
 手を引かれて立ち上がったペルは、スイレイが怒ったのかと思って言い訳をした。
「別にスイレイを猿だと思ってるわけじゃなくて、頭の中にシンバルを抱えて叩く姿が思い浮かんで
……」
「猿?」
 何を言われているのか分からないという顔で振り返ったスイレイの顔は、ある決意を浮かべながら笑
っていた。
「ぼくがペルの夢を叶えて上げましょう!」
「え? 夢って肩車のこと?」
「そう」
 スイレイがペルの前で身を屈める。
「ちょっと、スイレイ、わたしの今の体重知らないでしょ? スイレイの首が折れちゃうよ。そんなこ
とで死んじゃヤダよ」
 スイレイが身を屈めたまま、ペルの言葉に笑う。
「確かに子どもよりは重いと思うけど、首が折れるほどじゃないよ。大丈夫だって。ほら」
 頑固に座り続けるスイレイに、ペルは躊躇いつつもその首を跨いだ。
「ちゃんとバランス取って落っこちないでよ」
「う、うん。スイレイもムリしないでよ」
 ペルがそう言っているうちに、スイレイはペルの足を抱えると、立ち上がった。
「うひゃ〜〜!」
 変な声を上げながら、ペルがスイレイの頭にしがみ付いた。
「前が見えませんが」
 スイレイの声に目を開けたペルの視界が、今までと全く異なっていた。
「空……飛んでるみたい」
 ペルが抱え込んでいたスイレイの頭から手を離して両手を広げた。
 スイレイもペルのためにその場で一回転してみせる。
 それだけでペルがこどものように笑い声を上げた。
「空が近いよ。風が気持ちいい」
 ペルはスイレイの肩の上で湖の向こうに沈んでいこうとしている太陽を示した。
「見て、湖の水に溶けてくみたい」
 黄金が水に溶けているように、湖がオレンジ色に染まり、風を受けて揺らめいていた。
 スイレイはペルを下ろすと、夕日に染まったペルの頬にキスをした。
 ペルがスイレイを見上げて笑う。
「この続きは〈エデン〉でね」
 意味深に笑うスイレイを赤い顔で見つめたペルだったが、からかわれていると気付いてその腕を叩い
た。
 だがすぐに叩いていた手が、手をつなぐために伸ばされた。
 手を繋ぎ、スイレイの肩に頭を寄せる。
「スイレイの首が折れなくてよかった」
 心の底から安心したように言うその声に、スイレイは苦笑いを浮かべるのだった。





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