第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



      
 始末書を書くパソコンの前で、カルロスは目の奥に痛みを感じて眼鏡を外す。  眼鏡のレンズの上に反射して映っていた文字が、カルロスの手の中で位置を変えて湾曲する。  始末書でもなんでも書けと言うなら書いてやる。だが、あの所長の態度には腹を据えかねるものがあ った。  実の息子だから、ああまで辛らつであったのか。それとも、息子だから処分が甘い代わりに苛立ちの 全てをぶつけられたのか。  実質的な今回の問題の発生源となったインフルエンザを起したチームは、助手を除いて全員解雇とな った。それだけ許されざる失敗だったといえる。  おそらく今回のポンペ病の治療薬製造に関しては、政治的な取引が行われていたのだ。利権の絡んだ、 純粋な科学とは明らかにかけ離れたところで闇の駆け引きがあったはずなのだ。だからこそ、失敗は許 されなかった。  当然のようにインフルエンザから回復したウサギ5匹に関しても廃棄しろの命令が出ていた。  目頭を揉みながらカルロスはため息をつく。  この役立たずが! 何のために大きな仕事を与えたと思っている。おまえを信頼したわたしがバカだ った。真面目一徹に科学にのめり込むだけが取り得だというのに、与えられた仕事の成果を出せないば かりか、わたしの足を引っ張るとは、無能を通り越して害悪だ。とてもわたしの息子とは思えん。あの バカで自己中心的な自己憐憫だけが特性の女の遺伝子をより多く継いだと見える。おまえも遺伝子の研 究に取り付かれているのなら、まずは自分の中の間抜けで役立たずな遺伝子を変換したらどうだ?  何も言い返さずに黙って拝聴していたカルロスも、自分の母親が愚弄される段では顔を上げて父親の 目を嫌悪の視線を込めて見返した。  今も妻の座にはあるものの、決して夫との円満な関係を持っているとは言いがたい女がカルロスの母 親だった。与えられたのは正妻という地位とカルロスという息子。そして財産。愛情は求めるだけ論外 だったのだ。母の言葉によれば、父と寝たのは後にも先にも計画的にカルロスをもうけた一度だけ。  父は家庭などという枠に押し込められることを最も嫌い、浮名を流し続けた。隠し子の一人や二人は いることだろう。  それでも父の後を継いで研究者という立場を取ったのはカルロスだけで、それが彼が彼である自信の 支えであると言っても過言ではなかった。  あの母から生まれたということで優しい父親の愛情を注がれることは皆無だった。だが、いい成績を 取った時は手離しで喜んでくれた。さすがは俺の息子だと褒め称え、抱きしめてキスさえくれた。  その姿に、母にさえ自分の血を分けた息子が優秀であるという優越を味わせてやれたのだ。  だから、優秀であることが何よりもカルロスには必要な幸せの要素だった。  誰よりも抜きん出ること。一番であること。成果をあげること。  それが今は一体どうだというのだ。全てが覆ってしまった。  誰よりも愚かな失敗をしでかし、息子だという立場だけで研究所に残ったと後ろ指を差される。  後に残されたのは、自分が長い間手がけてきた研究で成果をあげることだけだった。  だがふとそこに思い至ったとき、カルロスはあることに気付いて顔を上げた。  視線の先に小さなシルバーのケージがあった。  いつもならカラカラと回転するおもちゃの音がするのに、まったくの静寂が部屋の中を覆っていた。  不信に思って立ち上がったカルロスは、瞬時に体の中を走った予感に身を硬くした。 「そんなことがあるはずが………」  すぐにも確かめたいのに、足が思うように前に進まない。  一歩一歩とネズミのケージに近づくに連れて、いつも見えていたはずのネズミのいる場所に目を走ら せ、幻想のように前に見たネズミの姿を思い出す。  回転おもちゃの中を軽快に走り続ける姿。エサを手に持って食べる姿、寝床にしている新聞紙を破っ て作ったベッドで丸くなる姿。  だがそのどれもが裏切られていく。  そしてついにエサ箱の前で体を横たえたネズミの姿が目に入る。  眠っているのではない。  開けられたままの黒い小さな瞳は、すでに潤みさえ無くして乾いていた。 「なぜだ!」  カルロスは叫び声を上げると目の前にあった机の上の本という本を全て叩き落した。  バタバタと音を立てて床に落下していく本を蹴飛ばし、絶望の叫びを上げて机ごとひっくり返す。  大きな騒音を立てて転がった机に、床に溜まっていた埃が舞い上がり、朝の光の中で煌めきながら散 っていく。  その中で荒い息をついて頭を抱えたカルロスが床の上に座り込む。 「どうしてだ。なぜ、すべてを俺から奪っていく」  カルロスの研究してきたのは不老。死から遠ざかる方法を探していたのだ。  体を若いままで再生させ続けるテロメアの伸長を実現させてきたのだ。だから、このネズミはすでに 本来のネズミの寿命をはるかに越えて、さらに健康に若々しくいたはずなのだ。ほんの数日前までは。  カルロスは虚ろになる意識の中で立ち上がるとケージの中のネズミの体を手の取った。  あまりに小さく、握りつぶしてしまいそうな体に、笑い声さえ上げそうになる。  どうして気付かなかったのだ。  ネズミの腹に大きな腫瘍ができていた。癌だ。  目視で分かるほどに膨れ上がった腹は、きっとその中味をほとんど癌細胞に乗っ取られ、機能を停止 してしまったのだ。  昨日の夜か、あるいはもっと前か。ネズミはカルロスの希望まで一緒に背負って、手の届かない世界 へと旅立ってしまったのだ。 「……不老など、病の前ではなんと脆弱なものなのか………」  涙も出ることなく、ただ笑いだけが込み上げる。  一体自分は何にこれほどの精力と時間と思い入れを注いできたのだろう。こんなにも脆く崩れ去る無 意味なことに。  カルロスは手の中のネズミを無造作にゴミ箱の中に放り込むとデスクについた。  インフルエンザから生き残ったウサギも、同じようにゴミ箱行きになるのだ。昨夜の苦労もやはり水 の泡。 「ローズマリーが怒るな」  フッと笑った。  そのカルロスの脳裏にローズマリーの声が蘇る。病気に打ち勝つには自己の持つ免疫が最後の砦。だ からウサギたちのそれに賭ける。  そして五匹はその賭けに勝った。  病に打ち勝ったのだ。 「自己免疫の強化……あらゆる病への免疫反応……」  暗く沈んでいたカルロスの瞳に光が戻っていた。だがそれは、どこまでも狂気へと続く闇の世界の光 でしかなかった。
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