第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑





 病院の廊下のイスに座っていたローズマリーの隣りにレイリが座る。
 産婦人科の診察室の前にはたくさんの妊婦たちが診察を待って談笑している。その晴れ晴れとした柔
らかな笑みを浮かべた顔とは裏腹に、レイリの顔は困惑と恐怖に強張っていた。
 大きなお腹で座っているのも苦労そうな妊婦たちの幸せに満ちた顔に、レイリは疎外感を感じた目を
向けてうな垂れる。
「わたしは間違ってるのかな?」
「なにが?」
 付き添って来たローズマリーは組んでいた足を下ろすとレイリを見下ろす。
「赤ちゃんができたかもしれないことを喜べないなんて、女として、ううん、人間として」
 新しい命の誕生は、この宇宙の中で最も神秘的で尊いものである。それは不変の真理であるとローズ
マリーは思っている。
 だが、同じ女として今自分が子どもを持つことを素直に喜べるかと言われれば、NOだった。もちろ
ん、それは自分が実際には身篭っていないという決定的な判断状況としての間違いもあるのだが、もし
もと考えても、それはやはり手放しで喜べるか言えば否なのだ。
 まず自分の立場が子育てをするのに適切な位置にない。つまり共に子どもを育てる夫がいない。シン
グルで育て上げる立派な母親もいるが、それが子どもの立場にから言えば決してベストとは言えないの
も事実だ。女としての意地でがんばられても、子どもの求めるものは違うかもしれない。ましてや産み
捨てるような女では産む権利もない。
 もし自分に子どもができたと言えば、フェイは喜んで結婚しようとプロポーズしてくれるだろう。そ
れが叶ったとしても、今度はローズマリーという個人としての不都合が出てくる。
 これまで積んで来たキャリアが妊娠という大仕事の前でストップするのだ。ストップだけではなく、
消滅する可能性すらあるのだ。
 キャリアと新たな命を天秤に架けられないと言えば美しいが、そのキャリアを積んで来た自分も、希
望を持っている一つの命であり、自分という命が積み上げてきた時間や労力を無にするか否かは苦渋の
決断となる。
 ローズマリーはそんなことを考えながら、レイリの横顔を見つめた。
 今ある現実とは違うどこかを見据え、考えの底に沈んでいる横顔は、声をかけることすら躊躇われた。
 レイリは泣いているわけでも、呻き声を上げているわけでもない。でも、それだけに魂そのものが苦
しみにのた打ち回っているように見えて仕方がなかった。
 その苦しみに、自分が助けを差し伸べて上げられるわけではないと分かってはいたが、何か自分にで
きることはないのかとレイリの膝の上で握り締められている手に手を重ねる。
「わたしはレイリの味方だから。レイリがどんな決断をしようと、それはきっと考え抜いたものだと信
じてるから」
 レイリの心に染みこむ様にと、耳元で囁く。
 それに頷いたレイリが手を返してローズマリーの手を握る。
 そのとき、診察室から顔を覗かせた看護師がレイリの名前を呼ぶ。
 レイリが立ち上がると、ローズマリーの手を離して診察室へと入っていく。
 いつもの誰よりも支えを必要としているような、細く折れそうな背中が、今は新たに加わろうとして
いる責任を受け入れる覚悟を決めていた。


 自分の部屋に帰りついたレイリは、体の芯から滲み出す疲れにベッドに身を横たえた。
 ここまでローズマリーが自分を送ってくれた。それは分かっていたが、その道中の記憶が全くなかっ
た。
 まさかこんな結果になるとは思っていなかった。
 もちろん自分の考えが甘かったのだ。セックスすれば子どもができるかもしれないなんてことは、今
どきローティーンでも知っている。しかも避妊しなかったのだから、子どもが出来てもいいという覚悟
があったのでしょうと言われても仕方がない。
 だが自分は、子どもができるなんて考えていなかったのだ。まさか自分が母親になろうなどとは、予
想も求めもしていなかった。
 それはきっとカルロスも同じだろう。
 カルロスと結婚?
 それが全ての問題を解決するベストな方法かもしれないが、子どもができたことと同じくらいに、結
婚という言葉に恐怖している自分がいた。
 結婚に憧れがないのではないのだ。カルロスとの結婚に恐怖を感じるのだ。
 付き合うのとはわけが違うのだ。生活を共にするのだ。あのカルロスと。
 自分がカルロスという人間の妻に相応しいとは思えなかった。そのうえ、カルロスの求める妻の条件
は満たせないという自信だけはあった。
 結婚式とそれに続く甘い生活。そんなものを想像するだけの気力はなかった。それなのに、悲劇へと
転落していく自分だけは自然と思い浮かぶのだから気が滅入る。
 大きな腹になって、愛情をくれない夫の帰りだけを待っている寂寥を背負った自分。何も出来ない自
分に不満を宿しながら、何も言わずにため息をつくカルロス。それにストレスを溜めて泣き喚く自分。
帰ってこないカルロスと冷えたベッド。
 そんなことばかりを、それがあたかも確定した未来のように思い描く自分は、本当にカルロスを愛し
ているのだろうかと、おかしくなって笑い声がもれそうになる。
 だがそれが事実なのだから仕方がない。大きくなっていく腹に顔を当てて胎児と話しをするカルロス
や、身重の自分のために甲斐甲斐しく世話をしてくれる夫としての姿も、生まれた子にまなじりを下げ
る顔も思い描けないのだから。
 服のポケットから写真のようなカードを取り出して眺める。
 エコーに映った、今レイリの中にいる子どもの姿。
 かろうじて頭と足と丸まった体が識別できる。
 だがそれは母親となった自分の本能のなせる業なのだろうか、確かに自分の中でこの子どもが宿って
いるのだとイメージできた。それもリアルに。こんな風に体を丸めて、まだできたばかりの親指を口に
咥えて眠っているのだ。やがてこの光と苦痛に満ちた世界に生まれ出る日を夢見て。
 それでもこの子を愛していると声を大にして言ってあげられなかった。
 まだ見ぬこの子のために、自分に訪れるかもしれないリスクを受け入れる覚悟ができなかった。
 自分一人でそのリスクを背負おうとしたら怖いに決まっている。ローズマリーはそう言ってくれた。
 きっとマリーは一緒に背負おうとしてくれるだろう。でも、やはり一緒に背負って欲しいのはカルロ
スなのだ。この子は自分とカルロスの子どもなのだから。
 でも、打ち明けることは、そう思うだけで心臓が早鐘になるほどに恐ろしいことだった。
 打ち明けた一瞬の、そのときのカルロスの顔を見るのが怖い。
 そう思いながらエコー写真の中の子どもに話し掛ける。
「ごめんね、こんなお母さんで」
 自分の腹に添えた手の下は、まだ冷たく平らだった。




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