第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑




 目があった瞬間、口を開く前にローズマリーが頷く。
 おそらく酷く不安そうな、縋るような目をしていたのかもしれない。何も言葉を求めず、駆けつけて
くれたことを労うように、弟の腕を握って頷く。
「医局へ行ってくる」
「うん」
 すでにするべきことが分かっているローズマリーに、ジャスティスは全ての判断を預けて頷く。
 足早にエレベーターに乗り込み、アンネのいる階へと上がっていくランプを睨む。
 二人の間に無言の、だが確実に焦燥に焦げていく空気の匂いが立ち上っていた。
 胸の内で、言っても意味がないと分かっていながら「早く早く」と呪文を唱える。
 何に対してそんなに早く物事が進むことを願っているのかすら分からずに、だが気持ちだけが急く。
 軽い眩暈を起させるエレベーターの浮遊感の後、エレベーターのドアが開く。
 まだ朝早い時間ゆえに、病棟は静かに地を這うように進む時間の中に沈んでいた。
 そんな中でも、看護師たちはあちらこちらと足を止めることなく動き続けている。
 その一人がローズマリーとジャスティスに気付き、押していたカートを止めると足早に近づいてくる。
「アンネでしょう?」
 開口一番で揺らぎのないはっきりした声でそう言うと、ローズマリーについて来てと示す。
 ジャスティスは自分が招かれていないことに気付いて、ここで待つことを示して姉に行くように促が
す。
 それに頷いて歩き去る後ろ姿を見送り、壁に寄りかかったジャスティスは俯くと腹の底から溢れるた
め息をついた。
 どこまで行っても、追いつけない背中を見送った気がした。
 葛藤することもあるのだろう。でも、真っ直ぐに芯の通ったブレのない姿勢が、ジャスティスには決
して真似できないことだった。自分はいつも不安に後ろを振り返り、何度も確かめているうちに真っ直
ぐ歩いているつもりだった足元が、曲がりくねって、行こうとしていた場所とは違う場所へと向かって
いることがよくある。
 自信がもてない。自分がやろうとしていることに、肯定の視線があるのか、それとも否定の囁きが聞
こえてくるのか、それを確かめずに前に進むことができない。ただ、目標に向かって一直線に突き進む
ことなど、出来ようはずもない。
 ローズマリーは、振り返らない。横も見ない。突っ走るわけではなく、自分の前にある道を検分しな
がらも、臆することなく前へと足を踏むだし、確実に進んでいく。
 そんな強靭な精神が、ジャスティスには羨ましくて仕方がなかった。
 目の前を、自分より幾分年上だろう若い看護師が歩いていく。
 夜勤をしたのだろう顔は、だが疲れよりも充実した自信で溢れていた。
 自分に与えられた責務をしっかりと果たし、誰かに必要とされる存在であることを、そしてその存在
の助けになれる力があることを感じとっている表情。
 ジャスティスには、その看護師の姿が眩しく感じられた。
 自分にも頼ってくれる存在がいる。
 アンネ。アンネの母。レイチェルも、お腹が減れば頼ってくるかもしれない。
 そう考えて、ジャスティスはクスっと笑いを漏らした。
 自分の側には、たくさんの人がいて、自分を支えてくれている。自分が助けてもらっている以上には
とても返せないが、少しでも自分が助けになれる場面があるのかもしれない。
 悲観よりも、自分の今ある立場を最大限に生かして、助けになれる人間になろうとあがくだけ。それ
しかできない。
 そう思っていたところへ、ローズマリーが戻ってくる。
 神妙な、悪いニュースを抱えた苦渋の表情がそこにあった。
「………アンネの容態は?」
  意を決して尋ねる。アンネの友人としてではなく、医学に携わるものとしての冷静な気持ちで。
「……良いとはいえないわね。……免疫抑制剤の力を上回って、自己免疫システムが体の中を破壊して
いる。さらに悪いことに、がん細胞の増殖も認められている」
 ため息をつきたいところを堪え、ジャスティスが頷く。
 なぜ異物であって自分の体を破壊するがん細胞を攻撃せず、本来の自分の体を攻撃するのだろうか? 
人間の免疫システムはそんなにも愚かなのか?
 悪態をつきたい気分が顔に出たのか、ローズマリーが言う。
「人間の免疫システムは、わたしたちが思っているほどザルのように粗い監視網を敷いているわけでは
ないのよ。より精度が高く、理知的に働いている。騙そうとすれば、騙されまいと狡猾になる」
「アンネの免疫も、騙して入れた幹細胞を敵と認識している?」
「ええ。止められるかどうかは、わからない」
「白血病のがん細胞も叩かないとならないし」
 言いながら、二人の間で沈黙が流れる。
 だがそれに、アンネの疲れきった体が堪えられるのだろうか?
 限りなく黒に近いグレーゾーンにある答えに、二人は問いを言葉にすることもできなかった。


