第三章 スパイス オブ ラブ
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まだ宵の口で帰ってきた娘の気配に、ジャスティスは居間で読んでいた本から顔を上げた。
いつもなら聞えてくる「ただいま」の声もなく、二階の自分の部屋に上がっていってしまった気配に、
ジャスティスは本を閉じた。
どんな時間になろうとも、一日一回は顔を合わせて話をすることが習慣化しているジャスティスの家
だけに、すぐに部屋に上がってしまったジュリアに何かあったことはすぐに知れることだった。
ジュリアのために買っておいたケーキの箱を片手に、ジャスティスはジュリアの部屋へと階段を上が
っていった。
「ジュリア?」
ノックとともに掛けた声に、反応が返ってこない。
「開けていいか?」
「ダメ!」
ジュリアの声が鋭く言った。
だがその声が苛ついているのではなく、涙で詰まった声であることはすぐに分かった。
「どうした? なにを泣いてるんだ?」
「何でもない」
「まさか手術の痕が痛いのか?」
急に思い至って焦った声に、ジュリアが慌てて答える。
「違う!」
「じゃあ、どうしたっていうんだ? スイレイのところに行ってきたんだろ? スイレイと喧嘩でもし
たのか?」
「……」
戸口でジリジリとしていたジャスティスは、だが諦めて階下に下りていく気はさらさらなかった。
今までも、頑固で気に食わないことがあると部屋に閉じこもるジュリアと二人、すごしてきたのだか
ら。
「ジュリアのためにケーキ買って来たんだけど」
「いらない」
「そんなに即答で断るなよ。ケーキ、10個もあるのに、お父さん一人じゃ食べれないよ。大喰らいの
ジュリアにはケーキ8個で、お父さんは2個って計算して買ってきたのに」
「一人で8個も夜中にケーキ食べる女がどこにいるのよ!」
「……ジュリアもそんなこと気にする年になったのか。まさか、ジュリア、デブとか言われて泣いてる
の? そんな心配どこにもないだろ? ジュリアのは母さんと同じで出るとこ出て引っこむとこはキュ
って絞れたダイナマイトボディなんだから。母さんのステキな体を遺伝でもらえてことを感謝こそすれ、
悩むなんて……」
ドアに顔をくっ付けて熱弁していたジャスティスは、突如開いたドアにしたたかに顔を打ち付けた。
「うわあたたたたあ」
ゴンという大きな音と、押し潰された鼻の痛みに、ジャスティスが廊下にしゃがみ込んだ。
「あれ? お父さん、そんなとこに居たの?」
「うん。居たの」
顔を覆っていた手を外せば、鼻血がタラリ。
「お父さん、鼻血!」
「そりゃ、ジュリアがあんなに力いっぱいドアを叩きつけてくれるんだから。鼻血くらいは出るでしょ」
ジュリアが部屋から取ってくれたティッシュで鼻を押さえながら、ジャスティスが鼻声で反論する。
「とか言って、わたしやお母さんのナイスバディ想像してじゃないの?」
「確かにジュリアのB85、W58、H84は、母さんに並ぶ脅威的な美しさだと思うけど、父は、そ
んないやらしい目で娘を見ておりません」
言いながらケーキの箱をジュリアに押し付け、さっさとジュリアの部屋に入り込む。
「なんでわたしのスリーサイズを知ってるのよ」
少し冷めた目で見る娘に、ジャスティスは平然と答える。
「洗濯物畳んだときに確かめた」
「アホか!」
娘のブラジャーをしげしげと眺めていた父親の姿を思い浮かべて、ジュリアはげんなりと肩を落とし
た。
床に座り込んだジャスティスが、ティッシュの箱とゴミ箱を抱えて込む。
「鼻血って気持ち悪いよな。みんな鼻血出ると上向くけど、あれは間違いだから、ジュリアはそんなこ
とするんじゃないぞ」
「知ってるよ。昔から散々聞かされて来たんだから」
「そうか。お父さんの貴重な教えを覚えていてくれたか」
感慨深げに言う父に苦笑しながら、ジュリアはケーキの箱を開けた。
