第七章 暗闇の中で手招きする甘美な誘惑



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 まだ人もまだらな病院の休憩ブースで、アンネの母がうな垂れて座っていた。  ジャスティスを見つけて頭を下げたまでは気丈であった姿が、今は疲れて弱り果てていた。  その姿を両手に熱いコーヒーの紙コップを持ちながら、ジャスティスが息をつめて眺めた。  なんと声を掛けたらいいのか分からなかった。  いったい自分に今求められている最良の役割とはなんであるのか、どうしてやることができるのか。 固まって錆びきってしまったブリキのように軋む足で、ジャスティスは怯えていることしかできなかっ た。  アンネの母が顔を上げる。  隈が目の下に浮び、ただ束ねただけの髪に白髪が混じっている。  ここ数日で一気に老けてしまっていた。  そう感じとりながら、ジャスティスはなんとか笑みを浮かべると、その隣りの席にまで歩いていった。 「はい、コーヒー。疲れていそうだったので、甘くしちゃいましたけど、よかったですか?」  まだ病院中の電気が点けられていない薄暗い空間の中で、紙コップから白い湯気がゆらゆらと上って いく。  病院の消毒薬の匂いをかき消し、コーヒーの芳ばしい匂いが辺りに広がる。 「ありがとう」  笑顔を浮かべたアンネの母がカップを受け取り、目を閉じて匂いを嗅ぐと、一口すする。  その暖かさと誰かと一緒に居られることが今まで張り詰めていた緊張をほぐしたのか、トンと背もた れに背中を預けると、ゆっくりとため息を吐く。  それを心配そうに見つめていたジャスティスだったが、目を閉じたままでもその気持ちが伝わったの か、アンネの母がフッとほほえむ。 「心配してくれてありがとう。わたしは大丈夫だから」  下からそっと見上げたアンネの母がほほえむ。  目尻に皺がよった優しい母の笑顔だった。 「……アンネは?」  触れるだけで苦しくなるが、決して避けて通れない話題に、ジャスティスが囁くように小さな声で言 う。 「うん」  紙コップの中で渦を巻いている白い泡を眺めながら、気持ちの見えない無表情ともいえる笑みを貼り つけ、アンネの母が頷く。  何度も口を開いて話し出そうとするのに、思いが言葉にならないのか、息を吸い込んでは言葉を探し て目を彷徨わせる。  ジャスティスはそれを横でじっと見つめていた。焦らせることなく、じっと心の整理ができるのを待 っていた。。  やがて口を開いたアンネの母が、笑顔のままに口元を震わせ、伏せていた顔をさらに俯かせた。 「ごめんなさい。もう泣かないって決めたのに」  ぎゅっと唇を噛みしめて言うアンネの母に、ジャスティスはそっとその肩を抱き寄せる。  ぎこちなく抱きよせたジャスティスの胸に、アンネの母が顔を寄せる。 「辛いのはわたしじゃないのに。苦しいのをがんばって耐えているのはあの子なのに。あの子は絶対に 泣かない。だからわたしも泣いてはいけないのに」  体中に力を込めて涙を堪えているのは、抱きしめているだけでジャスティスにもはっきりと分かった。  そっとアンネの母の背中をさする。 「がまんしないで。アンネを愛していればこそ、側にいるあなたが苦しいのは分かるから。体を中から 引き裂かれる思いだということは、痛いほどに分かるから」  その言葉に、アンネの母の体が嗚咽で震えはじめる。 「なんであの子がこんな目にあわないとならないの? あんないい子が。がんばって、がんばって、い ろんなことに我慢して笑ってきたあの子が、まだ我慢しろっていうの? どうしてあの子が………」  ジャスティスの胸のシャツを握り締め、アンネの母が叫ぶ。  苦しみや不自由からの解放へと向かっていると思っていたアンネの未来への階段の先は、幸せへとは つながっていなかった。そういうことなのか。  ジャスティスは自分の頬にも流れ出した涙を感じながら、理不尽な運命の輪を思って悔しさを噛みし めた。  苦しみの果てに約束された未来があると思って階段を息を切らせながら上ってきたのに、その先にあ ったのは、転落だった。踏み出した先に、足を置くべき段が用意されては居なかった。あったのは暗く、 どこまでも落ちていく穴だったというのか。 「アンネ………」  呟いたその名前は、あまりに苦く胸を締め付けた。  アンネの母が語ったアンネの病状は、あまりに強烈な苦しみを伝え、ジャスティスは何度も体の中か ら溢れ出すフラストレーションをため息として吐き出さずにはいられなかった。  やっと始まった普通食にアンネは喜んでいた。だがその夜、突然の強烈な腹痛に襲われた。  止まらない下痢はついには下血へと至り、最後はモルヒネによって鎮痛するほどになった。  食事は完全にストップ。栄養を全て点滴に頼る方向へと切り替わった。  だが体の内部で起こった反乱は収まることなく続いていた。  内蔵への自己免疫による攻撃に痛みをともなう下血が続き、貧血で起き上がることもできなくなった。 眠ることもできない痛みにアンネはうめき続け、アンネの母はただ側にいて体を摩って手を握ってやる ことしかできなかった。  鎮痛剤が効き、時折訪れる静寂の時間には、気絶するように眠りに落ちる。  