 医師の許可とアンネの母の望みで、病室の中にローズマリーとジャスティスが入る。
 鎮痛剤でうつらうつらしている意識の中で、アンネがぼんやりとした目を開けていた。
「アンネ」
 ジャスティスが声をかける。
 一瞬、眠っているのかと思うほどに緩慢な動きで瞬きしたアンネが、目を巡らせ、そこに二人の姿を
認めてほほえむ。
 蒼ざめ、艶を失った唇の上に、だが冬の雪の下から覗いた春の花のような可憐な笑みが浮ぶ。小さく
か弱く、だからこそ大事に両手で守ってあげたくなるような笑みだった。
 布団の中から出された手を握り、その手の甲に口づける。
「ジャスティス。……手の甲のキスは挨拶。……手の平が求愛のキス」
 爪の色も白を通り越して紫がかっている。それを一瞬目の端に捕らえながら、ジャスティスがそれを
無視してほほえむ。
「アンネが大きくなったら、そっちのキスをしてあげるから」
「………ありがとう」
 だがジャスティスに返答に女の子らしく照れてほほえむでもなく、達観したような静かな穏かな笑み
の中でアンネが言う。
 まるでそんな日は決して来ないと悟っているように。
「アンネ。毎日、ママと二人だけではつまらないでしょう。これからは毎日、わたしもジャスティスも
アンネに会いに来るからね」
 ローズマリーがアンネの髪を撫でながら言う。
 その手の動きに気持ちよさそうに目を閉じたアンネが、小さく頷く。
「ありがとう。……でも、……二人とも忙しいから、……わたしのために無理はしないでね」
 か細い、一言発するだけでも全力で走り抜けるほどの体力を消耗するような話し方に、ジャスティス
はツバを飲む。
「そんな事言って、アンネはわたしたちに会いたくないの?」
 ローズマリーが、大人びて気を遣うアンネを困った子ねと軽くいなすように言うと、アンネが無言で
目を閉じたままで笑う。
「会いに来て。……前に約束した……ハイキングにも連れて行って」
「ええ。忘れてないわ」
 楽しい女友達との会話のように、ローズマリーが元気に答えを返す。
 だがジャスティスには、震えそうになる息を堪え、笑みを装ってアンネの手を握っていることしかで
きなかった。
 やがて麻酔が効いて眠りに落ちたアンネの手を布団の中にしまい、病室の外に出る。
「ありがとうございました」
 深々と頭を下げるアンネの母に、ローズマリーとジャスティスが「いえ」と言ったきり言葉を無くす。
 疲れてはいても、生きる力は無くしていない光の灯った目が二人を真っ直ぐに見据えていた。
「あの子が完全なる完解へと向かうかどうかは、もう神さまにしか分からないことです。でも、だから
といって悲観して終わりに向かえたくはありません。あの子にとって、毎日を楽しいものにしてあげた
いんです。ですから、どうか、あの子の力になってあげてください」
 再び深々と頭を下げたアンネの母に、ジャスティスがその手を握り、ローズマリーもその肩を力づけ
るように抱きしめる。
「できることは何でもさせてもらいます。アンネにとって一番のクスリはお母さんの笑顔ですから、苦
しくなったら言ってください。お母さんが休むことも大事な仕事ですから」
 ローズマリーの真剣な言葉に、アンネの母も頷く。
 その遣り取りを見ながら、ジャスティスはアンネの母の決意を感じ取っていた。そして言葉を見出せ
なくなる。
 積極的な治療よりも、いかに残された時を有効に過ごすか。そちらに重点を移すことを匂わせる発言。
 それだけでジャスティスの脳裏を「死」という言葉がちらつく。
 そっと窺い見たローズマリーは、その決断を受け入れたように頷いている。
 病室の中に戻っていくアンネの母を見送り、ローズマリーとジャスティスはガラス張りの病室の向こ
うで眠るアンネの顔を見つめていた。


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