やけに大きなケーキの箱には、ジャスティスの言った通りに10個の全部種類の違うケーキが並んで
ツヤツヤと光っていた。
はっきり言ってケーキを食べれるような心境でもお腹の状態でもなかった。
今もショックで消化を拒否した胃袋から、時折カレーがこみ上げていたし、文字通り胃は食べ物でい
っぱいであった。
だがやけを起した気分が、甘いものを食べる欲求を伝えている気もした。
事実、目の前の沢山のケーキに強く惹かれる。
「じゃあ、このイチゴのタルトを」
ジュリアが言った。
だがその語尾を奪い取るようにジャスティスが口を挟んだ。
「ああ、それはお父さんの」
「ええ? じゃあ、このフアフアのチーズケーキ」
「それも、お父さんの」
「は?」
ジュリアは思わず怒りの滲んだ目つきで父を睨んだ。
「ほかのは全部ジュリアの。でもその二つはお父さんのなの」
「一番おいしそうなのが、自分のだっていうわけ?」
「そんなことないさ。ほかのだってジュリアが好きそうだなって、お父さん一生懸命選んだのに」
鼻血を押さえた情けない顔で見上げられ、ジュリアは仕方なしにイチゴのタルトの横のシフォンケー
キを取った。
「ああ、それは紅茶のシフォンだって」
ケーキを手づかみのまま齧ったジュリアは、甘さと一緒に広がる紅茶の香りに頷きながら言った。
「もしかして買ってきたケーキの名前全部覚えてるの?」
「紅茶のシフォン、ベリーの森のイチゴのタルト、エンジェルケーキ、ワインムースのピーチ風味、レ
モンチーズケーキ、ザッハトルテ、いちごのプティング、メレンゲパイ、モンブラン、フルーツタルト」
指折り数えながら淀みなく言ったジャスティスは、笑顔になると鼻血が止まった事を確認してゴミ箱
にティッシュを投げ捨てた。
「お父さんにイチゴのタルト頂戴」
手を出すジャスティスに、ジュリアは箱ごと差し出した。
箱の中から目当ての赤いいちごがズラリと並んだケーキを取り出すと、手の平に乗せて一周させて眺
める。
「ああ、いい輝き」
「お父さんって、甘党だよね」
「酒の味はわからないからね」
言いつつ、タルトに齧りついたジャスティスが、ジュリアと同じように頷きながら幸せそうに微笑む。
「やっぱりイチゴのタルトが一番おいしそうなんだけどな」
早くも二つ目のケーキを物色しながらいうジュリアに、ジャスティスは取られてなるものかと身を引
くと、残りを口の中に放り込んだ。
「じゃあ、しょうがないな、ちょっとイチゴが乗ってるフルーツタルトにしよう」
「どうぞどうぞ」
口の中をケーキでいっぱいにしたまま、ジャスティスが言う。
そして手に残った銀色の包み紙を丸めると、後ろを振り向きもせずにゴミ箱に向かって投げた。
その小さな銀玉は、見事にゴミ箱の真ん中に吸い込まれていった。
「んん! お父さん、バスケットの才能なんてあったけ? っていうか、もしかして、いつもわたしの
部屋に来て練習してたんじゃないの? 見もせずに入れられるなんて妖しすぎ」
その質問には答えずに、ジャスティスは口についていた屑を払う。
そしてタルトを齧ったジュリアと向き直ると言った。
「ところでジュリア」
ついに来た。
聞かれたくない質問の嵐を予想して、ジュリアはケーキに立てた歯を中途半端に止めて、父ジャステ
ィスを見た。
じっと見つめてくる目が、早くも絶対言わせてやると意気込んでいる。
その目から意図的に視線を流して外すと、あらぬ方向を見てタルトを齧った。
「何よ」
つんけんした言い方で聞いたジュリアに、ジャスティスが身を乗り出す。
「もしかして、スイレイに振られたのか?」
あまりにも予想していなかった質問に、ジュリアは手にしていたタルトを落としそうになって慌てた。
「な、なん」
「口からタルトの粉が飛び出してるけど」
見下ろした膝の上は、零れたクッキー生地で砂漠ができあがっていた。
「なんで分かるかって言うんだろ?」
ジャスティスがおもしろそうに赤面する娘の顔を見ながら、言う。
