第二章 息づく世界へ 




6

 ジュリアが入院してからというもの、ペルは学校につまらなさを感じていた。
 学年が違うのだから、常に行動を共にしていたわけではないのだが、同じ学校という空間の中にジュ
リアがいないだけで、彼女の発していた存在感と生きる力を結集したような生命感が消え果ているよう
な気がした。
 友だちと別れの挨拶を交わしながら、学校を後にする。
 下を向いてトボトボと歩いていたペルは、ふと視線に気付いて顔を上げた。
 校門のところで、スイレイが立っていた。
 目が合ったペルに、手を上げる。
 ペルは笑顔で手を振り返すと、スイレイのところへと走っていった。
 背中に背負ったカバンの中で、教科書やペンがカタカタと小気味いい音を立てる。まるで今までのパ
ッとしない気分に花を咲かせたペルをクスクスと笑っているような音だった。
「どうしたの? 学校に来るなんて卒業以来じゃないの?」
「そうかもな。久しぶりの母校が懐かしいな。この校庭を何周走ったことか」
 テニスをしていたスイレイが、よく練習で学校の周りを一心不乱に走っていたことを思い出し、ペル
も目を細めた。
 校庭の片隅で見守るペルの存在にも気付かずに、汗を浮かべたスイレイが、熱い太陽の光の下を通り
過ぎていったことを昨日のことのように思い出せた。
「もうテニスはしてないの?」
「遊び程度にはしてるよ。でも高校生の時みたいにがむしゃらにはやってないな。もう、卒業」
「勉強も忙しいんでしょ?」
「うん、まあね。でもまだ専門課程に入ったわけじゃないから、余裕はあるよ。そうでなきゃ、〈エデ
ン〉なんて創っていられないしな」
「そっか」
 スイレイの横を歩きながら、ペルは色づき始めた木々を見つめた。
 大きな葉を広げたメープルの木が、濃い緑色から、秋を感じさせる赤へと変色を始めようとしていた。
「ペルは今日、このあと予定ある?」
 ゆっくりな自分の歩調に合わせて歩いてくれるスイレイに、ペルは笑顔を向けた。
「ううん。ないよ」
「じゃあさ、ちょっと研究所に一緒に行ってもらえないかな?」
「研究所? カルロスさんの?」
「うん。行った事なかったっけ?」
「うん」
 スイレイは「そうか」と頷きながらも、研究所という言葉にペルがどんな反応をするのかを探るよう
な、少し落ち着かない表情でいた。
 なんだかとっておきのものを見つけたときの、誰かと共有したいという心のざわめきがスイレイから
聞えてくるようだった。
「何? 何かいいことがあったみたいだけど」
 小首を傾げて尋ねるペルに、スイレイはヘタなとぼけた表情で眉を上げてみせたが、すぐに隠しきれ
ない笑顔がこぼした。
「まあ、とりあえずぼくにとっては願ってもない良いことなんだけど」
 スイレイをこんなに興奮させるものといえば、恐らくは〈エデン〉がらみなのだろうと思いつつ、ペ
ルは年上ながら少年のようなスイレイに笑った。
「笑ったな。…で、ペルは行ってくれるの?」
 スイレイは気恥ずかしげに拗ねた表情で尋ねてくる。
「うん。いいよ。研究所も一度見てみたいって思ってたし」
「そっか。よかった」
 スイレイの顔が、パッと明るくなる。
 そして自然な仕草でペルと手を繋いで歩き出した。
 あまりの自然さに抵抗する暇もなく、大きな手がペルの手を包み込んだ。
 意識すると赤くなりそうな顔に、ペルはいつもジュリアと手をつないで歩いてるじゃないかと自分に
暗示をかける。
 スイレイだってジュリアと同じ幼馴染だし。
 変に強張って前を向いて歩いていたペルは、チラッとスイレイを横目でみた。
 背の高い広い背中が、いやにまぶしく見えた。
 振り返ったスイレイと目が合う。
「どうした? もしかしてぼくに惚れた?」
 スイレイの軽口に、ペルは顔を赤くしながら「違うよ」と手を振る。
「いつも家で見ているときと、外で会ったときとでは、受ける印象が違うなって」
「それはペルだってそうだよ。家でみるより、ずっとかわいい女の子に見える」
「家では?」
「う〜ん、同じかわいいでも、家では抱き潰したいぬいぐるみみたいな可愛さかな」
 分かるような分からないような説明に、ペルは首を傾げて考え込む。
「それって。褒められてるの?」
「さあ? どうでしょう?」
 意地悪く笑うスイレイに、繋いでいた手で肩を叩く。
 もう繋いだ手に違和感はなかった。
 守るべき妹の手を握る兄の温かさが、その手から伝わってきていた。



 研究所に足を踏み入れた瞬間、ペルは思わず顔をしかめた。
 以前に見たことがあるような気がする景色。それもあまり良くない記憶の感触をともなっている既視
感だった。
 清潔感に溢れたエントランスを抜け、従業員専用の喫茶室に入っていく。
 並んだ自動販売機から絨毯の模様、天井の電灯の形。
 恐ろしいほどに目を向けるものに既視感をもつ。
 あまりに険しい顔で辺りを見回すペルに、スイレイが声をかけた。
「どうした?」
「え? あ、ごめんなさい。なんだか、前にここに来た気がして」
「本当? でもはっきりとは覚えてないのか」
「うん。すごく小さいときの記憶みたい」
「へえ〜」
 スイレイは買ってきたオレンジジュースをペルに手渡すと席についた。
「小さいときに来たことがあったのかな? ローズマリーに会いに来たとか?」
「どうかな? でもね、わたしお母さんとお父さんのお葬式のときに初めてローズマリーおばさんに会
ったんだよ。きっとそうだと思うんだ。だって見たことない人だと思ったもの。あなたの叔母よって言
われてすごく驚いた覚えがあるの」
「そうか、じゃあ、それもなしか。ココと似た景色のどこかに行った記憶と混じってるんじゃない? 
