第三章   スパイス オブ ラブ 





 コーヒーの香ばしい香りが漂ってくる。
「本当に久しぶりね、ジャスティス。ジュリアはよく遊びに来てくれるけど、あなたの顔を見るのはい
つ以来かしら?」
 トレーにコーヒーカップを載せて、レイリがソファーに座るジャスティスに話し掛けた。
「はい、どうぞ」
「すいません。急に来て」
「いいえ。もっと遠慮しないで来て欲しいわ。カルロスはあの通りの人で、一向に家には寄り付かない
し、子どもたちも成長してしまって、わたし暇なんですもの」
 レイリの入れてくれたコーヒーを啜りながら、ジャスティスが微笑む。
 だがその笑みの下で巡らされていたのは、どう話を切り出そうかと迷う惑いだった。直接レイリに話
して聞かせられるような話題ではなかった。
 なによりもレイリの昔の傷を掘り起こすようなことはしたくなかった。
「ローズマリーは元気?」
 ジャスティスの思考を読んだかのように不意に出された姉の名に、ジャスティスは思わず頬を強張ら
せた。
「ええ。相変わらず、何を考えているのか、弟のわたしにも分かりかねますがね」
「あら、そんなことを言ってはダメじゃない。血を分けた唯一の弟なんだから、姉さんの気持ちを汲ん
で理解してあげないと」
「……それは随分とむずかしい注文です」
 苦りきった顔で言えば、レイリが微笑む。
「今でも、ローズマリーはわたしの親友よ。わたしはそう思ってる。彼女はどうか分からないけど」
 どこか遠い目をして語るレイリに、ジャスティスはかける言葉もなかった。
 これまでの出来事の中で、一番の貧乏くじを引いたのが、レイリだったのかもしれない。
 夫に裏切られ、親友にも裏切られ、そしてその結果としてこの世に生を受けたペルの面倒を見ること
まで押し付けられたのだから。
 それでも彼女は文句一つ言わずに、淡々となすべき義務を果たしている。
「ペルは」
 口に出してから、ジャスティスは続けるべき言葉を見つけられずに視線を泳がせた。
 レイリの視線が自分の顔にあるのを感じながら、ジャスティスはその顔を見ることができなかった。
「ペルね。この前わたしにはじめてお願いしてくれたのよ」
 不意に楽しそうに言ったレイリに、ジャスティスが顔を上げた。
「あの子は本当にかわいそうな境遇にあったわ。いつも遠慮して、言いたい事の半分も言えないで心を
押し潰していた。それがジュリアやスイレイと係わるなかで随分代わってきたわ。わたしにね、バレエ
を教えて欲しいって言ってきたの」
「バレエを?」
「ええ。スイレイの部屋でわたしの昔の写真を見たんですって。トウシューズをはかせてあげただけで
もう、目を輝かせてね。あの子がわたしの娘になってくれたらなって、本当に心底思ったわ」
 レイリの思いやりに溢れた顔が、ジャスティスにはありがたくも痛いものだった。
 レイリは慈悲の心に溢れている。だが、そこに自分を律して血を流すような過程があったことも確か
なのだ。
 ペルに対する思いが複雑であるのは仕方のないことだった。それでも、母親のように自分の子どもと
分け隔てなく接するのは、どんなに苦しいことであったろう。
「レイリの、あの衣装をつけて輝く姿を見て、憧れない女の子なんていないでしょう」
「ジュリアにも教えたことがあったわね。あの子は筋がよかったから、続けていたらきっと名プリマに
なったでしょうに」
「ははは、ジュリアが名プリマに? プリマになるには少々あの性格が傷ではありませんか?」
「バレエも勝負の世界だから、あのくらいの強さが必要なのよ。あの性格も含めて才能よ」
 わかってないわねと視線で言われ、ジャスティスは苦笑した。
 ジュリアも随分とレイリの世話になってきた。そういう意味では、レイリはスイレイの母であり、ジ
ュリアやペルの母親としてもあってくれたのだ。
「ジュリアの入院のときも、おろおろするわたしに代わって、レイリには随分お世話に」
「いいのよ。男親とはそういうものでしょ? ジュリアは元気になったかしら?」
「ええ。前にも増して、わがままになって手を焼いてます」
「甘えてるのよ、大好きなお父さんに」
 レイリの聡明な目に見つめられると、自分も悩んでいた物が浄化されて癒されていくような感覚にな
る。
 一つしか歳の違わないレイリが、なんとも大きな器に見えた。これが母親の大きさなのかもしれない。
「スイレイは、元気ですか? 大学に入るまでは随分と父親の跡を継ぐか悩んでいたようですが」
「ええ。今は吹っ切れたみたいですよ。毎日楽しそうにしているもの。あの子ももう、来年で成人ね。
早いわ」
 感慨深げに言うレイリの顔を見ながら、ジャスティスは言おうとしていた話題を切り出した。
「今スイレイは?」
「さあ、二階の自分の部屋にいると思うけれど、どうかしらね? スイレイにご用があったのかしら?