まさかスイレイが好きなことが、ブラジャーに書いてあったなんてことはあるまい。
思わずそんなことないというお決まりの照れ隠しの台詞を忘れてしまう驚きに、ジュリアは穴が開く
ほどジャスティスの顔を凝視した。
「お父さんはジュリアの癖なんてお見通しなんだな。ジュリアは嫌いな男の子や関心がない男の子の名
前は出しても一度や二度で、お父さんも覚えられないくらいたまにしか話に出てこない。それが、ここ
最近のおまえと言えば、スイレイとペルの名前しか出さない。もちろんペルが好きなんてことはないだ
ろうし、明らかにスイレイの名前を口にするときの方が、温度が高い。名前を口にするだけで幸せ、側
にいる実感ができる。なんて顔してるし」
「そんな顔してない!!」
茶化した身振りで顔の横で両手を組んだジャスティスに、ジュリアはベットの上のクッションを投げ
つけた。
「図星で怒った!!」
そのクッションをキャッチして、ジャスティスはあぐらをかいた膝の上で抱え込んだ。
「別に照れなくたっていいじゃないか。人を好きになるのは素敵なことだし、人間として一番大切な感
情だぞ。スイレイは一番身近にいる男だし、優しいからな」
真っ赤な顔で膝を抱えて睨みつけるジュリアに、ジャスティスが笑った。
「昔はよく相談してくれたじゃないか。マイケルと話しているとエミリーがちょっかい出してきて話を
させてくれないとか」
「それは幼稚園の時のことでしょ!!」
まるで殻にこもってしまった亀のように膝をギュッと抱え込んだジュリアが、顔を膝に押し当てて叫
ぶ。
「母さんじゃないと、もうそういう相談には乗れないのか? だったらちょっと寂しいけど」
この台詞を出されると弱いジュリアは、肩のあたりに力が入る。
言ってしまって楽になりたい気持ちと、恥ずかしくて言い出せない気持ちの間で揺れ動き、素直に顔
を上げることはできなかった。
「スイレイはなんだって? 告白でもしたのか?」
昔からかかってきたジャスティスお得意の誘導尋問に、ジュリアは口を閉ざした。
「ジュリアほどの美人に告白されて断わるなんて、スイレイも見上げた男だな」
黙ったままのジュリアにもめげる様子もなく、ジャスティスが喋り続ける。
「まあスイレイは顔もいいし、性格もいいから競争率は高いだろうが、ジュリアの勝率も低くはないは
ずだよな。まあ、ちょっと男勝りで強気なところが引いちゃう男もいるだろうけど、スイレイはそんな
ことで気後れするタイプじゃないし、ジュリアの良いところをしっかり見てくれてそうだからな」
「カレーでも食べてきたんだろ。さっきから少し刺激的な香辛料の匂いがしてたんだ。スイレイが作っ
たのか? お父さんの料理も捨てたもんじゃないと思うけど、スイレイも小器用なところがあるからな
。こだわりの料理を作りそうじゃないか。将来はスイレイと料理対決なんてのもやってみたいな」
何を想像しているやら、本当にぶつくさとイメージを膨らませてスイレイとの会話まで再現してみせ
ているジャスティスに、ジュリアが思わず笑った。
「それじゃあ、まるでスイレイがお婿さんとしてうちに来るみたいな設定じゃない」
「ああ、それが理想だな。ジュリアを嫁に出すなんてことは、絶対に嫌だ」
本気な顔で言っているジャスティスに、肩をすくめて笑ったジュリアが口を開いた。
「別に告白なんてしてない」
「そうだろうな。プライド高いもんな、ジュリアは」
いちいち突っ込みを入れてくるジャスティスに、睨みをきかせて黙らせる。
「でも、スイレイには好きな人がいるらしくてさ」
「好きな人? そんな話になったのか?」
「ううん。なんとなく、雰囲気っていうか」
「雰囲気?」
にやけた顔で聞いていたジャスティスの顔が、不意にしかめられた。
ジャスティスの纏っていた優しい父として雰囲気から、なにか不穏なものが漂いだす。