病院なんかも似たようなつくりのとこあるし」
「そうかも。嫌なイメージの記憶なんだよね。きっと病院が怖かった記憶だね」
 ペルは自分でそう結論を下しながら、内心は違うと思っていた。自分はココに来たことがある。
 そして遊園地で甦った記憶を頭の片隅で気にしていた。
 ローズマリーに手渡された赤い風船。
 あれは確かにあった過去の出来事の記憶だったのだろうか? 
 そうなのだとしたら、あれはいったいいつの出来事なのだろう?
 オレンジジュースに浮んだ氷を見つめながら思っていたペルに、一人の人が声をかけた。
「おまたせ。あれ? ペルも一緒かい?」
 温厚な声に顔をあげ、ペルはその人物に笑顔を向けた。
「ジャスティスさん。スイレイの用事の相手ってジャスティスさんだったんですね?」
 そんなペルの言葉に、ジャスティスがスイレイを見て眉間に皺を寄せる。
「説明なしでいきなりペルを連れてきたのか?」
「だって説明よりも実際に目で見たほうが、早く理解できると思って。実験台第一号がぼくってことに
は変わりないからいいでしょう?」
 弱った顔でペルを見たジャスティスだったが、しょうがないなと頷くとペルとスイレイに付いて来な
さいと手招きした。
「説明ってなに?」
 横を歩くスイレイに聞いても、返ってくるのは笑みばかり。
「見ればわかるって」




 スイレイがベットの上に横になる。
 そのベットの横に並べられた注射器や銀色に煌くハサミなどの医療器具に、ペルは思わず目をそらし
た。
 そんなペルの反応に、ジャスティスが横で笑う。
「ペルって、注射嫌い?」
 ペルは思い切り頷く。
 ジャスティスは声を上げて笑うと、カイルの説明を受けているスイレイを示しながら言った。
「この研究所が遺伝子の研究をしていることは知ってるね?」
「はい」
 難しい話になるのかな? と不安になりながら、ペルはそれでも真剣な態度で頷いた。
「この頃のその遺伝子の研究の中で、臓器の再生っていうのが盛んに行われているんだ。もし」
 ジャスティスはそう言ってペルの手を取った。
「ペルがこの人差し指を思い切り料理に失敗して切り落としてしまったとする。人間には、切り落とし
てしまったものを、手術でくっ付ける以外にこの人差し指を再び手に入れることは不可能だよね」
「トカゲの尻尾みたいにもう一回生えてくることはないってことですよね」
 ジャスティスはペルの返答に「うんうん」と嬉しそうに頷く。
「トカゲの尻尾が再び再生するのはね、その切れた周辺の細胞が、ちょっと尻尾になってみようかな?