」
「まあ、ちょっと話したいことがね。それとレイリの美しいお顔を拝見に来たのですが」
「まあ、お世辞でも嬉しいわ。呼んで来ましょうか?」
「いえ、部屋に顔を出してもいいですかね?」
「ええ。構わないと思うわ。ペルの部屋と言われると止めるけれども、男同士なんですから、遠慮はし
ないで」
 ジャスティスはレイリにコーヒーの礼を言うと、ソファーから立ち上がった。
 そしてスイレイの部屋へと階段を上がって行った。
 静まり返った二階からは、物音一つ聞こえなかった。
 時計を見れば、まだ10時だ。
 勉強でもしているのだろうか?
 ジャスティスはスイレイの部屋のドアをノックする。
「スイレイ? いるか?」
 だが返答はなかった。
 視線が、廊下を曲がった先にあるペルの部屋のドアの前へと向かう。
 まさか、あの部屋にいるということはなかろうが……。
 いやな想像から意識をそらし、ジャスティスはそっと部屋の中をのぞき込んだ。
 電気は煌々とついていた。
 そして、勉強をしていた形跡を残す机の上には教科書とノートが広げられていた。
 だが当の本人は、ベットの上で身を投げ出して熟睡の只中にあるようだった。
 あどけない寝顔でまどろむ姿に、ジャスティスは思わず笑みを浮かべた。
 体はもう自分よりも大きいが、昔と変わらぬ寝顔だった。
 ジャスティスはそっとドアを閉めると、階段を下りていった。
「あら、スイレイは?」
 あまりに早く階下に戻ってきたジャスティスに、レイリが言った。
 ジャスティスはそのレイリに苦笑してみせる。
「寝てた。無防備に熟睡してたから、またにするよ。起すのはかわいそうだ」
「あの子ったら、昔からよく寝る子だったけれど」
 レイリは時計を見て、まだ早い時間であることに困った笑顔を見せた。
「疲れてるんでしょ。テストが終わった時期だし」
「そうね。わざわざ来てもらったに、悪かったわね」
「レイリの顔を見に来たって言ったでしょ」
 ジャスティスはレイリに別れを告げ、カルロス邸を後にした。
「明日にでもスイレイの大学に顔を出すかもしれないと言っておいてもらえるかな?」
「ええ、分かったわ」
 何でも受け入れてくれそうなレイリの顔を見ながら、自分がスイレイとペルに言おうとしていること
を話してしまいたい感情にも駆られた。
 だがそれが自分のすべきことをレイリに丸投げすることに他ならないことはよく分かっていた。
 これは自分が果たすべき仕事なのだ。たとえどんなに鋭いトゲに覆われたイバラを掴むようなことで
あっても。
 それなのに、また嫌なことを告げるべきときを先送りしてしまった。
 ジャスティスは黒い雲に隠されえていく月を見上げてため息をついた。
 先送りしたぶん、今夜一晩、ふたたび傷つくスイレイの顔を思い浮かべながら悶々とする夜が追加さ
れたのだ。
「姉さん、恨むからな」
 暗雲垂れ込める夜空を睨んで、ジャスティスが呟く。
 その呪いがかかったように、月がスッポリと雲に隠された。
 闇が濃くなる。
 まるでジャスティスの先には、光は全くないかのような錯覚が襲っていた。 




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