「今日スイレイのカレー食べに、誰かほかの女の子でも来てたのか?」
「三人だけだよ。スイレイとわたしとペル」
思わず最後に回して言ったペルに名前に、苦味が走る。
顔は平常を装ったが、頬のあたりが引きつるような笑みしか浮ばなかった。
「まさか、スイレイが好きなのがペルだなんて言わないだろうな」
真剣みを帯びて出されたジャスティスの声に、ジュリアが眉をしかめた。
「何よ、急におっかない顔して。……そうだよ。わたしは今まで気付かなかったけど、あれはスイレイ
が積極的に迫ってる感じだったよ」
ふて腐れて言うジュリアの顔を、ジャスティスが凝視した。
「本当なのか? スイレイがペルを好きだって」
もうついさっきまでの、娘の恋バナに付き合う父親の顔ではなかった。どこかあってはならない事件
を聞きつけて真相に迫ろうとするかのような厳しい顔だった。
ジュリアは呆気にとられたまま頷いた。
ジャスティスが呟く。
「そんな、だからペルをあそこに置くことは反対だったのに」
ジュリアは事態が飲み込めないまま、呆然とつぶやくジャスティスを見つめていた。
「何? どうしたっていうの? スイレイがペルを好きだと問題あるの?」
ジャスティスがジュリアの顔を見上げて、ゆっくりと首を縦に振った。
「あってはならないことだ」
「なんで?」
恐ろしいことを口にする慎重さで、ジャスティスが言う。
「スイレイとペルは、……実の兄妹だから」
「兄妹?」
意味が飲み込めず、ジュリアはただ父の口にした言葉を繰り返した。
「全然分からない。わたしと姉妹だって言われた方が分かるよ。スイレイとペルのどこに血のつながり
があるっていうの?」
「姉さんだ」
ジャスティスは頭を抱えた。
「姉さんって、ローズマリーおばさん? マリーがどうしたっていうの? マリーはペルの叔母であっ
て……」
言いながら、ジュリアは頭を過ぎった考えに口を閉ざした。
まさか、そんなことはありえない。マリーとレイリは大親友だったはずだ。今思いついた考えが真実
であるとしたら、マリーはとんでもない裏切りをしたことになるのだ。
「ねえ、お父さん。はっきり言って。ペルとスイレイが兄妹って、どういうことよ!」
ジャスティスの肩を掴んでジュリアが言った。
ジャスティスが苦しげに口を開く。
「ペルは、姉さんが産んだ子だ。父親はカルロス。スイレイとは異母兄妹なんだ」
ジュリアは、あまりのことに手の震えを感じた。
スイレイとペルが兄妹。
恋してはいけない関係。
ペルとスイレイは、どうあっても結ばれることのない運命なのだ。
ペルの恥ずかしげにした笑顔と、スイレイのその横顔を見つめる顔が目の裏に浮ぶ。
ペルにスイレイを奪われることはない。
だがジュリアは決してこの事実を喜んで受け入れることはできなかった。
これで二人は確実に傷つく。
壊すのなら、早く壊してしまわなければならないのだ。
だがだれがその役を負うのか。
自分では到底その役は負えそうになかった。
ジュリアは悲歎に暮れる父を見た。
「お父さんが」
ジャスティスが弱りきった顔で頷く。
「本当に嫌な役だよ。なんでこんなことに」
ジャスティスははき捨てるように言うと、同じように傷ついた顔の娘の頭を撫でた。
「おまえは忘れろ。知らなかった顔で、今までどおりに二人とつきあってやれ。これからの二人には、
おまえの支えが必要になると思うから」
ジュリアはただ頷くことしか出来なかった。
ジャスティスが出て行った部屋で、ジュリアはベットの上に丸まって泣いた。
悔しくて泣く方が、遥かに良かった。
何もできないずるい自分が情けなく、これから起こることに恐怖する弱虫な自分が嫌だった。
できることなら、時間を遡って全てをなしにしたかった。
過去を消せる消しゴムがあるなら、なにを投げ打ってでも手に入れたい気分だった。
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