 って気持ちを入れ替えてくれるから、もともと尻尾の細胞でないものが増殖して尻尾になってくれる
んだ。この気持ちの入れ替えをしてくれるのが遺伝子の中でもホメオボックスと呼ばれる部分なんだ。
このホメオボックスっていう宝箱を開けるとこが出来れば、人間にも切れた人差し指を再び生やすなん
てことが可能になるんだ」
「へえ〜」
 感心して頷きながら、ペルはスイレイを見た。
 ペルは自分に笑顔を向けたまま、こめかみを消毒されているスイレイをみつめた。
「スイレイの頭から尻尾が生えるの?」
 ペルの行き着いた答えに、ジャスティスを含めた三人が呆気に取られて動きを止め、次の瞬間、大笑
いした。
「ちがう、ちがう。尻尾の話はたとえばなし。遺伝子の中には各器官を再び作り出す増殖作用をONに
する働きをするものがあるってこと。スイレイの頭の中に新たに作り出そうとしているのは、脳神経の
ネットワーク」
「脳神経のネットワーク? でも、どうしてそれをスイレイが受けるんですか?」
 脳と聞いて益々心配そうに顔をしかめたペルに、スイレイが声をかけた。
「それはぼくが言い出しっぺだからだな。バーチャルの世界に自分が入って歩き回ってみたいって」
 そのスイレイの答えに、ペルは〈エデン〉に思い至って「あっ」と声を上げた。
 だがその先は言うなよとウインクを送ったスイレイに、ペルが頷く。
 スイレイはペルとジュリアの二人が話していたことを実際に行えるように計画を進めていたのだ。
 実際に〈エデン〉の地に立って、その空気を吸って、その地に育つ植物に触れてみたい。
 もしこの願いが叶うのだとしたら、なんて嬉しいのだろう。
 でも、とペルはスイレイを見やった。
 その願いを叶えるために今しようとしている実験は果たして安全だと言えるのか?
 ある意味遊びの域をでないバーチャルリアリティーの世界への傾倒のために、冒せる範囲の危険なの
だろうか?
 ペルの眉間によった皺と、心配を滲ませた目にスイレイが笑った。
「ペル、そんなに心配そうにしなくても大丈夫だよ。ジャスティスさんがOK出したってことは信頼に
たる安全の対策とデーターがあるってことだから」
「…うん」
 納得しかねる顔でうなずいたペルに、ジャスティスが肩に手を置く。
「大丈夫だよ。ただ単にスイレイが言い出しだから実験体になってもらっているってわけじゃないだよ
。彼の発想が新たな着眼を与え、新たな世界を切り開いた。その世界の初の体験者には彼がふさわしい
から、スイレイにお願いしたんだよ。
 ペルの大事なスイレイに何かあったらぼくが生きていられないから、その辺の対策はしっかりとって
あるよ」
 ね? と顔を覗き込まれ、ペルはかすかに笑うと頷いた。
「では始めます」
 カイルがジャスティスに指示を仰ぎ、頷いたジャスティスに、今度はスイレイに注射器を見せて頷い
た。
 スイレイの顔が左に倒され、右のこめかみに注射器が挿される。
 ペルは思わず息を殺して、手をぎゅっと握った。
 目をそらしてしまいたかったができなかった。自分はスイレイのために見届けなければならないと思
ったのだ。
 じっと目を凝らし、スイレイの様子を見守る。
 針は思いのほか深く刺し込まれていく。
 モニターを見ながら針を刺していたカイルの手が止まり、注射器の薬液が押し込まれていく。
「今入ったのが、脳神経の構築を命令する遺伝子と幹細胞だよ。この幹細胞がものの数十分で神経網を
構築してくれる」
 ジャスティスの説明が頭の上から降り注ぐ。
 でもペルの耳にはほとんど届いてはいなかった。
 痛みは無さそうに静かに目を閉じているスイレイの顔をじっと見つめていた。
 次にカイルは針を挿したまま注射器の筒の部分を交換する。
 そして再びゆっくりと抜きながら液体を押し込んでいく。
「あれは?」
「あれは外部からの電気刺激を今構築中の神経網に伝達するためのジャック部分の構築剤。あの構築剤
が作り上げた連結部にアンテナとなるジャックを装着することで、バーチャルの世界へのジャック・イ
ンを可能にする」
 ジャスティスはペルの背を押して一緒にスイレイの横に立った。
「スイレイ。調子はどうだね?」
「痛みなんかはないけど、こめかみから前頭葉にかけて、何かが這っている様なむずがゆさがある」
「うん。それは神経が動いているときに起こる症状だ。それ以外に吐き気や頭痛なんかの異常はあるか
い?」
「いや、それは特に感じません」
 いつもと変わらぬその声に、ペルがスイレイの顔を覗き込んだ。
「本当に大丈夫なの?」
 真剣な顔をしていたスイレイも、ペルの緊張に強張った顔に笑顔を見せた。
「今一瞬、具合が悪い振りしてを脅かそうかと思ったけど、ペルの顔見たら倒れられそうだから、止め
た」
「もう! 当たり前でしょ!!」
 いつも通りのちょっと意地悪なスイレイの言葉に、ペルが頬を膨らませて怒ってみせる。
 だがすぐに笑顔を見せると横たわるスイレイを見守った。