それがここ数日の出来事であったらしい。 「免疫抑制剤は?」  ジャスティスとて医学生とはいえ、ほとんど専門分野の勉強に入っていない。知識の量は一般人とさ して変わりはしない。  ここにローズマリーがいれば、少しは将来の見通しを考えることができるのだが、今のジャスティス ではいたずらに不安を増幅させるだけだった。 「違う薬剤を使って様子をみるみたいだけど、体のダメージが大きくて、どれだけ堪えれるか、ドクタ ーにも分からないと」  体が堪えられるか。それはイコールアンネがどれだけ大きな苦しみを乗り越えられるかということな のだ。  苦しすぎる病気との闘いの末に、今度こそ明るい未来が待っているという保証があるのだろうか?  人間の大きな欲望のうち、最大の睡眠欲、食欲を強制的に奪われ、その上でまだ痛みに耐え続ける。  その先にあるのが、もし死であったとしたら、アンネのがんばりはどうなってしまうのか? 無駄な 努力だったとみなされるのか。それとも、それでも生き続けようと足掻いたことに価値があるのだろう か?  アンネにとって最良の選択とは何なのか?  考えても答えのでない堂堂巡りを続ける脳内が、腫れあがるような痛みを感じさせる。心が痛かった。 「ぼくでは何もわかりません。何の役にも立てない。姉がここに居てくれたら、もっと適切な答えが返 せるのかもしれないけれど」  疲れたように小さく言うジャスティスに、アンネの母がハンカチを握った手で顔を上げる。  泣き腫れた目は真っ赤で、わずかにした化粧のファンデーションに涙の痕を残していた。  そんな目で見られて、ジャスティスは真っ直ぐにその視線を受け止めることができずにうな垂れた。  頼って電話をしてきてもらっても、自分にできたのは駆けつけるだけだった。  疲れているアンネの母をねぎらうことも、力づけることも、アンネのためにしてあげられることもな い。何の役にも立っていない。  だがそう思っていたジャスティスのテーブルにのった手を、アンネの母が上から覆った。 「側にいてくれるだけでいいの。何も言ってくれなくても、何もしてくれなくても。一緒にアンネを見 守ってくれる人がいてくれるだけで嬉しいから」  赤い目にほほえみを浮かべ、顔を上げたジャスティスにアンネの母が言う。 「ごめんね。どうやらわたしの中にさっきまで溜まっていた不安や恐怖を、みんなジャスティスくんに 流し込んじゃったみたいね」 「え?」  あまりに晴れやかにほほえまれ、ジャスティスは呆気にとられた間抜けな顔を向ける。 「だって、わたし、なんだかジャスティスくんと話して元気になったもの。まだまだアンネと一緒に闘 えるって」  空元気なのかもしれなかった。でも、ジャスティスにはアンネの母が萎れた花が新たに水を与えられ てシャンと背を伸ばして、太陽に向かって顔を上げたように、輝きだしているように見えた。 「ありがとう」  心からの言葉を贈られ、ジャスティスは首を横に振る。 「ぼくなんて何もしてないです」 「いいえ。ここに来てくれた。それに話を聞いてくれた。そして何よりも、心からアンネやわたしを思 いやってくれた。それがなによりも嬉しいことだから。目には見えなくても、愛情こそが一番のプレゼ ントで、生きていくための心の栄養だから」  アンネの母が頭を下げる。 「本当にありがとう」  疲れ果て、今にも折れそうだと感じた女性は、今はどこにもいなかった。  そんな姿に小さく笑みを浮べ、ジャスティスが視線をすっかり冷めてしまったコーヒーに向けた。  カップの表面で、ミルクが冷めたコーヒの上で膜を張ったように揺らめいていた。 「アンネには元気になった笑顔を見せて欲しい。だからがんばって欲しい。本当にそう思うんです。で も、がんばれって言えば言うほど、アンネは苦しむことになる。それじゃあ、アンネはかわいそうだ」  自分が何を言いたいのか分からないままに、ジャスティスが告げる。言うべきではないのかもしれな い言葉であると分かっていながら、言わずにはいられなかった。  生きていて欲しい。でも、脳裏に浮ぶのは安楽死の文字。  溺れそうな葛藤に目を瞑ったとき、アンネの母が立ち上がり、ジャスティスの肩に手を置いた。 「人間は何のために生きているのかしらね。誰もがいろんな夢をもって、幸せになりたくて必死にあが いて生きている。でも、何のためにあがいているのかしら? この頃よく考えるの。わたしは、何度も 目的を見失って、向かうべき方向を間違えてしまった。  でも、そうやって何度も迷ったからこそ、少し分かる気がするの。わたしたちは、誰かに愛され、愛 していると感じるために生きているのではないかと」  ただ静かに語ってアンネの母がほほえむ。 「なんだか説教臭いわね」  そういうと、呆然としているジャスティスの髪を母親のようにクシャクシャと撫で、休憩ブースを出 て行く。  真っ直ぐに伸ばされた背中は、美しくさえあった。  ちらほらと増え始めた人の姿の中へと消えていくアンネの母を見送る。  そしてその向こうから自動ドアを潜って来るローズマリーの姿をみつけ、ジャスティスも立ち上がっ た。
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