第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑





 吐いたことで吐き気は治まったらしいが、蒼い顔でふらついているレイリをフェイに部屋まで運ばせ、
自分のベッドに寝かせる。
「ごめんね、重かったでしょう?」
 色のない唇で申し訳なさそうに言うレイリに、フェイが首を横に振る。
「いや、軽すぎでしょう。ちゃんと食ってるの? って聞きたいくらい。バレリーナってみんなこんな
なの?」
 まるで羽が生えているかのようだったと示して言ったフェイだったが、不意に隣りに立つローズマリ
ーを見る。そして背の高い彼女の頭のてっぺんから足の先までを見下ろして、腕組みすると目をつむる。
「なによ」
 その失礼とも言える視線に言いたいことは分かっていたが、ローズマリーが顎を上げながら尋ねる。
「いや、俺、マリーのことお姫様抱っこでベッドまで運べるかなって思って」
 それにローズマリーが平手でフェイの後頭部を叩く。
「運んでもらわなくて結構」
 そっけなく言ってレイリの様子を見るためにベッドサイドに跪くローズマリーだったが、後ろではフ
ェイが抗議の声を上げる。
「ええーー。マリーは憧れないの? はじめての夜には嬉し恥ずかしのお姫様抱っこでベッドに寝かさ
れて、それから見つめ合いつつ、いつの間にやらキスして抱きしめあって――」
 完全一人妄想の世界に飛びだったフェイが、怪しい手つきで手の中にはないローズマリーの胸を揉む。
「いやらしい男は出て行ってくれる?」
 まるでその手つきが見えていたかのように、振り返ることなくローズマリーが言う。
 そしてしっかりフェイの手つきを見て、赤い顔で忍び笑いをしていたレイリが、目の合ったフェイに
手を振る。
「へいへい」
 それにがっくりと肩を落として部屋を出て行くフェイの気配だけを見送り、ドアが閉まったところで
ローズマリーが振り返ってため息をつく。
「なに一人で変態晒してるんだか」
「あら? 男の子なら普通でしょう。かえってオープンでいいじゃない。むっつり陰で妄想ふくらまさ
れる方が、不気味じゃない」
「まあね」
 答えながらローズマリーはレイリの額に手を置く。
 熱はなさそうだ。
 手首で測ってみても、頻脈だということもないし、しっかりとした鼓動の圧を感じる。
 頬は、フェイのバカ話のおかげで幾分赤みが戻ってきていたが、それでも青白いことに変わりはない。
「あのバカじゃないけど、ちゃんと食べてるの? いくら痩せていることが求められるバレリ―ナだっ
て、資本は体よ。柔軟な筋肉を育てるのも摂取する栄養素だってことは知ってるでしょう」
 もちろんそんなことはプロのバレリーナであるレイリは百も承知だろうが、ローズマリーも医師を志
すものとして忠告する。
 それに素直に頷いたレイリが真剣に自分を見下ろすローズマリーに微笑みかけると、小さくため息を
つく。
「ごめんね。なんだかこの頃ちょっとしたことにイライラして。食欲もなくて、あんまり食べてないの」
「そうなの?」
 応じながらローズマリーはレイリの目の下を引いて見る。
 幾分白く血の気がない。貧血気味なのかもしれない。
「ねえ、生理は?」
 もしかしたら今が生理中なのかと思って聞いたローズマリーだったが、その問いに首を傾げたレイリ
がいた。
「今は違うわよ。……でも、予定がいつかはよく分からない。もともとあんまり規則的じゃないから」
「そりゃ、しょっちゅうダイエットしてるからね」
 この体の厚みで本当に内蔵が全部収まっているのだろうかという体を思い、呆れ混じりにローズマリ
ーが頷く。
「この前の生理は?」
「う〜ん。二ヶ月くらい前かな?」
 呑気にそう応じるレイリに、ローズマリーがふと思いついて口を開く。
「ねぇ、妊娠しているなんてことない?」
「え? まさか」
 笑って言ったレイリだったが、途中から思い当たることがあったのか、次第に真顔に変化していく。
 レイリは近頃の自分の変化を思い返していた。
 今まではいい匂いだと思っていたものが、強烈な匂いだと感じて避けるようになった。人工的な匂い
の香水。スナック菓子。匂いを感じると吐き気に変わる。
 そして不安定な感情。不意に意味もなく悲しくなって、居ても立ってもいられなくなる。
 ほんの少しだが、きつくなったブラジャー。
「え……妊娠?」
 ほとんど恐怖に近い声で言ったレイリに、ローズマリーがその顔をのぞき見る。
「心当たりは?」
「………ある」
 あのバレエの公演成功を祝ってくれたデートでいったホテルで、初めて避妊せずにカルロスと寝たは
ずだ。
 日数的にもちょうど今妊娠しているのなら、合う。
 次第に確信へと近づいていく予想に、レイリはベッドの上で起き上がるとローズマリーの手を握った。
「どうしよう。わたし………まだ赤ちゃんなんて……」
 体は当然のように大人として機能は整えていても、精神がそれに見合うということは必ずしもない。
母親になる覚悟などまだなかった。カルロスにしたところで、それは同じだろう。だいたいにおいて、
妊娠したと告げたところで、結婚という二文字をあの男が受け入れるのかどうかは怪しいところだった。
 様々な不安が交錯しているのを感じとったローズマリーは、レイリを抱き締めると、落ち着けるよう
にとその背中を撫でた。
「まだ分からないじゃない。明日お医者さんに行ってみよう」
 レイリはギュッとローズマリーの背中を抱き寄せると、恐怖から逃げようとしているかのように目を
つむった。
「マリーも一緒に行って」
「うん。それはいいけど。……カルロスには?」
 その問いかけに首を横に振ったレイリが抱き寄せていた体を離すと、ローズマリーの顔色を窺うよう
に上目遣いで見上げた。
「……彼にはまだ言えない。……わたしもどうしたいか分からないし……」
「でも、父親は彼なんだから、きちんと話さないと」
「うん」
 子どもができたと聞いて、カルロスは喜ぶのだろうか? それとも迷惑だと顔をしかめるのだろうか?
 堕ろせと言うのだろうか? それとも。
 レイリの中で、愛されている確信が、足元でグラグラと揺れていた。
 そんな惑うレイリを見つめながら、ローズマリーは違うことを考えていた。
 目の前の親友の中で息づき始めているのかもしれない命。病院で生きたいと願っていながらままなら
ない体を抱えるアンネ。それを見守るアンネの母。
 同じ命でありながら、生まれてきたことを喜んでもらえない命と、惜しまれながら消えてしまおうと
している命。
 世の中は矛盾で満ちている。
 レイリの戸惑いは理解できたが、心のどこかが冷めていくのをローズマリーは感じていた。



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