「副所長」
 カイルの呼びかけに、ジャスティスはモニターの方へと歩いていく。
 そして頷くとスイレイの背中をポンと叩いた。
「神経網の構築は成功したよ。どうだい、次のステップに進んでみるかい?」
 横にしていた顔を仰向けにすると、スイレイはジャスティスに向かって歯を見せて笑った。
「もちろん。こんなワクワク次の機会まで取っておけなんてお預け食わされたら、神経が参っちゃいそ
う」
 心底楽しんでいるスイレイの声と表情に、ペルは緊張を緩めてホッとため息をついた。
「なんかわたしばっかり心配して疲れちゃったんだけど」
「ごめん。でもペルにはちゃんと立ち会って欲しかったんだ」
 スイレイに手を取られ、ペルは許してやろうという気分で頷いた。
「ぼくが成功したらペルにもバーチャルの世界に来て欲しいし」
「ええ? わたし? わたしも注射するの?」
 手を取られたまま、後退さるペルに、スイレイが当たり前とうなずく。
「いくら憧れのバーチャルの世界でも、一人でいたら寂しいでしょう? ペルも一緒でなきゃ」
 握られた手はいつの間にか、離してやらないよの意味を持ち始め、ペルは力いっぱい息を吐き出した。
「じゃあ、ジャック入れるよ」
 カイルがスイレイのこめかみに銀色の細いソケットの先を差し入れた。
 その光景は、いくらスイレイが平然としているとは言え、気持ちのいい光景ではなかった。
 カイルがソケットの電源をONにする。
 その瞬間、スイレイの体が反応した。
「目の前にホログラフだよね? ディスプレイが展開された」
「そう、それでOK。そのホログラフに声紋、網膜パターン、指の静脈パターン、指紋を読み取らせて」
 スイレイは繋いでいない方の手を、ペルには見えない虚空の何かに伸ばし、空中にあるらしい何かを
操作した。
「指示に従ってセキュリティーは入れたよ。ジャック・インするかって聞いてるけど」
「うん。じゃあ、ジャック・インして。その後は音声で繋がるから」
 カイルとスイレイの気軽なやり取りを手に汗を浮かべて見守るペルに、スイレイが一瞬目をむける。
「行ってくるね。ペルもすぐにおいで。待ってるからね」
 そう言うと、スイレイの体から力が抜けた。
 突然の入眠のような急激な体の弛緩だった。
 ペルがカイルに目をやると、大丈夫だからと頷いてスイッチの一つを入れるインカムのマイクに向か
って喋った。
「スイレイ?」
「…ああ、ちゃんといるよ」
 スイレイの声がスピーカーから流れる。
「そっちの様子は?」
「う〜ん。何もない真っ白な部屋の中に立ってるよ。影もないから浮いてるんだか立ってるのか不思議
な感じ」
「そうか。それで第一次ジャック・インが完了だ。次にこちらで座表指定した位置への第二次ジャック
・インだ」
「OK。やってくれ」
「ではカウントダウンするぞ。3・2・1」
 カイルのカウントが0に達したとき、スピーカーの音が一瞬途絶えた。
 そして次の瞬間、ペルはモニターの部屋の中に立っているスイレイを見ていた。
「ス、スイレイがこんな所に」
 ついさっきまでは誰もいない洋間を示していた画面の中で、スイレイが手を振って立っている。
「おーい。ペル、見てるか?」
 スピーカーから元気なスイレイの声がしている。
 カイルはペルに自分のしていたインカムを手渡すと、喋ってみてと薦める。
 ペルは恐る恐るインカムを手に取ると、怪しい手付きで頭につけた。
「スイレイ? 聞こえますか?」
「聞こえるよ。こっちは快適だぞ。早くペルもおいでよ」
「本当にわたしも行くの?」
 弱々しい声で問われ、スイレイが立っていた部屋のドアを開けた。
 そして開けたドアの向こうを示す。
 そこにはきれいなガーデンが広がり、白いテーブルとイスが並べられ、その上にペルの大好きなケー
キがよりどりみどりの状態で並べられていた。
「これ、食べみたいでしょ?」
 ペルは隣りに立ったジャスティスを見上げて、眉の下がった困った顔を見せた。
「あれはスイレイのリクエスト。あんな設定にしておけばペルが釣られて来るに違いないって」
「わたしはお菓子で釣られるほど子どもじゃないんですけど」
 そうは言ったものの、ペルの言葉を聞きつつも自信たっぷりで手招きしているスイレイに、ペルは頷
かざるを得なかった。
 自分のためにジャスティスたちに要望を伝えるほど、スイレイは自分が行くことを望んでいるのだ。
 それに、最初にともにバーチャルの世界を体感するパートナーに選んでもらえたことも嬉しかった。
 いずれ〈エデン〉へのジャック・インを決意するのなら、今スイレイと一緒に一番最初の人間になれ
たらこんなに栄誉なことはない気がした。
「本当に痛くないんですね?」
 ペルは泣き出しそうな顔でカイルとジャスティスを見た。
 二人はペルに優しくほほえむと、うなずいた。

 
back / 第一部〈エデン〉top / next
inserted by FC2 system